第2問
次の史料は、アメリカ合衆国のウッドロー・ウィルソン大統領が、1918年1月8日にアメリカ連邦議会で行った演説の一部である。
この演説で明らかにされたアメリカの外交政策は「14ヵ条の平和原則」と呼ばれている。
この史料を読んで、以下の問に答えなさい。(40点)
われわれが、この戦争の結末として要求することは、われわれのみに関係することばかりではありません。
それは、世界が健全で安全に生活できる場となることであり、とりわけ、すべての平和愛好国家にとって安全となることです。
〔中略〕
世界中のあらゆる人々は、実質的に〔中略〕利害を共にする盟友であり、われわれは他の人々に正義が行われない限り、われわれにも正義はなされないということを明確に認識しています。
世界平和の実現のための計画は、したがって、われわれの計画でもあります。そして、われわれの考える唯一可能な計画とは、以下のようなものです。
1. 平和の盟約が公開のうちに合意された後は、外交はつねに正直に、公衆の見守る中で進められねばならず、いかなる種類の国際的秘密協定もあってはならない。
2. 領海外の公海においては、戦時、平時を問わず、完全な航行の自由が認められねばならない。例外的に公海を閉ざすことができるのは、国際的な取決めを実行するために、国際的な行動がとられるときのみである。
3. すぺての経済障壁をできる限り除去し、平和に同意し、それを維持するために連合するすべての国家間に、平等な通商条件が樹立されねばならない。
4. 自国の安全に最低限必要なところにまで国家の軍事力が削減されるように、充分な保障が相互に与えられねばならない。
5.(1)植民地に関するいかなる要求も、自由かつ偏見なしに、そして厳格な公正さをもって調整されねばならない。主権をめぐるあらゆる問題を決定する際には、当該地域の人々利害は、独立後の政府の公正な要求と平等の重みをもって扱われなければならない。
6. (2)ロシア領内からすべての軍隊は撤退しなければならない。また、ロシアをめぐるすべての問題は、世界の他の国々から最善の自由な協力を得られるように解決されねばならない。そして諸国は、ロシアが、妨害されたり、苦しめられたりすることなく、独自の決定にもとづいて、自らの政治的発展と国家政策を追求する機会が得られるようにしなければならない。またロシア自らが選んだ政治制度のもとに、自由な国家からなる国際社会に入ることを心から歓迎することを約束し、そして、歓迎するにとどまらず、ロシアが必要とし、望むかもしれないあらゆる援助を与えることを約束しなければならない。
7. ベルギーからの撤兵と同国の回復が行なわれなければならない。その際、ベルギーが他の自由諸国と同様に享受している主権を制限しようとするいかなる試みもあってはならない。
8. フランスの全領土が解放され、侵略を受けた地域は回復されなければならない。また、[ (3) ]に関する問題で1871年にプロシアがフランスになした不正は、約50年間世界の平和を脅かしてきたのであるから、すべてのものの利益になるよう平和をもう一度確立するために、直さなければならない。
9. (4)イタリア国境の再調整は、明らかに民族を区別することができるような線に沿って行なわれなければならない。10. (5)われわれは、オーストリア=ハンガリーの国際的地位が保障されることを希望するが、同国の諸民族には、自立的な発展のための最大限自由な機会が与えられなければならない。
11. ルーマニア、セルビア、及びモンテネグロからの撤兵が行なわれなければならない。外国軍によって占領された地域が回復され、セルビアは自由で確実な海の出口が保障されなければならない。さらに、バルカン諸国間の相互関係は、歴史的に形成された帰属と民族分布の境界線に沿って、友好的な協議により決定されなければならない。バルカン諸国に対しては、それぞれの政治的・経済的独立および領土保全の国際的な保障が取り決められなければならない。
12. 現在のオスマン帝国の中のトルコ人居住地域は確保されなければならない。しかし、現在トルコ人の支配下にある他民族は、確実な生命の安全の保障と、絶対的に自由な自律的発展の機会を与えなければならない。また、ダーダネルス海峡は国際的保障の下で、すべての国の船舶の自由通過および通商のために永久に開放されるなければならない。
13. 明らかに[ (6) ]人が居住する領土を含む独立した[ (6) ]国家が樹立されなければならない。その国の人々は、海(バルト海のこと)への自由で安全な通路が保障され、また国際規約によって、政治的および経済的独立と、領土の一体性が保障されねばならない。
