佐渡の歴史の足跡のうち 宿根木は前も見て歩いたので今度は違うところに行きたい。
容子さんに「佐渡の印象はどう?」と言われて即座に「両津に降り立つとこの島がなんだか品のある島だって気がするんだよねぇ」と行った。 お世辞じゃなく そんな風に感じた。
これは佐渡の歴史に少し興味を持っていたせいかもしれない。
流人の島として有名ではあるけれど その流人は位が高かったり 文化人であったり・・・この島に大きな影響を与えたに違いないから
前にこの島を訪れたときはドンデンから金北山への縦走が目的だったからあまり回ることが出来なかった。 今回はうろ覚えの歴史に少しだけ確かな知識を得たいと思った。
だから 真野
前述の通り どうしても海沿いの道を行くことが出来ない。
諦めて宿根木に戻り 来た道を戻ることにした。 随分時間のロスはあったけれど 郷の美しい景色を堪能できたから良し
何しろ春の花が一斉にほころび 明るくて華やいだ それでいて優しい表情をしていたからね
倉谷地区の行事に欠かせないわらじだそうです。 春来(はりきり)の行事に正月に大わらじを作り村の両端に欠けておきます。
あるとき賊がこの大わらじを見て「こんなでかい足の男がいるのではかなわない。」と逃走したとか・・・・疫病や悪人よけの一種の道祖神だそうですが これ前にもよそで見たことがあります。
三重県の大王崎でした。デイタラボッチの大わらじで 話は全く同じでした。
大王崎も九鬼水軍の町。 海を行き来しているうちにこんな話が伝わったのでしょうか?
真野湾に入ってきたのでしょうか? 大佐渡山脈を見つめる人面岩があります。
時間的にも難しいので真野御陵と佐渡歴史伝説館で大まかな歴史見学をする事にしました。真野は史跡の大部分が集中している場所と言って良いでしょう。
真野御陵は 順徳天皇のお墓 正確に言うとお墓ではなく火葬した場所だそうです。
後鳥羽上皇と一緒に承久の乱を起こし配流 22年も島にいたのですが 今日に帰る望みも絶たれ絶食の果てに1241年9月12日 亡くなりました。 46才
思いきや雲の上をば余所に見て
真野の入り江にて朽ち果てんとは
その後お骨を父親である後鳥羽上皇の傍らに埋葬されるべく大原へ運ばれたようです。無念だったでしょうね? 人生の半分は罪人としての暮しでした。
このとき後鳥羽上皇は隠岐の島 お兄さんの土御門上皇は土佐へ配流されました。
すぐ下に伝説館があります。 中は歴史上の人物がロボットで作成されていて 簡単に理解できるようになっています。 あまりにリアルでちょっと気持ち悪いですが・・・・
佐渡で生まれた順徳天皇の第一皇女
島流しというと 順徳天皇だけが佐渡へ渡ったのかと思えば 家族全部で渡ったようです。
それなりに穏やかな生活が送れたのではないだろうか?と思うのですが なにしろ生まれが生まれですからねぇ
耐え難かったのでしょうね
日蓮上人もこの地に島流しされました。
北条時宗の勘気にふれて鎌倉竜の口で処刑されるところだったけれど 日蓮上人が題目を唱えたところ雷光がおき処刑は取りやめられたのだと
で 少し減刑されて佐渡に配流
島流しの時 海が荒れて大変だったけれど 上人が題目を唱えたら海が穏やかになったと
そんな数々のエピソードが伝わります。
佐渡での暮しは 宗教人として羽いつもと変わりなかったようで 一間四方の粗末な庵にいろんな宗派の僧が押しかけ白熱した問答が交わされたとか(塚原問答)
世阿弥さんの場合は 72才で島流しです。美を追求し続けた世阿弥
雨乞いの舞を舞うと大粒の雨がたちまちに降り注ぎ 大地は潤い 島民はその踊りに立ち尽くして見とれたとか
島流しの話ばかりですね? 他の歴史も知りたかったのですが 伝説館ですから・・・・
それでも佐渡の文化に都の文化が大きく影響していたことは想像が出来ます。 佐渡に沢山ある能舞台は きっと世阿弥の影響でしょう。
その後民話の世界に入っていきます。
夕鶴伝説 安寿と厨子王の伝説(相川にゆかりの地があるようです) おけさ伝説・・・・子供の頃から聞いていた話です。
ここまで見ただけでも佐渡は遠く離れた島ではなく いつも本土と深いつながりがあった島だったと感じました。
佐渡出身の人間国宝佐々木象堂さんの美しい作品を見た後 売店にどうしても行かないと帰れないようになっていて そこに曽我ひとみさんのご主人ジェイキンズさんが売店でおせんべい売ってました。 おせんべい買うと一緒に写真を撮れるようでした。