尾道を出たのは3時過ぎ もう何処にも行けないだろう
疲れもあるし 早く宿に行こう・・・と思っていたけれど 亭主が「鞆の浦に行こう」という 今日行っとかないと 明日倉敷は無理だって。。。。
でも暗くなってから行ってもねぇ
尾道と福山は隣同士の町だった。 詳しく地理を知っていたら 千光寺公園の展望台から見えたかもしれない。
鞆の浦の名前を何度となく耳にしていたのだけれど どんな町かを全く知らなかった。最近崖の上のポニョを見て 宮崎監督がこの町をモデルにしたのだと知った。また同じ頃 鞆の浦埋め立て架橋計画が持ち上がって 反対派 賛成派に別れて揺れているとも聞いた。
どんな町なんだろう?
福山の大きな町を抜けて芦田川沿いにバスは行く。 やがて海沿いの漁師町と思われるような集落を走って行く。
その距離どのくらいか 鞆バスで530円だったから 遠いと言えるのではないだろうか? 地図を見ると一番端っこの半島まで来たことになる。
物珍しさであまり遠くには感じなかったけれどね
鞆の浦の歴史は思っていたより古かった。古くは万葉集にもその名前が出て来る。
地理的に 瀬戸内海の海流は満潮になると 豊後水道からと紀伊水道から流れ込み 瀬戸内海のほぼ真ん中にある鞆の浦でぶつかる。 反対に干潮時には 鞆の浦沖を境にして東西に別れて流れ出す。従って 瀬戸内海を横断するには潮流の変わるのを待たなければいけなかったらしく 潮待ちの港として知られていたというのだ。
まもなく夕暮れである。
「ホテルに入って夕焼けに沈む鞆港を見よう。」なんていう声を聞きながら 良いな 良いな
私達は1時間ほどしたら帰らないといけないからね
まず 対潮楼へ行こう
福禅寺対潮楼 平安時代950年頃創建されたというこのお寺は元禄年間に隣に対潮楼を建てた。いわゆる客殿として作られたようで1711年の朝鮮通信使のもてなしに使われた。この客殿の名前を付けたのはその時の正使洪啓禧だそうです。
中に入ってみると 素敵な景観が
折しもいろは丸を模したと思われる船が入ってきました。 一瞬にして坂本龍馬の時代が蘇ってきました。
龍馬伝で いろは丸沈没に関して それまで才谷梅太郎を名乗っていた坂本龍馬は 紀州藩と談判するに当たって坂本龍馬の名前で対峙します。
あのシーンがここだったのだ
狭い通りを歩いて鞆城跡に行きます。
元々鞆には大可島城という島がありました。 岬の先端で鞆城址から歩いてもさほど距離はまりません。大可島城は南北朝時代南朝方の兵士が籠城後全滅。
その後村上水軍のものになった。毛利氏を頼ってやってきた足利義昭が住んでいた鞆要害が鞆城の前身らしい。
先端の園福寺あたりが大可島城跡らしい。
ちなみにこのあたりが崖の上のポニョの中で そうすけが住んでいた家があるそうである。 海へ降りる階段も崖に刻まれているとか。。。。
関ヶ原の戦い以降この土地は毛利氏から福島正則へと所有者が変わり 福島正則は家康の命によってとても立派な城を築いた。
これがあだとなり いらぬ疑いをかけられて鞆城は壊され福島正則は 家康に謝罪することになる。
仕事を一所懸命するのは難しいことのようである。
城の代わりに 福山市鞆の浦歴史民俗資料館がたっている。
この日はお正月休み。 中は見られませんでした。 もっとも時間も無かったですが。
石垣には 地が彫り込まれています。
○とか大とか一とか □とか・・・・
前に豊橋の吉田城でも見ました。 なんのためのものでしょうか?
資料館の裏手には 宮城道雄の像がある。
宮城道雄 春の海の作者であり。 琴の演奏者である。 お正月になると 必ずどこかで聞こえる 「ちゃん ちゃらららららら~ ♪}っていうあの曲である。(分かるかなぁ?)
宮城道雄は8才で失明するが まだ目が見える頃父方の祖父母のいる鞆で暮らしていた。 この曲は その時に目に焼き付けた鞆の浦の景色を曲にしたものだという。鞆へのこだわりは相当な物だったらしい。
廻船問屋桝屋清右衛門の家だそうです。 いろは丸事件の時坂本龍馬たち土佐海援隊を支援して宿舎として提供していたそうです。
中には龍馬の隠れ家も作られていたようで・・・・
ここも時間切れで中を見ることはできませんでした。
鞆の浦の観光情報センターが気になっていました。時間が無かったので せめて観光案内のパンフレットもらえないかと。。。。
間に合いました。 牛肉コロッケを買って ほっ ほっと言いながらバスを待ちます。
鞆の浦には高架橋が出来る前にもう一度行かなくてはなるまい。
見落としたことが多すぎる。本当に残念 無念