【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

まともな『座標-吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』書評を望む

2014-06-09 11:31:40 | 社会・政治思想・歴史

櫻井智志
インターネットで『座標-吉野源三郎・芝田進午・鈴木正』を検索すると、どの検索でもたった一件しかヒットしない。「KUMA0504」さんという方の感想文である。
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「座標ー吉野源三郎、芝田進午、鈴木正」期待したのだけど‥
「混迷する現代、思想家古在由重を縦軸に、吉野源三郎、芝田進午、鈴木正を横軸に、真理のベクトルを模索する」という副題がついている。その視点に共鳴して本書を手にとった。結果は、志だけが先走りして、なんら学問的な貢献のない本だった、という感想しか持てなかった。
全ての章に、読書感想文以上の厳密さはなかった。所々断定口調の文章があるが、根拠となる引用がされていない。たとえこの本が啓蒙書を意図して書かれているとしても、それならばなおこそ、重要な所は本人の肉声(引用)をもって証明するべきだろう。
吉野源三郎は纏まった書物を著さなかった。彼の本領は「君たちはどう生きるのか」などの啓蒙書にあるのではなく、「世界」等の編集を通じて、目的を明確にした世論形成にあったと私は思う。また、それを雑誌の構成、後書きなどで証明することは、日本思想史に貢献することだろうと思う。それは、これからの若手がやってくれないかと私は期待する。
その場合、芝田進午のように、決して研究室にこもることなく、実践的唯物論の立場から、是非とも研究を纏めて欲しいものだ。序でに芝田進午の方法も、何処に優位性があり、何処に壁があったのか明らかにすることは、これからの日本の民主運動に大きな貢献をすることだろう。
古在由重の本格的な評論もまだ作られていない。これも待たれる。鈴木正については、ほとんど知らなかったので、なんとも言えない。
また、これらの思想家を概観して、国民統一戦線の展望を書いている。古在由重にしても、吉野源三郎にしても、この分野での思想的貢献は大だと私は思っていたので、どういうことを書いているのか、注目した。残念ながら、これも感想文の域を出なかった。彼らが何を大切にし、何処でつまづいたのか、きちんと明らかにしないとこれからの課題は明確にならない。円卓会議が大事だ、なんてことは誰でも言える。
2014年4月5日読了
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 小生の『座標』を一通りでも目を通したかたなら、わかるであろう。この匿名のかたの文章は、まともに本を読んだ形跡がない。具体的に言おう。
①「吉野源三郎は纏まった書物を著さなかった」について
吉野の『きみたちはどう生きるか』を大学院生から助手にかけて読んだ丸山眞男は、感銘して日本独自の哲学的思想的貢献と書き残している。それを啓蒙書とか纏まった書物ではないと断定する著者の独断は、すべて『座標』の中に記されていることなのに、なんらその事実について記したことを通過している。
②゛「芝田進午のように決して研究室にこもることなく」について
芝田氏は、研究室にもこもると同時に、社会的実践に携わり、そこでの生の資料を取り入れてあれだけの労作を築き上げた。
③「鈴木正については、ほとんど知らなかったので、なんとも言えない」について
古在由重が原水禁運動の統一問題から、日本共産党を除籍され、いままで周囲をとりかこんでいた取り巻き学者が波がひくようにさわらぬ神にたたり無し、と関わりをやめていった。この時、ずっと古在さんの学問的人生的話し相手として『哲学者の語り口』をまとめあげたのが鈴木正である。そのことも書いているが、まともに著名な学者でないと自分の判断で何も言えないのだろうか。
④「国民統一戦線の展望を書いているが・・・感想文の域を出なかった」について
このかたは、まともな読書とまともな感想を書くつもりはない。自分が感想文と思うなら、感想文程度の著作に自分がどう考えるかの考えを述べるべきだろう。
⑤私は書斎に閉じこもったり、学会に論文を書いて業績をあげたとうぬぼれている最近の「唯物論哲学」学者を含めて、批判的立場にある。学問であるか、読書感想文であるかが大切と価値の判断を置かない。必要なのは、自らの生き方として戦後民主思想家の生き方から学び取ることが大事と考えている。
