Fuu

ある日には山 ある日には畑 自然体で気分良く暮らしています。

参勤交代で賑わった宿場町 今庄

2016-04-20 21:49:25 | まち歩き
滋賀県に出かけることが多い私は ここへ来て北陸道の表示に違和感を持つ。
ずっと北国街道と思って歩いていたからだけれど ひょっとしたら今庄からは北陸道になるの?
なんだか現代風な前に??と思いながら調べて見る。

北国街道(ほっこくかいどう)とは、江戸時代における北陸道の呼称。
直江津以西の北国街道。→北陸道
新潟から出雲崎を経て直江津までの北国街道。→北陸道
追分から直江津までの北国街道。→北国街道 (信越)
中山道洗馬から北国街道丹波島までの脇往還。→北国西街道
近江米原より琵琶湖東岸を南北につないで越前今庄を経て直江津につながる北国街道。→北国街道 (近江)

※基本的[誰?]に、富山県高岡市以東では北陸街道、以西では北国街道と呼ばれている。

ウィキ先生に聞いてみたらこういうこと。 つまり同じなのね? 

道が大きく曲っています。
この先 駅前の通りと出会います。が 見通せません。
良くある鉤の手とか枡形の一種でしょうか? 矩折(かねおり)と呼ばれているそうです。
武者だまりに使われたり 敵の侵入の勢いを弱めたり 防御のための道です。


これは 昭和会館
比較的新しいものですが やっぱり懐かしい建物です。 もう昭和って大昔になったんですね?
とてもノスタルジーを感じます。


加賀本陣
ん? 福井本陣では無いの?
今庄の観光協会で出している地図では加賀本陣となっていましたが どうも脇本陣のようです。
調べて見ても良く解りません。

屋根の飾りが気になります。
平ぺったいのですが釣り鐘をモチーフにデザインしたもののようにも見えます。
丁度畑仕事をしていた方に聞いてみましたが 分らないとのこと
今庄の人達は とてもシャイなようです。


福井本陣は道路を挟んで反対側にあったようです。
立派な公園になっていました。


昔酒飲み 今は酒好きの血が騒ぐようです。


敦賀の方に向って大きく曲っています。


面白い建物です。
よく見えませんね? この家の壁は大きくカーブしているのです。
素人考えにも わざわざカーブさせるのは 技術が要ると思うのですが。
昔 佐渡の宿根木で見た船の形のお家を思い出します。 


昔はどんな人が暮らしていたのでしょうか? 更地になった土地の向うに燧ヶ城址が見えます。



ひぇ~~ 土筆が林になっています。
これだけ摘んだだけでも佃煮が何日分か作れそうです。
天ぷらも良いねぇ  私は卵とじ・・・・・

しかし 人の土地です。 後ろ髪を引かれる思いで先に進みます。

屋根のひさしが面白い建物です。
前に長いです。 やっぱり雪対策でしょうね?

黄色い漆喰が美しい家です。
やはり庇は大きく前に出ています。
家 家を大きく隔てている壁は 卯建のようです。
火事の時の類焼を防ぐためもあるのでしょうね

この後 今庄そばを食べようと言うことに成り「ふるさと」へ
宇野重吉さんが愛したそば屋さんだそうで お店に宇野重吉さんの懐かしい写真が飾ってありました。
私達は いわゆる越前そばを頼みませんでした。 盛りそば大盛りです。
美味しかったです。 ごちそうさま。

カタクリを見に行く事が第一の目的でしたので 今庄の街をしっかり見ることはできませんでしたが 今度来ることがあったら まず燧ヶ城址へ登ろう。
もっと元気があったら 鍋倉山から藤倉山へ縦走しよう。
強いご縁が出来た気がした今庄でした。

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5 コメント

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こんばんわ (たか)
2016-04-20 22:50:03
素敵な所をウオークなさいましたね。
私好みです。
とても良い情報が頂けました。
何時か絶対、行ってみますね。

どらさんも宿根木へ行かれたんですね。
私も昨年、どらさんと同じものを見てきました。
海沿いならではの猟師町
あの一角だけ異空間の様に思え甚く感動したものでした。
返信する
たかさんおはようございます。 (どら)
2016-04-21 09:43:17
なかなか書き込みが出来ないで 横着を決め込んでいますが 携帯遭難事件まで来ましたね
いろんな所へ行ったつもりでしたが 知らないところが随所に出てきて 興味津々です。

今庄 本当はもっと回れるとよかったのですが カタクリが無かったので意気消沈して 予定よりも早く帰途につきました。
残念でした。

でもちょい山登りの出来る場所もあって 体調が整ったら絶対行くぞ~と心に決めて帰ってきました。
敦賀まで行くと 美味しい魚もありますし・・・
もしご一緒出来る日が来たら宜しくです。

宿根木は良いところですね?
あそこに鬼太鼓の活動拠点がありまして 春の公演を見に行ったこともあります。(知り合いが創設者の親戚なので) 何度行っても良いところです。
返信する
加賀藩の参勤交代 (hide-san)
2016-04-22 16:51:26
中山道のを日本橋から数えて第一番目の宿場は、板橋宿ですが、
板橋宿に加賀藩の下屋敷が22万坪の広さでありました。
加賀藩の参勤交代は記録では193回だそうですが、
その内5回は今庄を経由して中山道から江戸に入った記録があります。
ふつうは中山道の追分宿から北國街道を直江津そして
親知らず子知らずを抜けて加賀へ帰ったのですが、
五回だけは今庄経由だったそうです。
そこで金沢のボランティアガイドに、
なぜ今庄経由の遠回り道をとったのか、訪ねも解らず、
たまたま加賀藩の参勤交代を調べている大学の先生と知り合って、聞いたところ、
今庄の方に加賀のお殿様の娘が嫁いでいたことが分かり、
娘のところへ挨拶に寄るため、参勤交代を今庄経由にしたらしいのです。
その先生は江戸から金沢まで7回も歩いたそうです。

そこでボクは北国街道は、二つあるものと覚えました。
返信する
追伸 (hide-san)
2016-04-22 16:59:48
下屋敷は板橋にありましたが、上屋敷は現在の東京大学で、
東大の赤門は加賀藩に嫁いだ将軍家の娘 溶姫専用の御門だったそうです。

上、下の屋敷は解りましたが、それが解ると今度は中屋敷はなかったのか、疑問になります。

中屋敷は現在の六義園のある処から、巣鴨駅までの場所にありましたが、
下屋敷をもらい受けるために返納しています。

長くなりすみません。
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hide-san (どら)
2016-04-22 21:55:26
さすが博識のjide-san
親知らず子不知の難所を思うと 滋賀から行った方が良いように思えますけれど 
どちらにしても中山道を使うのですね?
追分からだと(軽井沢ですよね?)山又山の厳しい道のように思えます。
hide-sanが難儀された和田峠は どちらの道を使っても通るのですね?江戸時代になると 世の中も落ち着いて来ているので何処の藩を通って問題ないのでしょうか?
下屋敷 上屋敷 中屋敷って 何気に聞いていたけれど 一体何?
加賀藩のお屋敷はそんなに広くて大きかった?
凄いですね?  如何に力を持っていたか・・・
そういえば 去年行った滋賀県のマキノと言うところには加賀藩の飛び地がありました。
今年 海津大崎の桜を見に行ってもう一度確認してきましたが 結構広い土地でした。

今更ですが この上屋敷 下屋敷 中屋敷・・・と言うのが 加賀本陣 福井本陣と関係あるのですか?
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