用語リストへエ.ルイ14世の時代
■ポイント ルイ14世の政治の本質と、17世紀の国際政治の経緯を正確に捉える。
A ルイ14世
- a 太陽王 と呼ばれ、絶大な権力をふるう。b ボシュエ の主張する、
c 王権神授説 にもとづき、d 「朕は国家なり」 と述べる。(右図) - 財務総監 e コルベール を登用しf 重商主義政策 を展開。(前出)
- 1664年 g 東インド会社 再建。
→ インド植民地(シャンデルナゴルとポンディシェリを建設)。(後出) - h ヴェルサイユ宮殿 を建設。 → フランス絶対王政の全盛期を象徴。
- 治安・交通・衛生などに積極的に取り組む。
- 実態 i 貴族や都市自治体など特権団体 が大きな力を持ちっていた。
→ 王権による中央集権化の進み方はゆるやかだった。
解説
ルイ14世の統治は、絶対王政と言っても、国王から一定の特権を与えられたギルドのような職能団体や都市・村落などの地域共同体を媒介しての支配であり、中央集権的に直接国民を支配していたわけではなかった。そのような法人格を持った社会集団を中間団体または社団(corps)といっている。そのような観点から、この時代を「絶対王政」と規定せず、主権国家の形成期の一つの形態として「社団国家」と捉える見方も出されている。
- ▲1682年 ラ=サール、北米大陸のミシシッピ流域を探検。j ルイジアナ と命名。(後出)
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B侵略戦争 の展開。- 自然国境説を根拠としてライン川までの領有を主張。 → ハプスブルク家との対立深まる。
- a 南ネーデルラント継承戦争 1667~68 スペイン領ネーデルラントの継承権を主張して出兵。
- b オランダ戦争 1672~78 南ネーデルラント継承戦争の際のオランダの妨害に対する報復。
- c ファルツ戦争 1688~97 ファルツ選帝侯領(ライン川左岸)継承権を主張して出兵。
- ▲同時にアメリカ植民地でd ウィリアム戦争 起こる。 → e 第2次英仏百年戦争 の開始。
→ いずれも大きな成果は無く、多額の戦費は税金でまかなわれたので、民衆の負担は増大した。
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Text p.228
C 絶対王政の強化 1672年 財務長官a コルベール を遠ざける。- 1685年 カトリック国家の体制強化を図り、b ナントの勅令を廃止 する。
→ フランスにおける新教徒(c ユグノー )の信仰が認められなくなる。 - 影響:d ユグノーの商工業者が多数亡命したため、国内の産業発展が阻害された。
解説
新教徒であるユグノーはフランスではすでに少数派となっていたが、ルイ14世は宗教的な国家統一を進める意味でナントの勅令廃止に踏み切ったと思われる。ユグノーは改宗を強要され、国外移住も許されなかったが、密かに多くのユグノーが外国に亡命、とくにオランダ、プロイセン、スイスなどに逃れた。ユグノーは商工業者に多く、優れた技術を持っていたものも多かったので、これによってフランスの産業は停滞し、亡命先の国々の産業が盛んになった(スイスの時計業など)と言われている。
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Bスペイン継承戦争- 1701年 スペイン=ハプスブルク家の断絶に乗じ、孫のa フェリペ5世 をスペイン王位につける。
- 要因:b ルイ14世 がスペイン=ハプスブルク家の王位断絶に介入し領土拡大をはかったこと。
- 対立:c フランス 対 d オーストリア・イギリス・オランダ・プロイセン
- 連動:新大陸での英仏植民地戦争=▲e アン女王戦争 が同時に起きる。
- 1713年 f ユトレヒト条約 :ブルボン家のスペイン王位継承認められたが、イギリスは領土を拡大。
- フランスとスペインの合併は永久に禁止される。
- 新大陸のg ニューファンドランド ・h アカディア ・i ハドソン湾地方 をイギリスに割譲。
(イギリスは他に、スペインからj ジブラルタル ・k ミノルカ島 を獲得した。) - 1714年 l ラシュタット条約 でオーストリアに南ネーデルラントなどを割譲。
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・フランスの劣勢、財政悪化が始まり、フランス革命の勃発につながる。 1715年 m ルイ15世 即位
用語リストへオ.プロイセンとオーストリア
1.プロイセン
■ポイント 東方の小国から軍事大国化の歩みを理解し、それをめぐる西欧諸国の外交関係の変化に注目する。
