1896年 黒田清輝ら、白馬会を結成。
人は黒だが白馬会。
1896年 黒田清輝 白馬会
[point]
1.黒田清輝は白馬会を結成し、代表作は『朝妝』『湖畔』と『読書』である。
[解説]
1.黒田清輝(1866~1924)は法律研究のためにパリに留学したが、画家に転向。帰国後、洋画団体「白馬会」を結成(1896)。白馬会はフランス印象派の影響をうけた明るい作風で、外光派と呼ばれた。明治美術会を脱退した自由主義派が結成した白馬会は、浅井忠らの明治美術会と対立した。1898年東京美術学校教授。
2.黒田清輝は、滞仏時代の成果『朝妝(ちょうしょう)』を内国勧業博覧会に出品し(1895)し裸体画事件を起こした。他の代表作は『読書』『湖畔』。
3.白馬会の中心は黒田の他、和田三造・青木繁・藤島武二ら。
〈2017センター試験日本史A:「
問3 下線部b高橋由一の描いた絵画として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.絵画図版(省略)
2.絵画図版(省略)
3.絵画図版(省略)
4.
(答:4(図版『鮭』(高橋由一作)) ※なお1~3の絵画は『海の幸』(青木繁作)、『湖畔』(黒田清輝作)『悲母観音』(狩野芳崖作)だった。図版等で確認されたい)〉
〈2016関西学院大学・全学部
科学では、志賀潔が赤痢菌を発見し、また鈴木梅三郎はビタミンB1の抽出に成功するなど、世界水準の研究も発表された。文学や芸術の分野においても、言文一致体で『浮雲』を書いた二葉亭四迷やe西洋画の黒田清輝らが活躍した。さらに演劇や音楽でも新しい動きがみられた。
問4.下線部eに関連し、明治期に活躍した洋画家を下記より選びなさい。
ア.狩野芳崖 イ.橋本雅邦
ウ.下村観山 エ.浅井忠
(答:エ)〉
〈2013南山大学:外国語(英米)総合政策
1923年、関東大震災が起こり、社会的混乱が広がった。急いで帰国した土方与志は、小山内薫とともに。劇団築地小劇場を立ち上げ、あわせて専用の劇場も建設した。そこでは、芸術は民衆に奉仕するものとして、芸術性が迫求され、実験的な演劇が試みられた。
その後、関東大震災以降の不安な世相は、昭和恐慌によってさらに追打ちをかけられ、c.「エロ・グロ・ナンセンス」の言葉で象徴されるような風潮が大正末期から昭和初期にかけて広がった。
問19 下線部cについて述べた文として、正しいものを、下記のア~エから、一つ選びなさい。
ア浅草では、エノケンこと榎本健一らによる大衆演劇が人気を呼んだ。
イ三島由紀夫は、猟奇的・耽美的な作風の探偵小説を発表した。
ウ永井荷風が娼婦と情死した事件は、社会に衝撃を与えた。
エ内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の「朝妝」は、裸体画論争を引き起こした。」
(答:ア。※イ×三島由紀夫は戦後の作家、ウ×永井荷風は病死、エ×事実だが、1895(明治28)年開催)
1895(明治28)年8月 第4回内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の「朝妝」は、裸体画論争を引き起こした。
飛躍来ないか 嘲笑か。
1895年 黒田清輝 内国勧業博覧会 『朝妝』
この際、黒田清輝が出品した裸体画・「朝妝」が問題視されたが、九鬼の判断で展示が許可されている。
At that time, a nude portrait painted by Seiki KURODA, 'Chosho' (Le Lever) became a subject of discussion, but Kuki permitted the exhibition of the portrait.
▲『朝妝』
〈2012大学入試センター・日本史A:「
問3 下線部b万国博覧会で高い評価を得た陶磁器に関連して、幕末期以降の日本の美術・工芸について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 工部美術学校は、伝統的な水墨画や木彫の実技教育のために設立された。
② 岡倉天心が、西洋の宮廷に飾られた陶磁器を民芸として日本に紹介した。
③ 幕末に開催されたパリ万国博覧会には、日本から浮世絵が出品された。
④ 黒田清輝ら洋画家の尽力により、日本初の万国博覧会が開催された。
(答:③〇、※①×工部美術学校は、西洋の絵画・彫刻を教授。②×岡倉天心は日本の伝統美術の復興に尽力した。「民芸」は大正末期の柳宗悦による造語。④×内国勧業博覧会が正しい。万国博覧会は1970年の大阪万博。
〈2005大学入試センター・日本史B追試
問5 下線部(c)日本の近代洋画に関して、次に掲げた明治期の洋画(『湖畔』)について述べた文として正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
① この絵を描いた狩野芳崖には、ほかに『悲母観音』という代表作がある。
② この絵を描いた狩野芳崖は、印象派(外光派)の画風を伝えた。
③ この絵を描いた黒田清輝には、ほかに『悲母観音』という代表作がある。
④ この絵を描いた黒田清輝は、印象派(外光派)の画風を伝えた。」
(答:④〇 ※①②×狩野芳崖は日本画家。③×『悲母観音』は日本画家狩野芳崖作)
1888年 狩野芳崖(61)没、『悲母観音』絶筆となる。
いやはや悲観カノン砲。
1888年『悲母観音』狩野芳崖
▲『悲母観音』
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