野麦峠を考えると いつも「あああ 野麦峠」の女工哀史が先に来てしまって この道を正しく見る事が出来ないでいる気がした。 この道 父からは鎌倉時代からあるのだと聞いていた。 都が鎌倉に移ったときに 都に行く方法として出来た道なのだと・・・ しかし実際にはもう奈良時代から松本や 木曽路を結ぶ道としてあったらしい。 すごい
高根村野麦 峠への入り口の村として名前は知っていたが 寒村で 人家も数えるほどしかないのだと思っていた。 こんな寒いところで こんな高いところに暮らす厳しさを受け入れる人々はそういないだろうと 勘違いしていた。 実際野麦に行ってみると 思ったより人家も多く とても豊かそうな(心がそうなのかもしれない)感じがした。
とんでもないところに道を造ったような感じがするのだけれど 本当は野麦峠を通る街道が奈良時代からあるのは 自然な事かもしれない。 私たちは1672メートルの高さを驚くけれど 高地に住んでいる人々にとっては 道の続きであり 御岳と乗鞍の鞍部を通り道にしていたのは当然のことだったに違いない。
野麦の人々がどうしてここに住むようになったのか? どんな暮らしをしていたのか想像できる。 母の実家は 山向こうの安房峠に繋がる街道筋にあった。 峠が違っても暮らしぶりはおなじようだったと思える。さほど農作物が育つわけでは無い。 野麦峠の野麦は 笹のことなのだそうだ。 笹の花は50年に一度しか咲かなくて そんなときは大凶作がおきると。。。
その笹の花の実を集めて餅にして 飢えをしのいだと言われる。 それが野麦の由来。私たちが行ったときに あちこちに笹の花が咲いていた。
手前に見えるのが笹の花。 細くて 何処に実が付いているの?と言うぐらい。たくさんの花が咲いていた。そう言えば去年から世界は大恐慌と言っていいな。
今では野の麦の実を食べる必要は無いけれど。。。
野麦の花の向こうに見えるのはお助け小屋
私はこの小屋を 女工達が疲れ果て倒れていくのを助けてあげるための小屋と思っていたら そうでは無くお上からこの峠の通行人を守るためにずっと前から建っていたのだと。。。これも間違った認識だった。
女工達は 3月になったら飛騨を旅立ち 正月に向けて帰ってくる。つまり冬の野麦街道を歩くのだった。 この2月に近くまでやってきたときには冬季通行止めで野麦の集落から先には行けなかった。 だから冬の峠道は深い雪に覆われるはず。 その道を雪かきなどして通れる様に管理していたのが野麦の人々。つまり野麦の人々は野麦街道の道先案内人だったらしい。 古代より野麦街道とともにあったらしい。
さて 前振りが長くなってしまったけれど 時代を感じながら 野麦街道を歩き始める。 同行者はおなじみぴーちゃん。今回は私のリクエストに彼女が付きあってくると言う事だ。
野麦の館の駐車場に車を駐めていたら 休館にもかかわらずお掃除をしていたご婦人から 「歩くのならもっと先のゲートまで行ってそのへんの少し広いところに車おいた方が楽ですよ。30分は稼げます。」と
さあ 歩き始めます。
shousetu de yuumei ni narimasita ga
ookuno tabibitoga tootte ita gaidou
nanodesu ne.
kikinnni sasa no miwo tabete, uewo
sinoida nikasibito niha, turakute,
jisatu suru youna hito ha inakatta
koto deshou.
imano hukyou niha, hini 100ninn mo
jisatusha ga iru sou desu ga, dou iu
kotona nodeshou ne.
もともと峠って 夢が詰まった場所では亡いだろうか?と思っていたのです。 熊野古道を歩いてツヅラト峠に登ったとき 初めて見る海にみんな感動しただろうな?と思っていたので 野麦峠と聞くと何かしらくらいイメージがついて回るのを 少し違うな と思っていました。
とはいえ 12才の女の子がこの峠を越えて製糸工場へ出かけていった事は確かだし いたいけな感じはします。 病に倒れてかわいそうな最後を送った子どももいます。 反対に良い話しもいっぱいある。野麦しか食べる事が出来ないような暮らしから逃れ食べる心配も無くなり 女工に寄っては褒美をたくさんもらって親孝行が出来たと喜んでいる子も・・・・
言ってみれば あの時代の集団就職だったのですね? 頑張ってみんなを幸せにしたい 自分に出来る事はこれなんだ・・・給金を押し頂いて涙して喜ぶ親を見て 子どもも幸せを感じるのだから 挫折して死を選ぶような人間関係は無いように思います。
でも 今の私にはもちろん同じことは出来ません。とても軟弱なおばさんです。