王子七滝と自然露頭 その2

2015年02月13日 | 徒然
王子七滝のうち現存するのは名主の滝だけであるが、
現在の名主の滝公園には大小4瀑が落ちていて、
実際には7つ以上の滝が王子周辺にあったことを窺い知ることができる。

「大工の滝」と「見晴らしの滝」、「稲荷の滝」は
名主の滝と同じ崖線上にあって「大工の滝」は岸町2-2周辺に、
「見晴らしの滝」は岸町2-6周辺にあった。
「稲荷の滝」は、その名の通り、王子稲荷(岸町1-12)にあった滝である。


(王子稲荷の坂)

このほかに岸町2-3付近には「飴屋の滝」という滝があったことも
わかっている。

「権現の滝」は、現在の音無親水公園の舟串橋付近に
王子神社の高台から湧き落ちていた滝であった。

(音無親水公園の舟串橋)

有名な「不動の滝」は石神井川本流をやや上った
滝野川2-49にある正受院(赤ちゃん寺)の裏にあった。
滝の傍に不動尊が祀られていたことから、この名が付けられたとされている。


(正受院本堂。この裏手に滝があった)

更に上流へ遡ると金剛寺があり、この本堂の裏手の
川が蛇行した場所にあったのが「弁天の滝」である。これは以前ご紹介した。


(金剛寺)


(弁天の滝があった辺り)

石神井川本流にもこれ以外の滝があり、「不動の滝」の対岸にも
滝があったとされる。

七滝としては「名主の滝」だけが現存しているが
この滝もポンプによる地下水汲み上げて、定時放流しているものである。


(名主の滝)

しかしながら、現在でも王子本町1-6と滝野川2-59にある音無さくら緑地には
下末吉海進期に形成された東京層の自然露頭があって、そこからの湧水が確認できる。


(さくら緑地の自然露頭からの湧水)

有史以来この付近に滝が多く、地名が滝野川となったのも
この自然露頭を見るだけでもわかる気がする。
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王子七滝と自然露頭 その1

2015年02月12日 | 徒然
江戸時代に、王子は江戸郊外の行楽地であった。
朱引、墨引という区分けで言えば王子七滝は大江戸、
つまり滝野川村、板橋宿まで江戸の範囲に含める朱引内に入る。
今で言う都心近隣のレジャータウンであった。

王子を流れていた瀧野川(瀧ノ川)は現在の石神井川で
王子で千川上水王子分水や逆川を合流し
上郷用水や石神井川用水(音無川)を分流していた
いわば「水のまち」であった。


(現在の石神井川に架かる滝野川橋)

そんな王子が有名なのは、飛鳥山や権現社、王子稲荷と扇屋、
そして王子七滝によるところが大きい。

王子七滝は「名主の滝」「不動の滝」「弁天の滝」「権現の滝」「稲荷の滝」「大工の滝」「見晴らしの滝」
の、七つの滝を指していう王子の名所で
広重の「名所江戸百景」に描かれた「王子不動之瀧」は特に有名である。

(不動の滝付近の崖)
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常盤台のクルドサック

2015年02月11日 | 徒然
ときわ台は東武東上線の駅で、かつては武蔵常盤と云った。
池袋から成増のあいだの中間駅の中では
比較的大きい駅でもある。

駅の北側は、住宅地として内務省が計画し
根津嘉一郎率いる東武鉄道が開発した
「高級住宅街」である。

東上線線路と富士見通り(通称エスビー通り)の間に
ロータリーとクルドサック(袋小路)を組み合わせた
田園都市のような街が形成されている。


富士見通りの北側は以前は工場が多い地域だったが
昨今は大乗淑徳学園の校舎が多く並び
常盤台は開発当初以上に閑静な住宅街になっている。
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近藤勇の最期 流山~板橋

2015年02月10日 | 徒然
天保5年、調布上石原村に産まれた近藤勇は市谷柳町に試衛館道場を構えていた文久3年、

(試衛館)

小石川の傳通院に召集された清河八郎の謀略による浪士組に道場の面々と共に参加し

(小石川伝通院)

京郊外壬生の八木邸と前川邸に入り、
謀略の発覚した清河と決別した上で壬生浪士組を結成する。



(壬生屯所)

その壬生浪士組が後の新選組であるのはご案内の通り。

時代が下って慶應4年、鳥羽・伏見の役ですでに敗走していた新選組の残党、甲陽鎮撫隊は
五兵衛新田(現在の足立区綾瀬)で幕府軍歩兵を募集し下総国流山に屯集していた。
しかし、この流山の本陣は新政府軍に包囲され
大久保大和を名乗っていた近藤は、ここから越谷の新政府軍へ出頭する。