 インターネットで拙著『座標』の評価が、こんないい加減ででたらめな論評にも値しない文章がどこの検索でもヒットするようでは、教員の仕事の寸暇を惜しんで二十年間をかけて、系統的に読み分析し、唯一まとめあげた著作に費やした私の人生への侮蔑でしかない。ブログの論調から左翼とみなせるが、このような紋切り型左翼が古在さん、吉野さん、芝田さんらの哲学や思想を公平に評価せず、庶民に定着するのを阻んできたと私は考える。
 名古屋経済大学の副学長の激務からか白血病で闘病生活を闘っている鈴木正先生は、拙著を贈呈して、喜んでくれるとともに、知人に贈りたいからと十冊前後を購読した。芝田進午先生の奥様貞子さんは、平和のためのコンサートの入り口に十冊販売しませんか、と言ってくださったので、全額をバイオハザード反対研究・運動団体に寄付をこちらから申し入れた。吉野さんがいた岩波書店の社長、「世界」編集長にもそれぞれ贈呈した。
 なんのために『座標』を書いたか。それは、4人の思想家を虚心坦懐に知ることで、人間的情感を豊かにはくぐみ、それを土壌に寛容の思想、統一戦線の土壌と基盤、原動力をつかんでほしいと訴えたかったからである。【「左翼学界」の「業績主義」の学問】になど初めから関心はない。
 誰かいないか。
素朴な感想を文字化してくれるかたは・・・・・

なぜ「平和のためのコンサート」は15回も持続しているのか

2014-06-09 11:26:45 | 社会・政治思想・歴史
櫻井智志
 今年も6月15日午後六時半から新宿区牛込箪笥区民ホールで第15回「平和のためのコンサート」が開催される。憲法学の清水雅彦准教授(日本体育大学)が秘密保護法の内容と狙いについての講演を第1部としてなさる。第2部はアンサンブル・ローゼの重唱、狭間壮さんのテノール独唱をはざまゆかさんの鍵盤ハーモニカの演奏とともにうたう。末廣和史さんがピアノ演奏でアーティストをフォローする。
 いま日本は安倍自公政権発足後、野田民主党政権時には、考えられなかった急速な日本社会の変質化と諸外国との平和共存から恫喝的軍事大国路線と憲法の侵略国家憲法への逸脱ぶりを見せている。さまざまな国民、在日諸国民への強権的高圧的な抑圧も、懐柔政策も一体となって、安倍自公政権は、日本国の軍事大国化をめざしている。首相周辺の副大臣や内閣の事務官、日本銀行や報道機関のNHKへの安倍晋三氏個人の子分格の人材を配している。沖縄県の竹富町への文科省の強圧的な教科書の押しつけのような封建時代を連想させるような強権政治は、民衆の中に「権力にはにらまれないようにするのが利口だ」という暗黙の社会風潮が急速に拡大深化している。
 全国あちこちの選挙でも、都知事選の60%、京都府知事選の70%に及ぶ投票棄権率のような事態が見られる。少なくとも安部晋三の政治とは、議会制民主主義の形態はとりつつも、国会答弁やIOC総会で見られるように、憲法、原発、TPP、外交と全般に及ぶ二律背反とうそを平気でつく虚言癖とをなんら恥じることのない扇動政治家タイプの首相である。戦前戦後を通じて、このような政治道徳的なモラルの退廃した首相は、極めて少ない。小泉純一郎氏さえ「自民党をぶっ壊せ!」と言って小沢一郎氏の勢力や護憲野党を排撃することに成功したが、安倍晋三氏とはかなり異なる。
 世界各地に原発を売り歩くという「死の商人」と化した総理などとは、戦後皆無に近いだろう。しかも世界で米ソに次ぐ3番目の原子力発電所事故をおこし、いまも福島第一原発の事故は終息していないし、現在が原発事故過程という認識も持たず、よくぞまあ平気でウソを言って世界に売り歩くことができたものだ。
 このような日本社会の現状下で、さきに名を出した小泉純一郎氏と同じく総理経験者の細川護煕氏とが、原発を何としても廃止すべきだと法人を発足させ、自民党内でも村上氏や野田氏のように、明確に安倍自公政治を否定する有力議員も出てきた。参院選や都議選で元気だったのは、日本共産党一党だけだった。しかし、あまりにひどい国政指導の滅茶苦茶ぶりに、自民党内部や元総理経験者という保守勢力の中から、安倍政治にノー!!の声がいまわき上がろうとする直前の社会状態にある。今回の第1部で清水雅彦准教授は「国民の目・耳・口をふさぐ秘密保護法~その内容と狙い」と題する講演をなされる。まさに、今の日本の国情には、平和を願い平和を破壊する勢力と闘う国民世論もわき出ている 。
 「平和のためのコンサート」は、音楽文化のイベントである。けれどもこのイベントは、広く平和勢力を勇気づけ、平和を真剣に感じ語り、聴き取るイベントでもる。日本には「積極的平和主義」などと唱えながら、実際におこなっている中身は「積極的・平和破壊主義」を唱えるペテン師もいる。平和の意味・内容・感覚・感性をこの十五年間唱え訴え続けた社会的集団が「平和のためのコンサート」とそれを主催すると芝田貞子さんと支援する後援団体である。