Aプロイセン王国 三十年戦争後の17世紀後半 ドイツ諸侯の中で有力な領邦の一つとして台頭。- 1701年 a スペイン継承戦争 で神聖ローマ皇帝を助け、王国に昇格。
- 18世紀前半 2代b フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世 財政・行政の整備、軍備の増強を進める。→ c
- の基礎を築く。
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Bフリードリヒ2世 の統治- 1740年 オーストリアのa マリア=テレジア がハプスブルク家領を相続することに異議を唱える。
→ b シュレジエン (地下資源が豊かで工業が盛んな地域。現在はポーランド領)を占領。
Text p.229
- c オーストリア継承戦争 1740~48年
- 要因:プロイセンのB フリードリヒ2世 の領土拡張政策。
- 対立:d プロイセン・フランス・バイエルン公国 対 e オーストリア・イギリス
- 連動:アメリカ大陸ではf イギリス はg フランス とh ジョージ王戦争 を開始。
インドでは同じくi カーナティック戦争 が戦われる(七年戦争の時まで継続)。 - 結果:プロイセン側の勝利、1748年 j アーヘンの和約 でb シュレジェン を領有。
- オーストリアのa マリア=テレジア 、フランスと同盟。 = k 外交革命 (次項)。
- 18世紀後半のヨーロッパ五大国体制 :l イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシア
→ それぞれの主権国家が、領土拡張の利害を調整しながら、外交関係を展開した。
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C七年戦争 1756~1763年- a フリードリヒ2世 がオーストリアを攻撃し、開戦。しかし孤立し、苦戦。
- 要因:外交革命で孤立したプロイセンのa フリードリヒ2世 が起死回生のため起こす。
- 対立:b オーストリア・フランス・ロシア 対 c プロイセン・イギリス
- 連動:植民地でのフランスとイギリスの戦争が並行して起こる。(後出)
北米大陸でd フレンチ=インディアン戦争 インドでe プラッシーの戦い が起こる。
a フリードリヒ2世 と
c ヴォルテール
- 1763年 講和条約のフベルトゥスベルク条約締結。
→ プロイセンはf シュレジエン を確保。列強としての地位を高める。 - 植民地戦争ではg パリ条約 が締結される。
→ 植民地ではイギリスが勝利。植民地帝国(大英帝国)の出現。
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D啓蒙専制主義- a フリードリヒ2世(大王) はb 「君主は国家第一の僕」 と称す。
- フランスの啓蒙思想家c ヴォルテール を招く。(右図)
- d 啓蒙専制君主 として、上からの改革を進める。
= 信教の自由の承認、産業の育成、司法改革など国民の福祉向上を掲げる。 - 基盤:e グーツヘルシャフト で農民を使役するf ユンカー 階層。
→ 彼らが軍隊・官僚機構の支配的地位を占める体制であった。
解説
啓蒙専制君主とは、君主の権力を王権神授説に置くのではなく、法に基づく普遍的なものと捉え、国家の繁栄に責任を持つと考えることで、絶対王政の一つの変形である。フリードリヒ2世は宗教的寛容を表明し、産業の育成などを図るとともに、先進的な文化を採り入れる一方、国家の威信を前面に押しだして対外戦争を強行した。特にオーストリア継承戦争、七年戦争を勝利に導いたことによって「大王」と称賛されたが、国民に権利を与えたり、政治参加の自由を与えるものではなく、その支持基盤は封建的な地主層であるユンカーたちであった。
- ポツダムにg サンスーシ宮殿 を造営。自らも作曲し、フルートを演奏。
- 特徴:h 市民層の成長が十分でないため、君主が「上からの改革」を主導した。
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・国内のユンカー階級を基盤とした、軍事大国として、19世紀に強大化する。
2.オーストリア
■ポイント オーストリア=ハプスブルク帝国の大国化の過程と、多民族国家としての実態を知る。
Text p.230
Aオーストリア の大国化- 1699年 a カルロヴィッツ条約 でオスマン帝国からハンガリーなどの領土を獲得。(後出)
→ 領土拡大と共にハンガリー人、チェック人、クロアティア人などを含むb 複合民族国家 となる。 - 神聖ローマ皇帝位は従来のc ハプスブルク家 の継承が続く。