14. 大国と小国とを問わず、政治的独立と領土の一体性とを相互に保証することを目的とした明確な盟約のもと、包括的な国家の連合が樹立されなければならない。
(歴史学研究会編『世界史史料』第10巻、岩波書店、2006年を参照。ただし、表現の一部を改め、( )の部分を補足した。)
問1 下線部(1)で提唱された考え方のもと、植民地の住民の間では、民族自決への期待が高まったが、現実には、戦後、敗戦国ドイツの旧植民地とオスマン帝国領の一部は戦勝国の間で分配された。その名目としての国際連盟の下で創設された仕組みの名を答えなさい。
問2 下線部(2)はロシア革命後のロシアへの干渉戦争のことを指している。
この干渉戦争に参加した国のうち、もっとも遅い1922年まで軍隊を駐留させた国の名を答えなさい。[5点]
問3 空欄[ (3) ]には二つの地域が入る。この二つの地域の名を答えなさい。[5点]
問4 下線部(4)に関連して、第一次世界大戦後、イタリアがセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(ユーゴスラヴィア)と帰属を争った港湾都市の名を答えなさい。[5点]
問5 下線部(5)にもかかわらず、オーストリア-ハンガリー帝国は解体された。チェコスロヴァキアの独立運動を指導し、帝国解体後、この国の初代大統領になった人物名を答えなさい。[5点]
問6 空欄[ (6) ]に入る国の名を答えなさい。[5点]
問7 アメリカ合衆国は、伝統的にヨーロッパの国際政治とは距離を置く姿勢をとり続けてきた。この観点から、第一次世界大戦中および戦後のアメリカ合衆国の外交を100字以内で説明しなさい。その際、以下の語句を必ず使用し、使用した箇所すべてに下線を引きなさい。[10点]
無制限潜水艦作戦 国際連盟 孤立主義
解説.
問1 「敗戦国ドイツの旧植民地とオスマン帝国領の一部は戦勝国の間で分配された。
「その名目としての国際連盟の下で創設された仕組みの名」のうち有名なのは後者「オスマン帝国領の一部」のものでイギリスの委任統治領とされたパレスチナやイラク、フランスの委任統治領となったシリア、レバノンなど。
連盟から統治を委任された、という名目で事実上の植民地化であった。
後者の「ドイツの旧植民地」とはアフリカと太平洋にあったものでアフリカは周辺をもっていた英仏が植民地を拡大するかたちで得、太平洋の赤道以北のドイツ領は日本がもらっている。以南はオーストラリアがもらいました。
この問いは「植民地の住民の間では、民族自決への期待が高まったが、現実には……」と未練がましい問い方で、これは一般的にはこういう表現をします。しかし東欧にだけ適応した民族自決というものは、東欧渚民族が大戦末期に動いていてドイツの配色が濃くなる中で独立宣言をしていたという現実があります。アジアにはそこまでの運動はありませんでした。みな戦後の民族運動です。冷たいものの、これが史実です。下の問5のチェコスロヴァキアも、問6のポーランドも1918年に独立宣言をした国でした。19年1月18日から始まるパリ講和会議はこれらの独立宣言にどう対処するかが課題でした。
問2 「ロシアへの干渉戦争……1922年まで軍隊を駐留させた国」は日本です。日本ではシベリア出兵といっている干渉戦争です。ウィキペディアの記事には、
日本は兵力7万3000人(総数)、4億3859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3333人から5000人の死者を出し撤退した。アメリカが7950人、イギリスが1500人、カナダが4192人、イタリアが1400人の兵力を投入。
とあり派兵数が突出していることが分かります。また他国は1920年には撤兵しているのに1922年10月まで駐留しています。
問3 「二つの地域」のヒントは空欄の後の「1871年にプロシアがフランスになした不正」です。普仏戦争の結果プロイセンがとった地域で。一般にアルザス=ロレーヌと一つづりで書いてしまう地域のことです。
問4 「イタリアがセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国(ユーゴスラヴィア)と帰属を争った港湾都市」はこの都市の名前で「○○○問題」と呼ぶくらいの戦後の大問題の一つでした。