すなわち、
アンサンブル・ローゼ、
ノーモア・ヒロシマ・コンサート、
ストップ・ザ・バイオハザード、
国立感染症研究所の安全性を考える会、
バイオハザード予防市民センター
である。
 思えばノーモア・ヒロシマ・コンサートを提案して運営した芝田進午先生は、核時代の思想と文化・政治と民主主義を思索して研究し、それを深めた実践的知識人だった。そうして、このコンサートを後援している三つの団体は、芝田先生が東京地裁判決を3月27日に控えた直前の3月14日に死去された無念の遺志を継承して、バイオハザード裁判を最高裁まで闘い続けた「同志」であった。
 このコンサートが15年間も続いているのは、芝田先生が死去されても、それを支援し継承している「平和のためのコンサート文化・実行集団」の持続する志の健在を証明している。このコンサートを共有したいと思った皆さんのために簡潔にコンサートの情報を記す。
期日 2014年6月15日(日)
   午後6:30開演(開場 午後6:15)
料金 ¥2,200(全席自由)
会場 牛込箪笥(うしごめたんす)区民ホール
都営地下鉄大江戸線 牛込神楽坂A1出口 徒歩0分
東京メトロ東西線 神楽坂駅2番出口 徒歩10分
お問い合わせ TEL/FAX 03-3209-9666(芝田様方)

大飯原発運転差止請求事件判決の概要とその意義

2014-06-09 11:23:58 | 社会・政治思想・歴史

櫻井智志
Ⅰ  判決の概要
大飯原発運転差止請求事件判決は、画期的な判決であった。以下に要旨をさらに省略して短くして判決の意義を私なりに把握したいと考える。
 主文は、以下の3点である。
・被告は、別紙原告目録1記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏内に居住する166名)に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において、
大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。
・別紙原告目録2記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏外に居住する23名)の請求をいずれも棄却する。
・訴訟費用は、第2項の各原告について生じたものを同原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
 その理由に注目すべき見解がうかがえる。
判決はいう。
 「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を間わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。
 個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。」
 人格という言葉が観念やカント哲学的な形而上学の概念と思われやすい中で、この判決は注目に値する。「生存権を基礎とする人格権」という概念は、今後法曹界において、究めるべき理論的なカテゴリーとして検討されていくだろう。
 判決は、福島原発事故についてこういう。
 「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。さらに、原子力委員会委員長が福島第一原発から250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討したのであって、チェルノブイリ事故の場合の住民の避難区域も同様の規模に及んでいる。
 年間何ミリシーベルト以上の放射線がどの程度の健康被害を及ぼすかについてはさまざまな見解があり、どの見解に立つかによってあるべき避難区域の広さも変わってくることになるが、既に20年以上にわたりこの問題に直面し続けてきたウクライナ共和国、ベラルーシ共和国は、今なお広範囲にわたって避難区域を定めている。両共和国の政府とも住民の早期の帰還を図ろうと考え、住民においても帰還の強い願いを持つことにおいて我が国となんら変わりはないはずである。それにもかかわらず、両共和国が上記の対応をとらざるを得ないという事実は、放射性物質のもたらす健康被害について楽観的な見方をした上で避難区域は最小限のもので足りるとする見解の正当性に重大な疑問を投げかけるものである。上記250キロメートルという数字は緊急時に想定された数字にしかすぎないが、だからといってこの数字が直ちに過大であると判断することはできないというべきである。」
 福島原発事故の実態と他国での原発事故の教訓を踏まえた判断が示されている。