- 1713年 カール6世、プラグマティッシェ=ザンクティオンにより家督相続原則を定める。
- 1714年 d スペイン継承戦争 に参戦し、南ネーデルラント(後のe ベルギー )・
ミラノ・南イタリアなどの領有が認められる。
→ ヨーロッパの東西に領土を有する大国となるが、同時に多民族国家として困難深まる。
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Bマリア=テレジア カール6世の娘。ハプスブルク家の家督を継承。- 1740年 バイエルン公が反対を表明。プロイセンのa フリードリヒ2世 が同調。
- b オーストリア継承戦争 となる。 1740~48年
- 1745年 A マリア=テレジア の夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝位につく。
- 1748年 アーヘンの和約で講和。プロイセンのc シュレジエン 占領を認める。
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C外交革命- 1756年 オーストリアa マリア=テレジア がフランスのb ルイ15世 と同盟を結ぶ。
→ プロイセンを孤立させ、シュレジェンの奪回を図った。 - 意義 c ヨーロッパ国際関係の基軸であった、ハプスブルク家とフランス王家の対立が解消された。
→ オーストリアはロシアとも接近し、プロイセンの孤立をはかる。
解説
外交革命とは、18世紀ヨーロッパの国際関係におけるフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家という基本的な対立軸が崩れ、この二国(二家)が提携したことを指している。これによって、植民地でフランスと対立を続けていたイギリスと、オーストリアとドイツの主導権を巡って争っていたプロイセンとが提携するに至り、ヨーロッパはフランス=オーストリア対イギリス=プロイセンというブロック対立へと移行した。
- 新たな対立軸 海外植民地におけるd フランス 対 イギリス
ドイツ語圏におけるe プロイセン 対 オーストリア (ドイツ統一の課題が残る) - 1756年 f 七年戦争 フランス・ロシアと結び、プロイセン・イギリスと戦う。
→ 1763年 フベルトゥスベルク条約 で講和。g シュレジエン を失うが、帝位継承は承認される。 - ▲フランスとの友好関係を続け、娘のh マリ=アントワネット を後のルイ16世の后とする。
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Dヨーゼフ2世 1765~90 マリア=テレジアの子。母の政策を継承しプロイセンに対抗。- 啓蒙専制君主としてa 啓蒙専制主義 政策を実施。
= b 宗教寛容令 、c 農奴解放令 、教育・医療の充実など、上からの近代化をはかる。
→ 中央集権を図ろうとしたが、貴族層や地域社会の抵抗で失敗。 - d 複合民族国家 の状況が続く。
領土内にe チェック人 (ベーメン王国)、f マジャール人 (ハンガリー王国)、北イタリア地方、
さらにベルギーなどが存在した。
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・皇帝の画一的改革に対する反発が起こり、各民族の自治要求が強まる。
用語リストへカ.北方戦争とロシア
■ポイント ロシアはどのように近代化を進めたか。また、その大国化はどのように行われたか。
貴族の髭を切るA ピョートル1世
- 自ら西欧諸国を視察し、a 西欧化政策 を押し進め、領土拡張をめざした。
- 東方への領土拡張 シベリア経営を推進 → 清王朝との国境紛争起こる。
- 1689年 b ネルチンスク条約 清(c 康煕帝 )と国境を定める。
- デンマーク人▲d ベーリング にカムチャツカ探検を命じる。
- 1728年 アメリカ大陸との間の海峡に到達。1741年 アラスカを領有。
- 南方:広義のe ロシア=トルコ戦争 オスマン帝国を圧迫しアゾフ海に進出。
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Text p.231
B北方戦争 1700~21年- 当時、a スェーデン がb バルト海 を支配。c カール12世 が統治。
- 要因:ロシアのd ピョートル大帝 がb バルト海 進出をめざした。
- 対立:e ロシア・ポーランド・デンマーク 対 a スウェーデン
- 1703年 f ペテルブルク (後にレニングラードに改称、現在旧称に戻る)建設。
