山陰本線好きの電関人が初めて出かけたのは、オリンパスOM-1を手に入れた75年12月のことだった。
どうゆう訳だか今となっては記憶がおぼろげであるが、その美しい名前に惹かれて岩美を最初の撮影地に選んでいる。
きっと国土地理院発行の2万5千分の1地図で場所を見つけたと思うが、謎はいかにして岩美に行ったかである。
中一坊3人組での旅だったが、初日は出雲大社参拝をして米子の皆生温泉あたりのYHに泊まったのであろう。
記憶が全く途絶えているが、米子を4時40分に出る京都行820レに乗車しないと、岩美で18Dや2003レが撮れないのである。
かくして岩美に到着後、最初に撮った上り貨物の先頭に立っていたのは、既に本線運用が稀少になっていたDD54で15号機だった。
寒いながらも期待した雪は無く、雨でぬかるんだ畦から18Dを撮影。
初めて目にした9両編成の82系はかっこ良かった!
そして、岩美でのメインは2003レいなばである。
18Dよりもう少し寄りでと思ったのだろうが、時間切れだったのかケーブルがかかった酷い写真をデジタル救済(^^ゞ
二日間とも愚図ついたこの夏の様な空模様の山陰本線初撮影旅行は以上のカットで終え、山陰号で京都に出て関西の撮影&観光をし
帰福した旅程となっている。
1975年12月28日 山陰本線 岩美~東浜
高2のGW、夜明駅に居た。
山間の駅は、ホーム上の植木まで丹精されて気持ちが良い。
黄金週間只中の貨物は、ワフ一両のみを従え。
今もなお沿線景観が美しい久大本線。
先の豪雨で災害に遭われたすべての方々へお見舞い申し上げるとともに、
少しでも早くに生活が復旧できますよう、心より祈念いたしております。
1978年5月 久大本線夜明駅
秋分の日を迎えるとそろそろ4レの撮影も厳しいライティングになってくる。
この頃から心酔していた巨匠廣田さんを真似て・・・
沈む太陽を追うかの如く飛翔するはやぶさと。
九州時代に最も多く撮った被写体であろう。
1977年9月15日 鹿本 二日市~水城
ノートリミングでもう一度。
1978年。新東京国際空港(成田)が開港し、チャリティー24時間テレビが放送開始され
大阪ではニュートラ、東京ではハマトラがトレンドファッションで、
使い捨てカイロやパンパースがもてはやされ、インベーダーゲームブーム旋風が巻き起こり赤いきつね・緑のたぬきがヒット。
そして、キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と解散して、
会社でラインを外れた中年おじさんたちが窓際族と命名されて、
「不毛地帯」や「不確実性の時代」がベストセラーになった年の夏。
夏の旅始まりの駅は冒険心や好奇心と不安感が入り混じるクロスポイント。
17歳の電関人も初めて大東京近郊への撮影の旅に出た。
もちろん特急なんて贅沢は無しで、周遊券で204レにて大阪地区へ途中下車の旅経由。
1978年8月5日 博多駅 6レ入線
今週は、遠征に向けて蒸機撮影のイメトレ。
10年前のコマから、800万画素のフォーサーズ機で必死に列車を追っかけていた時代。
スペックギリギリの暗さの中、阿賀野川を渡るばんもの。
かえって銀塩にも似たコンディションが今は新鮮。
夢中で振る連続カットで踏切と草木が被っているが、
キャブ内の緊張感が伝わってくる。
シゴナナのサイドビューには惚れ惚れ。
2007年 ばんもの@日出谷~鹿瀬