 本件原子力発電所に求められるべき安全性について、判決はこういう。
 「原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。このことは、土地所有権に基づく妨害排除請求権や妨害予防請求権においてすら、侵害の事実や侵害の具体的危険性が認められれば、侵害者の過失の有無や請求が認容されることによって受ける侵害者の不利益の大きさという侵害者側の事情を問うことなく請求が認められていることと対比しても明らかである。
 新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば社会の発展はなくなるから、新しい技術の有する危険性の性質やもたらす被害の大きさが明確でない場合には、その技術の実施の差止めの可否を裁判所において判断することは困難を極める。しかし、技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけであり
、危険性を一定程度容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかといった葛藤が生じることはない。原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。」
 このように、原発の安全性と法理的判断の関連について判決は的確に見解をあきらかにした。
 さらに、安倍内閣が丸投げにしている原子力規制委員会の位置づけにもこう述べている。
 「原子炉規制法に基づく審査との関係は、人格権の我が国の法制における地位や条理等によって導かれるものであって、原子炉規制法をはじめとする行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない。したがって、改正原子炉規制法に基づく新規制基準が原子力発電所の安全性に関わる問題のうちいくつかを電力会社の自主的判断に委ねていたとしても、その事項についても裁判所の判断が及ぼされるべきであるし、新規制基準の対象となっている事項に関しても新規制基準への適合性や原子力規制委員会による新規制基準への適合性の審査の適否という観点からではなく、(1)の理に基づく裁判所の判断が及ぼされるべきこととなる。」
さらに、原子力発電所の特性として、原子力発電技術の特性として、原子力発電においてはそこで発出されるエネルギーは極めて膨大であるため、運転停止後においても電気と水で原子炉の冷却を継続しなければならず、その間に何時間か電源が失われるだけで事故につながり、いったん発生した事故は時の経過に従って拡大して行くという性質を持つ。このことは、他の技術の多くが運転の停止という単純な操作によって、その被害の拡大の要因の多くが除去されるのとは異なる原子力発電に内在する本質的な危険であることを指摘している。それゆえに、
 「施設の損傷に結びつき得る地震が起きた場合、速やかに運転を停止し、運転停止後も電気を利用して水によって核燃料を冷却し続け、万が一に異常が発生したときも放射性物質が発電所敷地外部に漏れ出すことのないようにしなければならず、この止める、冷やす、閉じ込めるという要請はこの3つがそろって初めて原子力発電所の安全性が保たれることとなる。仮に、止めることに失敗するとわずかな地震による損傷や故障でも破滅的な事故を招く可能性がある。福島原発事故では、止めることには成功したが、冷やすことができなかったために放射性物質が外部に放出されることになった。また、我が国においては核燃料は、五重の壁に閉じ込められているという構造によって初めてその安全性が担保されているとされ、その中でも重要な壁が堅固な構造を持つ原子炉格納容器であるとされている。しかるに、本件原発には地震の際の冷やすという機能と閉じ込めるという構造において次のような欠陥がある」として欠陥の所在を明確に指摘する。
「冷却機能の維持について
 日本列島は太平洋プレート、オホーツクプレート、ユーラシアプレート及びフィリピンプレートの4つのプレートの境目に位置しており、全世界の地震の1割が狭い我が国の国土で発生する。この地震大国日本において、基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。このような施設のあり方は原子力発電所が有する前記の本質的な危険性についてあまりにも楽観的といわざるを得ない。
 閉じ込めるという構造について(使用済み核燃料の危険性)
