■つぎの文章を読み、下記の問いに答えよ。
1180 年、伊豆に挙兵した源頼朝は、1183 年には東国の支妃権を公認され、さらに 1185 年には守護・地頭の補任を助許された。このようにして鎌倉幕府の基礎が固められていった。
そして(a)1190 年の頼朝の上洛の時までに、幕符が確立したのである。
鎌倉殿の独裁、あるいはその朝廷への接近に対する御家入の不満は、頼朝の死後、幕府の混乱を招いた。
1203 年( 1 )は頼家を廃して実朝を将軍に立て、幕政の実権を握った。
ところが、1219 年、実朝が暗殺され源氏の王統が絶えた。
危機に直面した幕府は、摂関家から九条頃経を将軍にむかえ、北条政子が実質的な鎌倉殿として幕府政治を運営した。
1221 年、後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げたが、(b)失敗におわった。
その後も院政は存続したが従来それが果たしてきた国家的機能は、大幅に幕府の手に移った。
皇位の決定などについても、幕府の意向を無視できなくなり、また僧兵の強訴などに際しても、幕府は単に防御の武力を提供するだけでなく、主体的に収拾に乗り出すようになった。
1224 年の執権( 2 )の死、翌 1225 年の元老大江広元の死、またその直後の北条政子の死などを契機として、幕府は執権( 3 )中心に、複数執権制(執権・連署制)などを採用、(c)合議政治への転換を実施し、執権政治の全盛をむかえた。
そして、1232 年には、武家最初の成文法たる『御成敗式目』が制定された。
その内容は、頼朝以来の先例と「道理」とよばれる武家社会の慣習・道徳を基準にし、おもに守護・地頭の権限や重罪人の処罰、所領の支配・相続、裁判などについて規定されており、幕府の支配領域にだけ適用された。
しかし、その後、北条氏による幕府政治権力独占の傾向がみられるようになった。
得宗専制政治といわれているものがそれであり、(d)裁判制度の確立に努力した執権( 4 )の時代にはじまり、1285 年の霜月騒動によって確立された。
鎌倉殿の傀儡化、幕府の議決機関の形骸化が進められ、権力は得宗と(e)その被官に集中された。
1274 年・1281 年の再度の元寇を撃退したが、この時に幕府は、本所領の年貢などを兵粮米として徴収し、本所一円地の荘官などの非御家人を動員する権限を獲得して、また外交権をも手に入れた。
(f)貨幣経済の発達や元寇によって困窮した御家人を救済するために出された 1297 年の徳政令も、御家人に対する統制強化の一面をもっていた。
しかし、得宗専制に対する御家人の反発、御家人の困窮と幕府の対策の失敗、守護の強大化、悪党の行動などは、幕府支配を動揺させつつあった。
問 1 空欄(1)~(4)に適した人名を、つぎの語群から一つ選び、記号をマークせよ。
(あ) 北条泰時 (い) 北条高時 (う) 北条時頼 (え)北条義時 (お) 北条時宗 (か) 北条時政 (き) 北条時房 (く)北条経時
問 2 下線部(a)~(f)について、つぎの問いに答えよ。
(a) 頼朝はこのとき、権大納言に任ぜられたが、その半月後、もう一つ別の官職に補任された。その官職は何か。
(b) 承久の乱後、従来の京都守護に代わって新たに設置された機関は何か。
(c) このころ置かれた、幕府最高議決機関は何か。
(d) このころ置かれた、裁判機関は何か。
(e) 得宗被官を何というか。
(f) このころの高利貸業者を何というか。
解 答
問 1.(1) 一( か) (2) 一( え) (3)一(あ) (4)一(う)
問 2.(a) 右近衛大将 (b) 六波羅探題 (c) 評定 衆 (d) 引付衆 (e) 御内人 (f) 借上