お城を出てから どっちへ行こう?
さっきのまるやさんで大38番宿 岡崎の宿の案内図をもらって来ていた。
「良し この通りに歩こう。」 城内を沢山歩いたので 本心どうでもいいや・・・みたいな気持ちになっていたけれど 思い直して伊賀川まで戻る。ここを北上するのが正式な道らしい。
またもや歩道橋から 正門を眺めてみる。城郭が全部残っていたらなかなかいいお城だったのではないかしら?
案外狭い道だった。 昔は車なんか無かったしこれで良かったんかなぁ?
昔 物資を船に載せて運んだと思われる川は 今はみんなの憩いの場所になっているらしい。 お昼休みの時間を利用して遊んでいるようだった。
岡崎図書館と交流プラザりぶらがある。ここは昔プールがあって 夏はプール 冬はスケートリンクになっていたように思う。
お転婆な娘は 滑り台を滑りすぎて水着を焦がして穴あきにしてきた
子供たちが学校に通っていた頃と比べても 驚くほど変わってしまった街にはもう 東海道を偲ぶ物はほとんど無い。
それでも市は街を整備してこんな物をいっぱい作っている。標識だけを見て歩いているような感じがしてきた。
町名は当時の生活を想像できる。
肴町 魚町 材木町・・・・
今でも大事にされている神社のようだった。
標識の上に金色のわらじの絵が書いてあるの分かるかしら?
金のわらじは 27曲がりのシンボルのようです。 交差点のあちこちに 金のわらじのモニュメントがあります。
金のわらじを目当てに歩けば良いようですが もらった地図とは一致しないところもありました。
同じ事を考えて歩く人もいっぱいいて あちこちで出会います。
材木町と言うから このあたりは昔材木問屋が並んでいたんだろう・・・と思ったら違うらしい。 ここで町屋を作るための気を伐りだしたと言うのだけれど・・・
確かに岡崎には石屋さんは多いけれど材木屋さんって言うのは・・・
右側の立派な建物は先ほどの交流会館の表です。
正面は岡崎城です。なるほど無駄に大回りさせている事が分かります。 この道 このように広くなったのは最近のような気がします。 昔は狭かったです。
魚町はその名の通り魚屋さんが多かったのではないでしょうか? 詳しくは知りませんが 今は寂れてしまった商店街のすぐ北にあります。 この辺はお店が結構多かったように思います。
クネクネと迷路のようです。
こうして岡崎の写真を見ているといかにも寂れた感じがして悲しい。
往時を偲べる静かな町並みも消え 最近の街としての元気もない。
今岡崎の街は完全に南部に移ってしまったようだ。
伝馬通りに行く手前に 残っていた 岡崎信用金庫資料館
大正時代の洋風建築でルネッサンス様式
比較的新しいとは言え こ雨言う物がまだ大事にされていることは嬉しい。
岡信頑張っているな
娘の中学時代の友達の家だから余計に嬉しい。
前に藤川の宿でも見たことがある。 きらってあの吉良だろうか? 吉良上野介の里
そんなに重要な道だったんだろうか?とちょっと思ったけれど この辺が西尾や吉良の方へ行く分岐である事は想像できる。
岡崎の人は勤勉な人が多いので貯蓄額がとても多くて人口が少ない割には全国的にもトップレベルの成績なのだと聞いたことがある。
岡崎の人々の勤勉さは 家康時代からのこのちほうのひとびとの気質なのかもしれない。
残念なことに私にはその気質が全く無く(岡崎人ではないけれど)いつもぴーぴーしている。 反省。
ビルの向こうに小さくお城が見えています。 このまままっすぐ行くと東岡崎の駅です。電車一駅を大回りして歩きました。
すっかり変わってしまった街に寂しさを感じながらも道だけはクネクネと残っていて 27曲がりを感じる旅でした。
おしまい。
足痛いです。 アスファルトの道苦手
この間はお疲れ様です。 私達 あれからいつものようにおにひら行って 大井平の紅葉見て帰ったら 香嵐渓で大渋滞 失敗でした。
林檎 毎日これでもかって言うぐらい食べています。
オチネタン材木町だったのか? 勝手に籠田公園の方と思っていた。
子供たちが学校行っていた頃と比べるとずいぶん変わってしまったね。
オチネタンが歩いて見てもご近所って思うだけかもしれないけれどこの道を沢山の人が往来したと想像するのは楽しいね。
少し調べて行ったつもりだったのに 見落としたところいっぱいで残念です。 亦ふらっと行くかもしれません。
林檎 今年も美味しいね
毎日しゃきしゃき食べていますよ。 アップルパイ焼こうかなと思いながら 焼いて誰が食べるんじゃ・・・・と止める
その繰り返しです。
ジャムぐらいは作ってもいいね
後いろいろ使えます。
あ 岡崎の話だった。 見落としたところはね え~~と 後から人様のレポート見て「知らんよここ~」って言う場所です。 大門跡とか~
いつも高速から飯田を見て綺麗だなと思うけれど 棚田は知らない
今度調べて行ってみよう