 使用済み核燃料は本件原発の稼動によって日々生み出されていくものであるところ、使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要するということに加え、国民の安全が何よりも優先されるべきであるとの見識に立つのではなく、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しのもとにかような対応が成り立っているといわざるを得ない。」
 さらに、現在の時点における大飯原発の安全性について、
 「国民の生存を基礎とする人格権を放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない。」としている。
 被告の主張についても、こう述べる。
 「他方、被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。
 また、被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」
上述の判断の展開に立脚して、結論を下している。
 「以上の次第であり、原告らのうち、大飯原発から250キロメートル圏内に居住する者(別紙原告目録1記載の各原告)は、本件原発の運転によって直接的にその人格権が侵害される具体的な危険があると認められるから、これらの原告らの請求を認容すべきである。」
この画期的な判決は、福井地方裁判所民事第2部の樋口英明裁判長裁判官、石田明彦裁判官、三宅由子裁判官の三名である。

Ⅱ 判決の意義
 法学に詳しくはないのて゛、Ⅰの要約で不十分さがあったら、ご容赦いただきたい。
Ⅱにおいては、判決が及ぼす社会的意義について考察したい。
 世間では、どうせ地裁で勝訴しても高裁、最高裁で敗北するから、残念だが勝ってもしかたない。こういう見方も見受けられる。私は以下のように考える。
 地裁・高裁・最高裁と三審制の日本において、地裁判決では良心的判決が出ることが多い。白鳥事件に対する伊達判決、国民の教育権を認めた杉本判決。今回の判決も、万一上級の裁判所で敗訴することがあっても、「人格権の保障」という観点を打ち出した判決は、原子力発電所事故に対して日本の法曹界が示したすぐれた判例として、後世の裁判官にも大きな意義を残すものとなる。
 さらに、安全性の考え方、被害のとらえかた、地震災害と原発事故との因果性など、今回の樋口判決は、安倍自公政権の閣僚からの介入に左右されない判決として国民全体に感動と自覚とを残してくれた。
 だが、このような判決が出ても、すぐに高裁金沢支部に上告した被告と検察の動きには、国家公務員としての職務から派生する「義務感・責任感」に基づいているのだろうか。そのような義務感や責任感は、フランス文学「レ・ミゼラブル」において、ジャン・ヴァルジャンを刑事としての忠実さから追いかけ続けたジャヴェール警部の義務や責任と似た性質のものと思える。人類が破滅する危険性を孕む原発の問題に対して、人類の破滅と存続という危険な二元論の前に立たされた時。東電社員である吉田昌郎氏は、福島原発所長として、事故の最も間近に直面して、被曝にもかかわらず、日本列島の原発事故が3号機の爆発に直面して、昼夜分かたず破滅からの救助に一身を賭けて、取り組み続けた。吉田所長の言動こそ、公的な責任と義務の化身と思われる。凄絶なガンで死去された吉田所長のことを思うと、被告の側に立つ検察当局は、現代なにが公僕として必要なのか、沈黙のうちに明示されているではないだろうか。
 民衆の側に立つ社会運動は、樋口判決の社会的意義を十二分に咀嚼して、今後の反原発運動のなかに生かしてほしい。
 まず第一に、反原発の原理原則としての「安全性の考え方」を体現しえない運動では、地震列島の日本から原発事故は阻止できない。
 第二に、保守勢力から出てきた細川護煕氏・小泉純一郎氏の反原発運動についても、予断をもたず十二分に見極めて、もしも反原発運動をになう点で一致できる点があれば、広く提携し連携しあってほしい。ただし、反原発を建前としての知事選挙などの民衆分断行動などが第一義ならば、連携の余地は薄れる。この問題は東京都知事選でも見られた紛争点問題点なので、同じ轍を2度と踏まないようにと念を押したい。
 第三に、政府安倍自公政権は、すでに全国各地の原発再稼働をなかば強行的に踏み切ろうとしている。その時点に出た樋口判決は、社会運動ではなく、法曹界の見識ある良識派の勇気に満ちた判決である。このように、社会運動圏とは離れた国民的規模で、原発事故の問題を真剣に考え、心をいためている多くの国民的良心に十二分に失望ではなく希望を与えるような反原発運動の構築が求められている。
 国民的良心にあふれた法曹界の誠実な判決に、日本国憲法の精神を継承しようとする民衆側が応じる順番がきた。

国民へ強制された「単眼」の認識様式

