近藤勇の最期 流山~板橋

2015年02月10日 | 徒然
天保5年、調布上石原村に産まれた近藤勇は市谷柳町に試衛館道場を構えていた文久3年、

(試衛館)

小石川の傳通院に召集された清河八郎の謀略による浪士組に道場の面々と共に参加し

(小石川伝通院)

京郊外壬生の八木邸と前川邸に入り、
謀略の発覚した清河と決別した上で壬生浪士組を結成する。



(壬生屯所)

その壬生浪士組が後の新選組であるのはご案内の通り。

時代が下って慶應4年、鳥羽・伏見の役ですでに敗走していた新選組の残党、甲陽鎮撫隊は
五兵衛新田(現在の足立区綾瀬)で幕府軍歩兵を募集し下総国流山に屯集していた。
しかし、この流山の本陣は新政府軍に包囲され
大久保大和を名乗っていた近藤は、ここから越谷の新政府軍へ出頭する。

(流山本陣)


近藤は大久保大和であると突き通しつづけていたが
伊東甲子太郎の御陵衛士に参加した元新選組隊士に見抜かれ捕縛、板橋宿に送られた。

板橋では本陣である豊田家に幽閉され、後日平尾一里塚の馬捨て場近くの刑場で斬首された。
刑場があった場所はすでに跡形もなく、知らない人では場所が特定しにくくなっている。

(平尾宿豊田家跡)

馬捨て場に建てられた馬頭観音も、すでに本来の場所から遷移していて
(この30年だけでも2~3回引越しをしている)

(現在の馬頭観音)

昔からそのままなのは、胴体が埋葬された刑場近くの湿地、
つまり板橋駅前の近藤勇墓所だけとなっている。
寿徳時境外墓地として管理、供養され永倉新八揮毫の墓碑が建っている。

(近藤勇墓所)
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