イタリア半島と東のユーゴ( 1929年にユーゴスラヴィアと改称しますが、ここでは改称した名を使います)の間にあるアドリア海の港市です。かつてヴェネツィアが「アドリア海の女王」と呼ばれた中世にはこの地域は確かにイタリア人が住んでいました。
しかしイタリアは中世末オーストリアの支配下にはいり(1466)「未回収のイタリア」と呼んで奪回を夢見ていました。戦争末期は英米仏の3軍が駐留して国際管理の下にあったのですが、片目の詩人ダヌンツィオが子飼いの軍隊(約2500人)でこの都市から3国軍を追放して占拠してしまいます。
すでにパリ講和会議の方はイタリア首相オルランドが求めても叶えられず会議場から出ていくという状態になり(オルランドおらんど)、フィウメ市(現クロアチアのリエカ市)はユーゴ領と決まりました。
ダヌンツィオの挙行から、イタリア政府はそこまではやるべきではないとユーゴとラパッロ(ラパロ)条約(1920)を結び、港市フィウメを独立市として、どちらの領土でもないことにします。
怒ったダヌンツィオはイタリア政府に宣戦布告をすることになり、イタリア海軍の攻撃を受けて降参します。
この後はムッソリーニが権力を握り(1922)、武力で威圧してフィウメ市はイタリア領になりました(1924)。
ムッソリーニはダヌンツィオを英雄として厚遇し、亡くなると国葬にしました。
ダヌンツィオはイタリア・ファシズムの起源となった人物です。
問5 これは今年の問題では難問でした。山川用語集の頻度では1という1冊の教科書にしか書いてない人名です。マサリクはプラハ大学歴史哲学の教授で、『ロシアとヨーロッパ ロシアにおける精神潮流の研究』(成文社)という浩瀚な書を出しています。大学教授であるとともオーストリアの議会議員でもありした。独立運動は1907年から始めていて、戦争中はワシントン市で独立宣言を出し(奥さんがアメリカ人)、この年初代大統領に就任しています。
問6 ヒントは「独立した○○○国家が樹立されなければならない。その国の人々は、海(バルト海のこと)への自由で安全な通路が保障され」という独立を求めている国で、バルト海に接している国でなければならない、ということです。
この国も戦争末期に独立運動をおこない独立宣言もしています。
指導者はピウスツキです。大戦中はオーストリア軍に入っていましたが、1917年7月オーストリア皇帝への忠誠誓約を拒んで、彼の属する軍は解体しましたが、同時にピウスツキは投獄されました。
しかし1918年11月、ドイツ革命が起こると、ピウスツキは出獄してワルシャワに戻り、ポーランド共和国の独立を宣言して国家元首となりました。
問7 100字の課題は「第一次世界大戦中および戦後のアメリカ合衆国の外交」でした。
戦後がどこまでなのか不明ですが、一般に20年代ととっていいでしょう。
世界恐慌以降は崩れだすので、戦後体制を築き、それが維持されるまでです。
パリ不戦条約(1928)まで書くのは苦しい。たった100字なので、大戦中の外交だけでも100字になりそうで、指定語句をつなげて書いても充分な解答になります。
無制限潜水艦作戦……初めは中立であった米国はこの作戦で自国の船も沈められ参戦の理由となりました。
ウィルソンによる十四ヵ条の提唱ははずせません。
国際連盟……十四ヵ条の実現です。しかし米国は加入しませんでした。これが次の孤立主義です。
孤立主義……戦後は国際政治に参画しない方針です。といってまったく参画しなかったのでなく、ワシントン会議の開催、ドイツ賠償問題への積極的な介入(ドーズ案・ヤング案)もしています。連盟のどの会議にも米国代表はオブザーバーとして出席していました。パリ不戦条約も提案しています。徹底した孤立主義だけでは戦後の米国外交ははできない時代になりました。
[解答]
問1 委任統治(いにんとうち、mandate)とは、国際連盟規約第22条に基づき国際連盟によって委任された国が国際連盟理事会の監督下において一定の非独立地域を統治する制度である。 委任統治の対象地域は、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ帝国のアフリカ及び太平洋の植民地と、敗戦国オスマン帝国の支配下にあった中東地域である。 問2 日本 間3 アルザス、ロレーヌ 問4 フィウメ 問5 マサリク 問6 ポーランド
問7 初め中立であったアメリカは無制限潜水艦作戦によって参戦。 ウィルソンによって十四ヵ条が提唱され、戦後国際連盟が設立された。 しかし設立を提唱したアメリカは加盟せず孤立主義を選んだ。
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