(流山本陣)


近藤は大久保大和であると突き通しつづけていたが
伊東甲子太郎の御陵衛士に参加した元新選組隊士に見抜かれ捕縛、板橋宿に送られた。

板橋では本陣である豊田家に幽閉され、後日平尾一里塚の馬捨て場近くの刑場で斬首された。
刑場があった場所はすでに跡形もなく、知らない人では場所が特定しにくくなっている。

(平尾宿豊田家跡)

馬捨て場に建てられた馬頭観音も、すでに本来の場所から遷移していて
(この30年だけでも2~3回引越しをしている)

(現在の馬頭観音)

昔からそのままなのは、胴体が埋葬された刑場近くの湿地、
つまり板橋駅前の近藤勇墓所だけとなっている。
寿徳時境外墓地として管理、供養され永倉新八揮毫の墓碑が建っている。

(近藤勇墓所)
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軍都 北区(王子區・瀧野川區)

2015年02月09日 | 徒然
現在の北区(旧王子区、滝野川区)は、かつて軍都であった。
赤羽に陸軍被服本廠被服倉庫、西が丘の国立スポーツ科学センターには
陸軍兵器庫があって赤羽駅北方から貨物線が伸びていた。


(滝野川の高台、通称ガスタンク横から元軍用地を望む)

現在の帝京大学(板橋区加賀)や東京家政大(北区十条台)の場所には
火薬製造所と工科学校分校があった。


(現在の東京家政大)

赤羽線線路(明治18年開通)を挟んで
北養護学校、自衛隊のある十条地区に銃砲製造所、


(線路の右の兵は陸軍が建設したもの)


(陸軍→米軍→北区の施設となった建物)


川を隔てて隣接する滝野川地区、現在の王子総合高校一帯は雷汞場、
さらに千川上水王子分水と都電を越えてゆくと
西ヶ原に海軍火薬製造所があった。


(雷汞場付近の現在)

海軍火薬製造所を除く各造兵廠は軽便鉄道で結ばれていた。
戦後長らく米軍→自衛隊駐屯地だった一部土地が移譲され
軍用鉄道の軌道跡は十条台橋という橋になっている。

(十条台橋)

この軌道は火薬製造所を走ることから、明治時代の開通にもかかわらず
火の粉の危険がある蒸気機関車を避け電気鉄道として開通している。

十条台橋は板橋区と北区の境でもあって、バス停も「区界」と
そのままの名称になっている。

(国際興業バス王22のバス停)

陸軍鉄道は東進し、王子6丁目の王子郵便局や駿台学園、都立飛鳥高校や
東京成徳大高校などがある場所には火薬製造所豊島分工場、
さらに南東側、隅田川沿いに至る同じく王子分工場(火薬倉庫)まで
全ての施設を繋いでいた。

(左は王子新道、右が軌道跡)

太平洋戦争中には豊島分工場内で、鐵道省の貨物線、
須賀線と接続していたとされている。
須賀線も上記の理由から当初は蓄電池機関車が、
後年にはパンタグラフを設置する改造を受け
直流電化されたEB10という機関車が貨物を牽引していた。

なお、東京大空襲に際して、これら兵器廠付近は
爆撃の直接的被害および延焼を逃れている。

(北区中央図書館の赤レンガ:元陸軍)
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北王子線と須賀線

2015年02月08日 | 徒然
JR田端操駅(現:田端信号場)から伸びるJR貨物が第一種鉄道事業者路線で
王子駅北方で本線から分岐していた。

北王子線は北進して製紙工場へ進む「紙列車」の専用線、
須賀線は東進して王子消防署前で都電と平面交差して
陸軍の貯弾場や現在の豊島五丁目団地にあった関東酸曹(後に日産化学)の
化学品専用線として使われていた。

須賀線(直流1500V)と都電(直流600V)が平面交差する場所は
デッドセクションとなっていたようである。
須賀線は火薬製造廠を走ることから開通当初には
AB10という凸型蓄電池機関車が用いらて、後年、直流電化した際にもパンタグラフを載せる改造を受け
EB10として須賀線を行き来していた。

須賀線は昭和46年に、北王子線は平成26年に廃止になっている
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滝野川 紅葉寺

