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遣唐使

2017-06-02 | ベック式!日本史用語集

仲間のゲイボーイと/初トウキビ

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ))(玄昉(げんぼう))(の奈良時代遣使・吉備真備(きびのまきび))


[ポイント]

1.奈良時代初の入唐者は、吉備真備玄(げんぼう)・阿倍仲麻呂の3人である。

[解説]

1.吉備真備(693?~775)は、珍しく蔭位(おんい)によらずに大学を経て役人となり、公卿まで昇進。学業に優れ、717~735年唐に留学、帰朝後は新知識をいかんなく発揮して昇進を重ね、玄(げんぼう)と共に橘諸兄の政権の顧問格となる。藤原仲麻呂により九州の国司に左遷され一時不遇だった。しかし唐末の混乱(安史(あんし)の乱など)という国際情勢緊迫下に真備の軍事および国際知識が必要とされ中央政界に復帰。逆に勢威を失った藤原仲麻呂の乱を平定し、つぎの道鏡政権下でも右大臣に出世し、さらにその失脚後の光仁天皇時代も引き続き右大臣を務め死去。後の菅原道真と並ぶ学者政治家。

2.玄(?~746)、は法相宗の僧で、717~735年唐に留学し帰朝のとき経論(きょうろん)5000巻をもたらした。これらの経論は次々と書写されて流布、日本の仏教信仰確立に多大な貢献をした。玄は、唐で呪術的能力も学んでおり、聖武天皇・皇后光明子をはじめ皇室関係者の病気平癒に活躍し、その威光により仏教界で絶大な権力をふるった。また橘諸兄政権で大仏造営など護国仏教の確立に努めた。藤原仲麻呂により筑紫観世音寺に左遷され、同地で死去。

3.阿倍仲麻呂(698?~770?)は、留学生として717年に入唐。大学に学び科挙に合格(スゴイ!)、任官し要職を歴任。帰国を願ったが許されず、ようやく許されて753年遣唐使一行と帰途についたが、再び長安に戻り玄宗皇帝に仕え、ふたたび要職を歴任し、帰国を果たせず死去。その学識と文才は唐でも知られ、詩人王維李白と交友(これもスゴイ!)。望郷の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌はよく知られている。

〈2014同志社大・文:「遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。」
(答:玄昉)〉

〈2013明大・商:「しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄昉、吉備真備らの主導するところとなった。玄昉と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1)藤原百川 2)藤原武智麻呂 3)藤原緒嗣 4)藤原冬嗣 5)藤原広嗣】は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。」
(答:3橘諸兄、d(5))

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