あサクラ踏み墓守り。
(朝倉文夫)(墓守)
[point]
1.朝倉文夫の代表彫刻は『墓守』である。
[解説]
1.朝倉文夫(1883~1964)は、東京美術学校を卒業後、私塾を開くかたわら文展などに出品し上位入選を続け、明治末に最高傑作『墓守』を発表。親友萩原碌山(はぎわらろくざん)の死に遭遇したのち、突如、東南アジアへの旅に出る。この旅の経験がその後の作品に深みを加えたといわれる。1921(大正10)年に、東京美術学校の教授に就任、高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮と目されるようになった。
2.非常に多作であったが、戦時中の金属供出でほとんど多くを失う。戦後も精力的に制作し、日本各地に数多くの像を残している。
〈2016早大・文
問7 下線dさまざまな歴史上の英雄、政治家、軍人、学者らの銅像が設置されたに関して、図3(省略)の銅像の作者は代表作『墓守』で知られており、東京の谷中に彫塑塾を開いた。この人物は誰か。1つ選べ。
ア 朝倉文夫 イ 荻原守衛
ウ 新海竹太郎 エ 辰野金吾
オ 平櫛田中
(答:ア)
新海竹太郎仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、19歳で上京後近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官の薦めもあり彫刻家志望に転じた。1891年の除隊後、後藤貞行に師事。後藤は当時、高村光雲のもとで楠木正成像の原型の制作に当たっており、その助手を務めた。また浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学んだ。1896年に軍より北白川宮能久親王騎馬銅像の制作依頼を受け、1899年に原型を完成させた(翌年鋳造、1902年に設置)。
1910年 朝倉文夫『墓守』
逝くと朝から墓守り。
1910年 朝倉文夫『墓守』
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