2015年02月07日 | 徒然
真言宗豊山派瀧河山松橋院金剛寺は、寛永7年創植といわれる楓により
紅葉の名所として江戸時代より紅葉寺の名で知られいる。
元々は豊嶋氏庶家瀧野川氏の居城である瀧野川城の跡で、王子七滝のひとつ、弁天の滝の落ちる崖には
弘法大師の刻による弁財天の祀られた岩屋弁天が知られていた。


石橋の戦に敗れ安房で態勢を立て直した源頼朝は
この地に陣をとり弁財天に祈願した場所でもある。

現在は流路が改修された石神井川だが、
紅葉寺の裏手には蛇行していた旧流路の面影を残すような
公園が整備されている。
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千川上水王子分水と古道

2015年02月06日 | 徒然
千川上水は、小金井で玉川上水から分水された江戸時代の上水道。
西巣鴨で小石川六義園と王子方面へさらに分水された。




この分配堰は「堀割」という明治通りと旧中仙道の交差点名、
都営バスのバス停にその名を遺している。


千川上水は昭和初期に暗渠化され、ヒューム管は下水幹線として使われている。



(北区滝野川の暗渠道)

王子方面への分水は、古道のひとつである鎌倉道に沿って北上する。
鎌倉道は下総往還とも呼ばれている古道で、北区滝野川と豊島区西巣鴨周辺では
明治通りがほぼ鎌倉道のルートに沿っている。
時折斜めに分かれたり交差する道が、古道の跡である。


(明治通りはカーブするが古道は直進する西巣鴨交差点付近)


(古道と分水の跡の道。手前は明治通り。)

一部は高速道路のカーブに活かされている。

(左が明治通り、右が古道跡)

谷端川(現在は暗渠)を渡る橋は鎌倉橋といい、昭和50年代までは鎌倉橋バス停があった。

(右の細い路地が古道)

ちなみに「原宿」は、この鎌倉道の宿場である。

王子分水はこの鎌倉道に沿って幕末に開削され
砲兵廠や印刷工場、醸造試験場へ給水され、最終的には石神井川へ排水された。




鎌倉道は、豊嶋郡衙でもあった豊嶋氏築城の平塚城、現在の平塚神社へ続いている。

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中仙道板橋宿 平尾一里塚と追分

2015年02月05日 | 徒然
中仙道板橋宿は、京方から上宿、仲宿、平尾宿(下宿)にわかれていた。


「平尾」という地名については、南側の谷端川の谷と
北側の石神井川の谷に挟まれた「平たい尾根」からと思われる。

板橋宿は、江戸から発って最初の宿場で、種屋や乾物を売る店が並ぶ
瀧野川三軒家の西外れの一里塚から平尾宿が始まる。

一里塚は現在の板橋駅北側、桜通りが旧中仙道から折れてゆく丁字路の付近にあったとされる。



この辺りは板橋区板橋が滝野川銀座に食い込んでいる。

ここから始まる平尾宿は追分で川越街道を分岐する。
現在の川越街道国道254号線は、春日通りとして都心を通過し
池袋六ツ又から川越街道として西進する。


旧川越街道は宿場名をその名に遺す「平尾交番」のある交差点から
左に分かれてゆく。


明治時代には、この辺りを境に
「瀧野川平尾」と「下板橋平尾」にわかれていた。



右側の道が旧中仙道である「不動通り商店街」で、
仲宿の「仲宿商店街」へ続いてゆく。


不動通りは、如意山観明寺の不動明王に由来する。



旧川越街道は、国道17号線として200mほど進み
首都高板橋ジャンクションの中央環状線本線側へ分かれてゆく。

山手通りを過ぎると、現在の川越街道まで遊座大山、
ハッピーロードと商店街が続いてゆく。


平尾は、現代においても城北地区屈指の2つの商店街に向かう追分でもある。
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滝野川 寿徳寺

2015年02月04日 | 徒然
真言宗豊山派南照山寿徳寺(壽德寺)は鎌倉時代初期に、
梶原氏の家臣、早船某と小宮某が
主君への反抗の際(梶原景時の乱と思われる)の遁走中、
瀧の川(現在の石神井川)の水中より聖観音菩薩坐像を拾い上げ
川の畔の堂に祀った事が起源とされている。



通称の「谷津観音」は、この付近が谷戸地形であることからくる
全国の「谷津」と同じ地名由来である。
また「子育て観音」は、本尊でもある観音菩薩像が
両手で乳児を抱えて蓮座に坐していることに由来している。


江戸時代には「江戸西国三十三観音札所」として知られていた。

平成20年には、石神井川沿いに谷津大観音が開眼された。


寿徳寺の境外墓地として、JR板橋駅前の近藤勇墓所がある。
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重吉稲荷とおふくろ観音

