毎晩、日常的に繰り返される夜汽車の発車に
星の数ほどの別れがあった。
1975年 博多にて 44レ
久大本線は、福岡の米どころ筑後平野の久留米を起点に、平野を横切り県境辺りから山間に分け入る。
大分県に入って最初の駅が夜明駅で、北九州から筑豊地区を縦断してきた日田彦山線が合流する駅でもある。
美しい駅名が相応しい緑濃い駅は分岐駅ということもあって当時とても賑やかだった。
国鉄時代らしく雑多な気動車を寄せ集めて編成された列車には山岳路線ということもあってダブルエンジン車を多く連結した。
今ではとても想像できないほど長大な編成の各駅停車列車が行き来していた。
GW中だったかその前後だったか記録が残っていないが、この日もこれから街に出る人仕事へ行く人、学校へ行く人などなど
多くの人々がこの夜明駅を利用していた。
そして、人だけでなく郵便も荷物も新聞も鉄道によって輸送され、生活のど真ん中に鉄道が存在した時代。
鉄道は今でも公共交通手段に他ならない。
一度よく考えて欲しい、人に迷惑を掛けておいていざ都合が悪くなると平気で線路に逃げ出したり、
乗車マナーを逸脱したり駅員に暴力を振るったりと、自分が利用させてもらっているのに自分の都合を第一優先させようとする考え方。
いつからこの国の人々はそんなに行儀が悪くなったのだろうか・・・。
1978年5月撮影
7月上旬並みの本日の暑さ。
丸7年前の烏山線より、清涼を献上!
この日も本日同様に暑く、滝で水遊びする子どもが居たくらいだった。
清涼感の中では、タラコも国鉄ツートンも敵わず烏山オリジナル色に軍配。
2010年5月8日 烏山線
今日は端午の節句。
一部再掲で、エイティーズのヒガハスより。
撮影順で三題並べる。
最初は、つい先日原車での運用を終了した485系によるはつかり。
こうしてみると、今の宮浜界隈も随分変わった。
次は、今も活躍するPF族の貨物。
ワムを連ねた編成は紙列車?
大きな鯉幟が印象的で、この切り位置に変更。
そしてこの日のメインディッシュは・・・
ゴハチ117号機による404レ津軽。
すでにハザが12系化され魅力半減でもゴハチが先頭に立つ姿はカッコいい。
残念ながら風が出て鯉幟が泳ぎ始めた。
興奮の余り、手持ちカメラが曲がっているのは愛嬌ということで・・・。
1981年 端午の節句頃宮浜にて
先週土曜に訪問したわ鐵の34年前の写真である。
学生時代に二度ほど訪れているが、もう一回の時は貨物を撮りに行ってウヤで撃沈。
この時は、足尾線はおまけで近所のインダストリアルナロー狙いの行きの駄賃だったと記憶している。
朝の足尾駅に佇むDE10 55号機。
54号機と共に二両だけ氷柱切だか庇が付く異形機で、四角いデフォッガーも付く。
機関車の陰で見えないがタキがズラリと並んでいて、駅にはすでに導入されていたキハ40系が停車中。
残念ながら、操業中の銅山引込線のカットはない。
というのも、ヤマケイカラーガイドのローカル線の旅で見た荒涼とした禿山の写真と、鉱毒事件の話から敬遠していた覚えがある。
そして駅前の荷役線跡の写真が残る。
旭重工業製の6t機。
その氏素性は不明で、足尾駅構内の入換に従事していたのかはたまた鉱山内で荷役していたのか・・・。
1983年秋 足尾駅