→ 1712年より 首都とされる。ロシアの西欧化の窓口として繁栄する。 - 1721年 ニスタットの和約で講和。
→ ロシアがg バルト海の覇者 となり、ヨーロッパの大国としての地歩を固める。
解説
ペテルブルクの正式名称は「サンクト=ペテルブルク」で、ピョートル1世の守護聖人ペテロに由来するドイツ語風の表記である。1712年からロシア帝国の首都となった。第一次世界大戦が起こるとドイツ語表記をきらい、ロシア語のペテログラードに改称した。ロシア革命で首都はモスクワに移り、さらに1924年にロシア革命の指導者レーニンの名を冠してレニングラードとなった。ソ連崩壊後の1991年に現在のサンクト=ペテルブルクに戻った。
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Cエカチェリーナ2世 在位1762~96 ドイツ生まれで、ピョートル3世の妃となる。- 積極的な領土拡張を図る。
- 西方:1772~95年 a ポーランド分割 に加わり、領土を拡大。(次項)
- 南方:1783年 b クリミア半島 のクリム=ハン国 を征服。 オスマン帝国を圧迫。
- 東方:シベリア進出を進め、オホーツク海に進出。1792年 c ラクスマン を日本に派遣。幕府、交渉拒否。
- 初期にはd 啓蒙専制君主 として上からの改革をはかる。ヴォルテール、ディドロとも交遊。
- 1773~75年 e プガチョフの反乱 が起こる。コサックが南ロシアの貧農と結んで起こした反乱。
→ 反乱鎮圧後、国王は貴族と妥協し、f 農奴制を強化 するなど、改革は後退する。
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・バルト海、黒海、カスピ海、北海、オホーツク海に及ぶ大国になるが、国内には農奴制など古い社会が残存。
用語リストへキ.ポーランドの分割
■ポイント 啓蒙専制君主を戴くヨーロッパの三強国によって分割されたことの意味を考える。
Aポーランド の状況- 15世紀 リトアニア=ポーランド王国 a ヤゲウォ朝 のもとで全盛となるが、特権的貴族層が実権握る。
- 16世紀後半 a ヤゲウォ朝 が断絶、b 選挙王制 となる。
→ 隣接するa プロイセン・オーストリア・ロシア の介入を招く。
解説
分割前のポーランド王国は、現在のポーランドに加え、その東方のラトビア・リトアニア・ベラルーシ・ウクライナのそれぞれ一部を含む広大な国土を有していた。しかし、ヤゲウォ朝が断絶した後、特権的な貴族(シュラフタと言われる)による選挙王制となり、国王選挙に外国の干渉を招くこととなった。選挙王制と言っても国民が選ぶのではなく貴族が選挙権を持ち、しかも国外からも国王が選出されることがあったことに注意すること。
- 18世紀後半 三国による、三次にわたるd ポーランド分割 に
よって、主権国家としてのポーランドは消滅した。その経過は次の通り。
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左からf エカチェリーナ2世 ポーランド王
d ヨーゼフ2世 b フリードリヒ2世
- プロイセン王が提案し、それぞれ領土を奪う。(右図)
- a プロイセン王国 = b フリードリヒ2世
- c オーストリア帝国 = d ヨーゼフ2世
- e ロシア帝国 = f エカチェリーナ2世
- ポーランドでは、国家を維持するために、憲法制定など近代化を試みる。
→ 貴族間の対立などにより、改革は不十分に終わる。
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C第2回分割 1793年- a フランス革命 が起こり、西欧諸国の関心がポーランドから離れる。
→ その間に、ロシア・プロイセン両国が分割を強行。
b コシューシコ
- b コシューシコ ら義勇兵を率いて戦うも、ロシア軍に敗れる。
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D第3回分割 1795年- プロイセン・オーストリア・ロシア三国がポーランドの残りの国土の分割。
→ ポーランド国家消滅する。
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・ポーランドは、以後1世紀以上にわたり、外国支配のもとにおかれる。
完全な独立の回復は123年後の第一次世界大戦後となる。
完全な独立の回復は123年後の第一次世界大戦後となる。
・ポーランド分割の経過図
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