集落内の沿線は、今のJR線路沿いとは全く違いとても丹精されているというか・・・。
十数戸の家々が寄り添うように建つささやかな集落内は線路沿いの狭い土地も効率よく利用されていた。
築堤脇に等間隔に立つ背の高い棒は、おそらく刈り込んだ稲穂を干すためのハザ掛け用のものだと。
周囲の植え込みにも丹念に雪に対する細かな手入れが施されていた。
1982年2月
平瀬の集落内は築堤で弧を描きながら抜ける磐越西線である。
平瀬トンネルを抜けてきた客レをその築堤のひらけたアウトカーブから撮る。
DDはほんのり雪を着けていてどうやらトンネルの向こうでは雪が降っているようだ。
九州からの流れ罐のようで、前面の形式ナンバーの地の白が省略されている。
新潟地区のDDは二ケタの初期型が多く、この時期前後して随分と配置換えの三ケタ・四ケタ罐が増殖中だった。
この756号機、熊本の新製配置で本線や肥薩線で活躍した罐で奇しくもこの度京都に新設される鉄道博物館入りする。
1982年2月 磐越西線 鹿瀬~日出谷 DD51756+旧客
「平瀬」と書いて「ビョウゼ」と読むらしい。
磐越西線日出谷から鹿瀬に向かって行き阿賀野川を渡ってトンネル手前の十数戸の集落が平瀬である。
平瀬との出会いは1981年早春で、大学の倶楽部の合宿だった。
箱庭のように数軒の日本家屋が沿線に並び、引けば雄大な山をバックにした背景を併せ持つ魅力的な場所。
まずはその入口の踏切付近から田圃越しに民家の屋根を入れての後追い。
新たに降った雪がうっすら積もる屋根をアクセントにスハフ32を従えた客レを撮る。
1982年2月 磐越西線 日出谷~鹿瀬
ブルトレの中でも格上の風格を持つ20系。
その20系のあかつきを撮りたいものの74年当時21・22レ下り1号と上り7号の1往復のみで福岡界隈はいずれも真夜中の通過。
幻の20系あかつきはゴーマルサン改正と共に露と消えることに。
しかし・・・
その白紙改正で、20系長崎線用簡易電源車マヤ20が引退しその後継24系用簡易電源車として現れたのがカニ25。
元20系のカニ22を改造したもので、鳥栖へ行けばあの憧れの大型テールサインを拝むことができるようになった。
78年10月改正までの約3年間ではあったが、憧れの20系あかつきとの淡い蜜月の日々が訪れた。
2枚とも1976年撮影 鳥栖駅
本来の狙いは、竹林をバックにサイド狙いで・・・。
ところが電車が来る頃には大粒の雪がどんどん強くなっていく。
結構暗かったのでSSも絞りも中途半端な値で、このボヤボヤのネガを遂に印画紙上には上手く表現できずに断念していた。
それから幾星霜。不意にこのコマをPS上に開いてあれこれ弄ってみて何とか当時のイメージに近づけてみた。
雪のヴェールの向こう側左手に竹林がぼんやりと薄墨で描いたようにあってツートンカラーの電車であることと、
屋根上のお椀型ベンチレーターがなんとなく判っていただけたらお慰みモノ。
1982年2月 蒲原鉄道 高松~土倉