電車は編成をそう簡単には入れ替わることは無いけども、
特急型やキロを除いて全ての車両に運転台が備わる急行型気動車は様々な理由でその編成の組み換えがされていた。
もともと分割・併合の利便性からそういう設計にされたのであろう。
ある日の竹下区の昼下がり、偶然その組成作業に出くわした。
けして広くは無い竹下気動車区の構内で数名の手旗信号掛が車両に乗り込んで作業が進んでいく。
幹線系統の列車となると10両以上の編成となり、そのすべてにエンジンを搭載するのだからメンテも大変だったであろうし、
調子が悪いクルマは編成から抜いて代替車を繋いだりと。
黙々と淡々と組成作業をこなしていく職人の眼差しが印象的だった。
1977年10月 竹下区にて
70年代の九州管内を縦横無尽に駆け抜けていたディーゼル急行。
その編成中に1、2両混ざるキハ65。
近代的なエクステリアとエアサスかつ複雑な構造の台車が精悍でお気に入りの車両だった。
特に山登りをする九大、豊肥などの山岳路線を駆ける急行のそれは一層逞しく凛々しくもあり。
火の山のサボを見ながら、今日も外輪山登りするのかぁ・・・と。
編成中1両のキハ65が愛おしかった。
写真上)回送火の山(?)鹿児島本線 竹下~博多 1977年1月、下)急行火の山 博多駅 1976年4月
親友の自宅脇から見る鹿児島本線。
今ではJR春日駅の大野城寄りの駅端辺りになる。
画面左に少し写り込んでいるように当時の線路脇は無粋な金網ではなく古枕木を組んだ柵。
その上に腰かけて親友と鉄道談義をしながら通過列車を見送るのが平日の中学校帰りの日課であった。
画面右の塀向こうは、すでに返還になっていたけれど元の米軍駐屯地の「春日ベース」。
年に一度だけ7月4日のアメリカ独立記念日にカーニバルが催されてベース内に入ることができるそこは正に外国。
その名残の並木や燃料タンクが懐かしい。
この場所で15時台に上ってくる定期重連貨物を見送るのが好きだった。
1976年4月 鹿児島本線 白木原~南福岡 ED731019+ED75地域間急行貨物
折からの雪は次第に強くなっていった。
降り積もる雪の降る音が聞こえそうな平瀬の静寂を破って
トンネルを客レが飛び出してきた。
平瀬トンネルが穿たれた大正の代に取り沙汰された国鉄の改軌論争。
結局狭軌のままであったが、この平瀬トンネル両出口付近は狭軌規格だが中央部は標準軌規格だとか。
改軌論争に翻弄された平瀬トンネル日出谷口には「宝蔵興焉」と当時の鉄道院総裁後藤新平の揮毫が掲げられる。
1982年2月 磐越西線 鹿瀬~日出谷 DD51547客レ
集落の奥まった所、磐越西線の線路脇にはお社が鎮座。
2月には鐘馗さまといって願いわらを皆で持ち寄り大きな藁人形ををつくり祀る奇祭が行われる平瀬。
お社の神域にひろがる鎮守の森。その続きに植わる数本の冬枯れの柿の木をかすめてDD貨物が通り過ぎる。
柿の実は干し柿にしたり鎮守様のお供えにしたりと重宝される大事な集落の作物の一つなのだろう。
1982年2月 磐越西線 鹿瀬~日出谷 DD51547貨物