2014-06-09 10:29:04 | 社会・政治思想・歴史

 安倍政権は、情けない一期目の惨状とは段違いの状態である。抵抗し国民的構想をもつ日本共産党や社会民主党、緑の党などの野党は、国会では少数派である。「ゆ」党のいわゆる野党は、強大な自民党の前で内部抗争や離散集合を繰り返し、国民的支持を得ている政党などない。
 安倍自公政権の横暴ぶりに国民は広く怒りや無力感を感じているが、その怒りや反発は届いていく回路が切断している。なぜこのような状態が生じているのか。私は、安倍自公政権が国民に対して、発生している政治的社会的惨状を、国民が事実を正しく認識することを阻む弊害を意図的計画的に招くような「仕掛け」を巧妙に設定しているという仮説をもっている。
 端的に言うと、国民は社会的認識を偏頗で歪んだステロタイプの社会認識しかもてないようにされている。そのような仕掛けは、安倍自公政権が主体であり、国民全体が仕掛けられた客体である。
 その仕掛けは、「柔らかい弾圧と巧妙な政策」によって形成されている。外国特派員が本国に知らせたニュースが、政府を経由して日本国内で流布しているニュースとは全く異なることがある。戦後に進歩派と目された朝日新聞や毎日新聞でさえ、報道されるニュースは、政府の公報と変わらないような性質のニュースが見受けられる。産経や日経、読売などの全国紙は、さらにひどい場合がある。各社の社説や論調は、とくにひどい。原発報道、TPP、集団的自衛権、憲法改定問題など社会の岐路を示すような展望が、国民の社会的認識を深めたり高めたりするよりも、一定の決まり切ったような政府見解の二番煎じ三番煎じとなっている。
 さらに安倍自公政権は、NHKのような公的要素を孕む報道機関に、誰もが知っている会長や経営委員の人事の安倍総理独特の独断専行強行をすすめてきた。安倍総理に選任されたNHKの会長や経営委員が、いかに社会的常識から逸脱して世間で問題となっても、国民の声は無視してそのまま知らぬ顔ですませている。
 安倍政権は、沖縄県の良心的な報道を続けている琉球新報や沖縄タイムスの本社にいきなり報道が偏っているから是正すべきだという弾圧的介入をおこなった。まさに安倍自公政権とは、報道機関を籠絡と懐柔、弾圧と恐喝めいた対応で世論誘導を行い続けている。
 国民は、政府が言うことだから、と半分は懐疑をもっても、半分は信じ込もうとする。人間にとって、不安と失意に晒され続けていることは、ナチスの時代に『夜と霧』を執筆してドイツ・ナチズムのアウシュヴイッツ収容所的社会を告発した精神科医E・フランクルが描いた実態に明らかである。日本でも、戦時中に戦争を批判したり愚痴ったりすると、憲兵や特高はおろか「向こう三軒隣組」が監視機能を果たして「お上」に告げ口しあう卑劣な日本社会に落ちていった。そしてこれがただごとでないのは、現在の日本社会が、不安と失意にさらされている日本国民に、物事を「複眼」で多元的に判断する自立心と自主性とを奪いさり、上から単一的な「正解」の価値を注入されないとなにか落ち着かず、社会的事象を単眼で見ることに落ち着きと安心感とを得るように変質してきたことである。
 そのような日本社会の変質は、容易に戦前型軍国主義管理社会に親和性をもつ。東京都知事選に自民党よりもさらに反動型の候補者が石原慎太郎氏の支援で、そうとうな都民の支持率を獲得した。東京都では、石原慎太郎都政の実現以来、都立高校の教職員が卒業式で「君が代」を歌い「日の丸」に敬礼しないで着席している教職員を相次いで弾圧し、処分を下していった。中には懲戒処分を受けた教職員さえいた。そのような管理社会を都立高校に現出させたのは、石原都知事に任命された東京都教育委員会の判断に基づくものであった。石原氏は戦前、戦時中の天皇制軍国主義をよしとするものなのか?つい最近、私は石原慎太郎に関する記事をインターネットで読み、驚いた。本評論の文脈で以下に転載するしだいである。
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石原慎太郎、衝撃発言「皇室は日本の役に立たない」「皇居にお辞儀するのはバカ」
 「負けたのにヘラヘラ『楽しかった』はありえない」「メダルをかじるな」、そして「君が代は聴くのでなく直立不動で歌え」。
 2月23日に閉幕したソチ五輪に関連して、「明治天皇の玄孫」として話題の右派論客である慶應義塾大学講師・竹田恒泰氏が、日本選手に対して上記のコメントをTwitterに投稿して物議を醸したが、スポーツの国際大会では出場選手に対して、しばしば国家への忠誠を強要するようなプレッシャーがかけられることがある。
 中でも厳しいのは試合前や表彰式での「国歌斉唱」のチェックで、元サッカー日本代表の中田英寿氏のように「国歌を歌っていない」として右翼から街宣や抗議を受けたケースも少なくない。
