2019早大・文化構想2/12
問3.下線b当時の天皇には、成人として十分成熟し、政務能力を持っていることが求められていたに関連して、9世紀になり政治が安定すると、10歳に満たない天皇(幼帝)が誕生するようになった。それは誰か。1つ選べ。
ア.淳和天皇 イ.文徳天皇 ウ.仁明天皇 エ.清和天皇 オ.光孝天皇」
(答:エ)
〈2018早大・国際教養
問1.下線部a六国史について説明した文として誤りを含むものはどれか。1つ選べ。
ア. 中国の歴史書の体裁にならった漢文編年体の正史である。
イ.『日本書紀』には、持統天皇までの歴史が記されている。
ウ.『続日本紀』には、三世一身法と墾田永年私財法が引用されている。
エ.『日本三代実録』の三代とは、清和・陽成・光孝の三天皇のことをさす。
オ.『日本文徳天皇実録』は、六国史の最後の書である。
(答:オ× ※最後は『日本三代実録』)
〈2017早大・教育
問6 下線部c桓武天皇について述べた文として、正しいものはどれか。
ア 藤原種継が暗殺されたことから、長岡京に遷都した。
イ 徳政相論において、菅野真道の意見を採用した。
ウ 『延喜式』を編纂させた。
エ 父は光仁天皇、母は渡来系氏族出身の高野新笠である。
オ 空海に教王護国寺を与えた。」
(答:エ〇 ※ア×暗殺の結果長岡京を捨てた、イ×軍事と造作の継続を主張する菅野真道の意見を退けた、ウ×醍醐天皇の時代、オ×嵯峨天皇より空海に下賜された)
805(延暦24)年 桓武天皇、藤原緒嗣の議で征夷と造営を停止。
天皇は晩年(805年)、徳政相論により軍事(東北遠征)と造作(造都などの大土木工事)に中止の断を下した。
覇を好むとぞ 乙軍事。
805年 桓武天皇 徳政相論 造作 藤原緒嗣 軍事
延暦24年(805年)、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。
In 805, the expedition was cancelled by Emperor Kanmu, who accepted FUJIWARA no Otsugu's argument
that military expeditions and the construction work for the new capital were placing an intolerable burden
on the people (Great Political Debate).
後に藤原緒嗣により「今天下の苦しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」のである。
FUJIWARA no Otsugu criticized this war against Ezo, saying, 'The causes of
suffering in today's world are military affairs and construction,' and that it had 'played a great role in enhancing the Emperor's political power.'
長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した。(「徳政論争」)、桓武天皇は翌年に崩御した。
Mamichi who was old, had served the emperor for years, and had been exceptionally promoted from a rank of low-ranked scholar made the best effort to object to Otsugu considering the emperor's intention, however, the emperor finally accepted Otsugu's assertion, announced the discontinuation of the subjugation of Ezo and the
construction of Heiankyo which should be the lifework of the emperor ('Tokusei Dispute') and died in the next year.
927年 藤原忠平ら醍醐天皇に「延喜式」撰上
苦になっただけ 延喜式。
927年 藤原忠平 醍醐天皇「延喜式」
〈2017中央大・文
710年、平城京への遷都が行われた。奈良時代、中央政界では権力争いが繰り広げられた。まず、藤原不比等の子である武智麻呂・房前・a宇合・麻呂の四兄弟は、左大臣長屋王を自殺させ、不比等の娘である 光明子を聖武天皇の皇后に立てた。だが、この四兄弟は疫病であいついで亡くなり、橘諸兄が実権を握った。これに対し、藤原b広嗣が九州で反乱を起こしたが、まもなく鎮圧された。その後、光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂が権力を握ると、これに反発した橘諸兄の子のc奈良麻呂が仲麻呂打倒を企てたが失敗した。仲麻呂は淳仁天皇からd恵美押勝の名を賜り権勢をふるったが、孝謙上皇に寵愛された道鏡が台頭すると、それを除こうと挙兵したものの失敗に終わった。その道鏡も称徳天皇(孝謙上皇が重離)が亡くなると失脚し、称徳天皇の次の天皇にe桓武天皇が就いた。
問6.下線部a~eについて、これらの中に誤りの箇所が一つある。次のア~オの中から正しく訂正しているものを一つ選べ。
ア.誤りはaで、正しくは百川。
イ.誤りはbで、正しくは冬嗣。
ウ.誤りはcで、正しくは清麻呂。
エ.誤りはdで、正しくは吉備真備。
オ.誤りはeで、正しくは光仁。
(答:オ)
〈2017早大・商
問F 下線部へ.天皇は父子相続となりに関連して、父子関係にない天皇の組み合わせはどれか。
1桓武-嵯峨 2嵯峨-仁明
3仁明-文徳 4文徳-清和
5陽成-光孝
(答:5光孝は仁明天皇の第三皇子。)
〈2014早大・人間科学:「
歴史書の編纂は平安京に遷都した後も継続され,『続日本紀』からf『日本三代実録』まで5つの勅撰の正史が残された。
問6 下線部f『日本三代実録』に事跡の描かれた3天皇の組合せとして,正しいものはどれか,1つ選べ。
ア 淳仁・称徳・光仁
イ 清和・陽成・光孝
ウ 桓武・平城・嵯峨
エ 淳和・仁明・文徳
オ 宇多・醍醐・朱雀
(答:イ)
〈2013早大・文
平安時代に入ると、藤原良房が承和の変により、伴健岑・橘逸勢を排除した。また、応天門の変によって伴善男を排斥し、[ C ]天皇の摂政となった。ついで良房の養子の基経が関白となり、摂関政治の基礎を築いた。
問4 空欄Cにあてはまる人物は誰か。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
ア醍醐 イ文徳 ウ仁明 エ陽成
オ清和
(答:オ)