黒島の環境は温暖で想像していたよりは暮らしやすかったのかもしれない。
条件は悪い。 土地といえるようなものは持たないし 密かに隠れ住んでいたのですから
あんまり巨木過ぎてこれが何だかよくわかりませんね?
サザンカです。樹齢250年 根回り1メートル80センチ 樹高10メートル以上だそうです。
サザンカは私達の回りでいくらでも見られるのですが 案内人は初めて見る木とと思ったか とても丁寧に教えて下さいました。
樹齢で解るように この木は橋本家がこの地に移り住んだときに持ち込んで植えたのでしょう。条件の悪い土地に住むために 自分たちで作れるものは全て作らないといけません。
とても貴重な食用油を作って暮しを支えていたようです。
こんな硬そうな実です。
皮はうまく取れるのでしょうか? 実を砕いて絞って使うのでしょうね?
同じ通りにありました。
アコウの木です。
桑の仲間だそうですが 見た目ガジュマル等南国の植物のようです。
気根を垂らし やがて地面まで垂らして繋がります。
その姿からたこの木と言われたりしますが 一番ショッキングな名前は 締め殺しの木 です。
気根が近くの木に巻き付いて絞め殺すかのごとく枯らしてしまうからです。
藤なども蔓を巻き付けて木を枯らしてしまうのですが なんだかこの木は怖い様子をしています。 気根は蔓ぐらいのつもりで触ってみたけれど 硬くてごつくて・・・・・・風にふらふら・・・はあり得ません。
家を隠すには良いかもしれませんね?
今日のメインの黒島天主堂です。
今長崎では「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界遺産に・・・と言う動きがあります。
ほとんどが五島列島にあるそうですがこの黒島の教会もその中にあります。
五島の教会もいくつか見てきてはいるのですが とにかくアクセス悪くて全部回ってはいません。
地元の人々の暮らしにどんな関わりをしていたのか 訪ねてみたいものです。
この教会はマルマン神父さんの設計と指導の元に信者さんの献金と労働奉仕で作られたものです・・・・と聞いてびっくりです。もともと明治11年にこの地に着任したペルー神父さんがこの地に木造教会堂を作ったのが前身だそうですが。
明治にこの教会を作る技術があったことは驚きです。それも建築家ではありません。 中を見てもっと驚きますが本当に立派な教会です。
長崎県では 大浦天主堂に次ぐ重文です。
「ミサの時はみせてあげられんけれど もう朝のうちに終わっているから・・・・」と中も丁寧にみせて下さいました。
このアーチちょっと笑えます。
良くある教会のアーチですが 普通はここはステンドグラスになっていたりしますよね?
全部煉瓦がはめ込んであります。
予算が無かったか 技術が足りなかったか・・・・・
手作り感満載で それでいて美しい事に感動です。
こちら側にはステンドグラスがはめ込んであります。
面白いのは二階の廊下
オペラ劇場のようにあそこにも席があるのかと思ったら あれは 飾りなんですって
いやー 実にそれらしく作ってあります。
教会が豪華に見えます。
ギリシャの神殿のような柱は何本かの丸木を寄せてあるらしく とても綺麗です。
柱に続くコウモリ天井への流れ 本当に綺麗だと思いませんか?
傘の骨組みのような天井 コウモリ天井って言うそうです。
板を寄せ合って見事なカーブを描いています。
ん?
板の模様が少し不自然です。
あの木目は全て手書きだそうです。嘘みたいな話です。
マルマン神父さん華やかにしたくて一枚一枚の木版に模様を付けたのだそうです。
これは下の方のドアの板です。
模様が木枠より下までかけなくて止まっています。 こんな風にみんなで模様を付けたのだそうです。
美しい祭壇です。
この先は聖域中の聖域なので入ることは出来ませんが
碧いいかにもヨーロッパ風の美しいタイルが敷き詰められていました。
有田焼だそうですから和洋折衷ですね?美しいコラボです。
祭壇をより神聖なものにしています。
マルマン神父さん手作りの説教台だそうですよ。
一時は2000人近くの信者さんがミサに訪れますから みんながよく見えるように 話が伝わるように 少し高いところからみんなの顔を見ながらお話をしたのでしょうね?
最初の頃床は板張り その後畳敷きに成り ぎゅうぎゅう詰めだったそうです。
最近長いすになって今のスタイルになったそうですから 信者数とも何となく合ってます。
穏やかでにこやかなマルマン神父さんです。
祭壇側も外から見て欲しいと言われ 少し登っていきます。
丸い壁です。
この中が祭壇に当たります。
こちら側から見ても綺麗ですねぇ。
少し時間があると言うことで 島を一周してくれました。
島の南側は会場にそそり立つ断崖絶壁が繋がっています。
ここが長崎鼻だったと思うのですが・・・・
古里鼻 根谷鼻 小崎の鼻 長崎鼻 女瀬の鼻と続きます。
タクシーから眺めただけですが立派なものでした。
ガイドさんの計らいで島一周くまなく回り 船の出航にも間に合い 九十九島の一つにそんな歴史のある島を巡ったことは とても意義深いことでした。