 そんな中、意外な人物が「国歌なんて歌わない」と堂々と宣言して一部で話題になっている。
 政治家でありながら中韓に対してネトウヨ顔負けのヘイトスピーチ的発言を繰り返し、東京都知事時代には尖閣諸島の買収を宣言して領土問題再燃のきっかけをつくった人物。日本維新の会共同代表・石原慎太郎氏である。
●石原氏「国歌は歌わない」
「文學界」(文藝春秋/3月号)に「石原慎太郎『芥川賞と私のパラドクシカルな関係』」と題されたインタビューが掲載されているのだが、そこで石原氏は「皇室について、どのようにお考えですか」と聞かれ、次のような発言をしているのだ。
「いや、皇室にはあまり興味はないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときにはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」
 つまり、石原氏は国歌を歌わないばかりか、仕方なく歌う場合には歌詞を「君が代は(天皇の世は)」ではなく「わがひのもとは(私の日本は)」と歌詞を変えてしまうというのだ。
 代表的な右派論客が堂々と天皇をないがしろにするような発言をしていることに驚かれる読者もいるかもしれないが、石原氏がもともと反天皇制的なスタンスを取っていることは一部では知られていた。今から約50年前、天皇一家の処刑シーンを描いた深沢七郎の小説『風流夢譚』をめぐって、右翼団体構成員が版元の中央公論社の社長夫人と家政婦を死傷させる事件が起きているが、事件の直前に石原氏はこの小説について、こんなコメントを寄せている。
「とても面白かった。皇室は無責任極まるものだし、日本になんの役にも立たなかった。そういう皇室に対するフラストレーションを我々庶民は持っている」(「週刊文春」<文藝春秋/1960年12月12日号>)
●国歌斉唱時の起立義務付けをしながら、自分は斉唱拒否
 先に紹介した「文學界」インタビューでも、石原氏は戦時中、父親から「天皇陛下がいるから皇居に向かって頭を下げろ」と言われた際、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね」と語っている。
 もちろん思想信条は自由だし、最近は反韓反中がメインで天皇に対しては否定的という右派論客も少なくない。だが、石原氏は都知事時代、都立高教員に国歌斉唱時の起立を強制し、不起立の教師を次々に処分していたのではなかったか。また、日本維新の会の共同代表で石原氏のパートナー・橋下徹氏も大阪府知事だった11年、国歌斉唱時に教職員の起立を義務付けた、いわゆる「君が代条例」を大阪府で成立させている。
 一方で国民に愛国心を強制しながら、自分は平気で「国歌が嫌い」と斉唱を拒否するというのは、いくらなんでもご都合主義がすぎるのではないか。
(文=エンジョウトオルさん)
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 石原氏のご都合主義は、この日本社会の支配階級に属するひとびとの無責任さといい加減さを物語っている。民衆を統治するためには、無理難題も道理に合わない言動も平気でとる。少なくとも、私は石原慎太郎氏、森喜朗氏、麻生太郎氏などの歴代の総理や代議士よりも、いまの天皇ご夫妻のほうがどれほど民主主義者に近いと考えている。
 いま日本社会は、国民を単一の価値観に誘導し、安倍自公政権の価値観のままに「教化」する道に羊のようにいざなわれている。そのことを見破り批判し論破するような国民は、陰湿な政権下で徹底した監視と統制のコントロール下に置かれている。そのことが、毎回の重要な国政選挙や首長選挙で厖大な棄権者を出している原因である。国民は無関心なのではない。政府の驚くべき統制と弾圧策のもとで、おびえ失望の中にいる。そこから一部は、自民党よりも反動的な政治的潮流に身を投じたり賛同したりする動きとなっている。単眼的価値観育成には、マスコミとともに教育制度が有効なものとして悪用されている。東北大学教育学部長や宮城瀬教育大学学長を務めた教育哲学者林竹二氏は、『教育亡国』を表して嘆くとともに、自らの全国授業行脚を通して、真の教育は東京の名門小学校での授業でなく、湊川工高定時制や沖縄県小学校にこそ営まれていたと授業記録を出版された。
 マスコミと教育機関を通じて、日本をファッショ化してていこうとする日本亡国派に対して、広範な国民の真実と勇気の持続する営みが、歴史上の現代日本に強く求められている。すでに遅い。しかし遅すぎても、尻尾を巻くよりも立ち向かうことこそ、亡国派に対する抵抗のあかしとなる。次の世代への継承として。