2015年02月03日 | 徒然
北区滝野川6丁目の国道17号線に面して、2つの神仏が鎮まられている。
一つは「重吉稲荷大明神」。
鳥居は昭和4年に奉納されたもので、その当時に
現在の国道17号線道路が開通していることから
それにあわせて寄進されたものと思われる。
大正期の地図には、当地に鳥居の記号が書かれており
また、その頃は狐塚はお稲荷さんではなく「塚」であったことから
重吉稲荷自体は道路開通前からこの場所に鎮座していたと考えられる。



道路対面の「狐塚の坂」には
「ここから南西向い側の重吉稲荷境内にあった寛政10年(1798)造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん・たきふとう おふし・六阿弥陀・せんちゅ みち」という道標銘が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣での人びとが利用した」
と書かれており、古くからの社である事がわかっている。

その東隣には、観音菩薩像が立っている。

「おふくろ観音」というこの観音さまは、石神井川の対岸
滝野川4丁目にある南照山寿徳寺の境外で、首都高中央環状線建設にともなう国道17号線拡張工事によって
三画地となってしまったこの場所に建立、開眼されたもの。

高速道路の下で、2柱の神仏が滝野川の平和と安全を見守っている。
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滝野川 火伏の神と消防署と八幡神社

2015年02月02日 | 徒然
先日、記事にした
東京・滝野川の「きつね塚」。

現在は東京消防庁滝野川署三軒家出張所の隣に鎮座しています。
このお稲荷さんは、伏見稲荷の祀っていて
火伏の神様と火消しの役所が同居している状態になっています。



消防署の裏手には石神井川の谷へおりてゆく狐塚の坂があり
また中腹を右手に曲がると瀧野川八幡神社が鎮座しています。



この八幡神社の裏の斜面からは、縄文時代の遺物も出土しており
また板橋駅や西巣鴨駅周辺にも古墳跡と見られる場所が散見、
古代から中世の古道も存在していることから
かなり昔からこの辺りは人が生活し、ある程度栄えていたようです。

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西ヶ原から駒込まで

2015年02月01日 | 徒然

北区西ヶ原から「西谷戸新道」に沿って
西ヶ原銀座(ふれあい通り)、西ヶ原商店街、染井銀座、霜降銀座と
名前を変えながら商店街が続く。

この道は大正末期から昭和初期にかけて作られた道で
それ以前は田畑の広がる谷戸を流れる逆川という川の
川床低地であった。

逆川は、付近の川が北西から南東に向かって流れているのに対して
染井墓地周辺などを水源にして北西方向の石神井川へ
流れていたことに由来しているとされる。

しかしその谷は水源よりさらに東へと続いていて
こちらは谷田川、藍染川と呼ばれる川が
今で言う「谷根千」を通り不忍池へと流れていた。
「よみせ通り」がまさに藍染川の暗渠道である。

明治時代までは染井の崖線からの湧水などで
この一体は水田となっていた。
それだけ谷は広いのである。
この谷が有史以前には石神井川(古石神井川)の川床だった証拠ともいえる。

さて、商店街は千川上水の分水の流れていた六阿弥陀道を
堀割が左に曲がってゆくのをそのまま平塚郷へ向けて直進して
道音坂を降りた場所から始まる。


鮮魚店の向かいに建つ西谷戸新道の石碑が西ヶ原銀座のスタート。


いかにも暗渠道らしい蛇行した道を進み
最初の小さな交差点を過ぎると西ヶ原商店街になる。


この辺りまでは、王子や池袋へ買い物に出る人が多く閑静な道である。

しばらく歩くと豊島区に入る。
この道の豊島区区間が染井銀座。ソメイヨシノ発祥の地でもある。
有史以来の川の流れで言えば、この付近がこの谷底の中でもピークにあたる。
逆川、谷田川双方の水源は南側にあり、支谷がそちらへ向けて開けている。
水源近くには海軍火薬廠があった時代もあり
この水が火薬製造にも用いられていたことからも
湧水量は豊富だったと考えられる。


ここから駒込駅方面にかけて再び北区へ入ると霜降銀座である。
谷田川に架けられていた霜降橋に由来している。

染井銀座と霜降銀座は、テレビのグルメロケなどでも
おなじみの商店街でもある。

都電の西ヶ原四丁目からJR駒込駅まで、
地学的にも食べ歩き的にも面白いこの通り。
ぜひ歩いてみていただきたい。



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