もともと電関人には紅の機関車は珍しくない。
しかし星が付いてからはその見方が全然変わった。
万能機は、栄光の急客機の称号を与えられたのである。
上野と青森を何往復したのだろう。
地球を何周したのだろう。
任を解かれても、牽くものがある限り紅の専用機は、専用機であり続けるのだ。
2010年11月13日 田端運転所 EF8188号機ほか
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磐越西線には、DD51牽引の客車や貨物を追って高校時代から通い始めそして今もばんえつ物語を追って通い続けることに。
通い始めの磐西には、DD51の若番やら旧客の30系がゴロゴロしていた。
早朝の一ノ戸川橋梁を渡る上り列車は、スハフ32を皮切りにオハ35系を2両連ねある意味見事な編成美を形成していた。
3両ともにドア部分が微妙に斜めに絞り込まれた特徴が見て取れる。
そして、今は黄色く派手に塗られたトラスやアンダーガーターも御齢105歳のアメリカン・ブリッジ製。
電関人は、昔からこの場所が好きである。
1981年3月 磐越西線 山都~喜多方
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福岡は九州といえども日本海に面し、冬場にはしばしば雪が降った。
今でこそ都市気候でそんなに積もることはなくなったのだが、電関人が福岡に居たころには1シーズンで何度か積もった記憶がある。
そして、いったん雪が舞い始めると一目散にカメラを持って自転車で出動した。
写真は、やはり2月のある雪の日に出動したもののたちまちに止んで晴れてしまった一枚である。
日陰には、うっすらと雪化粧していたものの写真ではほとんどわからない。
数本前までの列車には雪がついていたけれども、このED731013号機の解結貨物にはまったく着雪が見られない。
天気の回復が早いこの時は風がとても強かった思い出が残る。
冬の貨物列車だけに、燃料輸送用のタキが多くみられたのも風物詩だった。
1977年2月17日 鹿児島本線 白木原~南福岡 ED731013号機 解結貨物
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中学から高校にかけて、暇を見つけてはせっせと筑豊地区を一筆書き旅行で巡った。
それは1にも2にも蒸機時代の名残を探し求めての旅だった。
本当は、駅を出て街中や炭住、ボタ山なども撮り歩きたいのであるが何せ60円での一筆書きにつき。
香春駅で添田線接続のため駅中をうろつくと木造の駅舎の軒下でこんなものを見つける。
使い込まれたタブレットに蒸機の面影を見るとともに端正に道具置場が決められているところに鐡道職人気質を感じた。
77年当時はまだ残った炭鉱があったようで線路脇の大きな石炭の山とかつてキューロクに牽かれていたセラの列が
つい最近まで黒いダイヤでこの一帯が栄えていたことを誇示していた。
1977年10月 上)日田彦山線香春駅、下)撮影場所不明
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何度となく通った餘部。
それでも記録できたのは極々わずか。
できることならば1年丸々住んで取材してみたかった。
列車が来ないひっそり静まり返った餘部のホームで唯雨音だけ聞こえる。
トンネルの中に二つの光。
轟音とともに特急が通過していく。
そしてまた静けさが戻り、潮騒のみ。
雨の餘部。
1977年12月 山陰本線餘部駅
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