2007年2月、ゆとりが団体で水郡線から東北本線を走るのを追って出撃。
DE10牽引とED75700番代2種のゆとりを楽しんだ後、帰りの駄賃で淡い期待でED75を待ちます。
しかし、この日はすべてEH500で残念ながらED75はゆとりを牽く東日本の700番代のみでした。
そんな白河付近でのEH500のカットの中にちょっと変わった写真があったのでそれをアップします。
この頃ほとんどのEH500にHMステーのような器具が取り付けられていましたが、この38号機は未装着ですっきりしています。
ところが前面ナンバーが黒いシールの様な感じです。サイドのナンバーは普通の銀色でいまだ謎のまま。
今は普通の銀色のようですが、何かの試験的なものだったんでしょうかね!?
2007年2月12日 東北本線 白河付近 EH50038号機 列番不明
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ここ数日暑い日が続いており自身のテンションが下がりつつあるので、
こんな時には一番好きなもので行きます。
1978年夏高校2年生で東京遠征の往きの駄賃で山崎で関西ブルの回送や下り東海道夜行などを撮りました。
当時罐の運用など全然分かっておらず、唯一この列車は何処機関区持ちということぐらいでした。
電関人のゴハチコレクションの中でも一番の手薄は東機こと東京機関区のゴハチ。
この日は、本来宮原持ちの銀河51号ですがラッキーにも東機、しかもお気に入りの88号機がやってきました。
可変式スノープロウが往年の雰囲気を醸し出す88号機。
1978年8月 東海道本線 山崎付近
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猛暑の週末。
電関人は、すっかり自宅待機モードでオリンピック三昧です(爆)
で、早速新シリーズの2回目ですが若番のデデゴイチをアップします。
当時鉄道雑誌に載った先行量産型の写真を見てその最後の活躍の地である磐越西線に行きたいと思いました。
ようやく念願かなって初めて彼の地を訪れたのは81年春。
残念ながら19号機までの先行量産型は既に休車になっていたようです。
それでも、初期量産型2両目に当たる21号機に会えたのはラッキーでした。
こうして、先行量産型にはこの時会えなかったのですが、その翌年の82年の秋に羽越線、奥羽線の鈍行列車の旅で
奇しくも疎開留置中の彼らに巡り会ったのです。
あつみ温泉駅の側線に13号機を先頭に4両のDD51が留置されていました。
残り3両のナンバーは残念ながら確認できませんでしたがすべて先行量産車の特徴である前面の白線が一文字だったようです。
初期量産車の最若番である20番代機にはその後会う機会がありませんでしたが、電関人が良く通った山陰本線にも
とても元気が良い20番代機が居ました。
写真は77年の山陰撮影旅行の際の1枚。
この24号機は落成後門司や早岐といった九州で活躍していました。
その後、米子に移り最後は吹一で80年代中ごろまで活躍したようです。
山陰で良く会った割にはまともな写真が無くこのカットを貼っておきます。
これから残りの初期量産型の2ケタ機を少しずつアップしていきますのでお付き合いください。
撮影;21号機 磐越西線徳沢駅 1981年3月、13号機ほか 羽越本線あつみ温泉駅1982年10月、
24号機 山陰本線浜坂駅 1977年12月29日
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現役定期のDD51も北海道と関西本線系統、それに岡見貨物ぐらいになってしまいました。
そう多くはありませんが、ロクヨンセン同様電関人の鐡人生と共に歩んできたDD51をそろそろブログ上でまとめてみようかと
新しいシリーズをポチポチアップしていきます。
その第1回目に相応しいネタで・・・
本当は、現役時代に撮ってみたかった奥羽本線DD51重連日本海。
願いは叶わなかったのですが、違う意味で07年早春にプチ嬉しい出会いがありました。
鉄道文化村で秋田区に居たファーストナンバーが日本海のHM付きで出迎えてくれました。
落成当時の塗装に戻され、出目金、キャブ庇無しの特徴あるスタイルが静態とは言え存在感十分でした。
2007年2月24日 鉄道文化村にて DD511号機
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