・まことの自己実現を生きていくためにも、私は健全な意味での宗教の復活ということが大切なのではないかというふうに考えております。
・「十牛図」はユングが述べている個性化の過程を非常に美しい方法で示しているものだと思います(河合隼雄)
・私が、私が、という自我中心、自我肯定の立場に自分でもそれと気づかずに生きてきていたといえる。命がけで目標に向かって頑張るということは、確かにすばらしいことなのだが、しかしただそれだけだと、自我中心の閉じた姿勢になってしまい、反対するものは排除し、ときには、ぶつかって相手を傷つけてもそのことにすら気づかずにひたすら走りつづけるという状態にさえなってしまう。自我中心の生き方が根底から破られ、他者に対して開かれているという柔らかな姿勢がないから、前を歩いている人、横を歩いている人が、たとえどんなに貧しく淋しい思いをいだいていても、そんなことに全く気づかずに、ただ自分が目標としている価値観から人を裁くということになってしまう。
ところがキリストとの出会いの体験によって、パウロの生き方が、私が、私が、という自我中心の生き方へと転換されたのだということを、この手紙での「神が、・・・御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」という表現が示していると思うのである。
・道元も「正法眼蔵」のなかの「生死」で次のように語っている。
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなうなり、仏のありさまをとどむるなり、いとふことなく、したふことなき、このとき、はじめて仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ、ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる、たれの人がこころにどどこほるべき」
・ステファノ殉教とパウロの回心
ステファノの殉教の場面に、証人として立ち会ったパウロ。
ステファノは”主よ、この罪を彼らに負わせないでください“と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
・「ローマの信徒への手紙」12章 「各自がキリストの体の部分であることを自覚して、互いに心を一つにして相手を尊重することをすすめている」
・Xが存在するのではない。本当は存在がXしているのだ!
・やはりみんな価値を求めてやってくるので、その価値を脱いでしまった時には、それに耐えるより仕方がないのでしょう。自分が価値をたくさん持っていて、知識なり、地位なり、おカネなり、名声なりをたくさん着ていた時には、その名声に引かれていろいろな方が来ると思うのですが、その時の自分を大切にするのは割合にやさしいのでしょうが、その価値を脱いでしなわなければならなくなった時に、そういう自分を大切にできるかどうかが、大変に大事なことなのではないかと思うのです。
・意味のない苦しみには耐えられない ビクトル・フランクル
・もっと大きなものの中に自分が見えてくる。外から来る目の中に自分を置く。自分を中心にするのではなく、そちらを中心にして生きることを言っているのです。
・キリストの生命に生かされて一つなのだ。
・生活と人生の次元のちがい。
生活というのは、ある程度、自分が中心にいて、例えばどうやったらもっとおカネが儲かるか、どうやったら家庭がうまくいくか、どういうふうにしたら老後の生活がうまくいくか、という次元でものを考えていたわけです。人生の次元というのは、人間は必ず死ぬ、死ぬというのは別れることでもありますから、人間は必ず別れなければならない。老いを迎えるにあたって、死ぬまでの残された人生のうちで、この自己の相対化ということが、どこまで腹の底からとらえられていくかが、私のこれからの課題なのではないかと思っております。
・自分が主人公というものでもなくて、大きな神さまのみわざが実現される場として、大きな全体の中に見えてくるということが、何か私は非常にたいえつなことなのだと思っています。
・アッパという祈りとともに、その神さまのみむね、みわざ、神さまから動いてくるブネウマ(聖霊)の働きにお任せするということがいちばん基本で、そこで神さまの働きの場として自分が見えてくるということでしょう。
・「風の家の祈り」
「アッパ、利己主義に汚れている私たちの心をあなたの悲愛の息吹きで洗い浄めてください。空を行く雲、小川のせせらぎ、一輪の野の花がささげる祈りにあわせて、私たちの祈りを、あなたのみまえで澄んだものとしてください」
・私が「日本人の心情でイエスの福音をとらえなそう」という運動を「風の家」の運動と名づけたときも、この「風」に、一遍上人が「居住を風雲に任せ、身命を山野に捨てる」といわれたときの日本語の風という言葉が含んでいる「天然の風(プネウマ)」「造化の風」という意味にくわえて「神の息吹き」という意味をも持たせたいと思ったからでした。
・十代半ばの私を徹底的に苦しめたのは「死によって終わってしまう、死刑囚としての私たちの人生の空しさと無意味さ」でありました。逃げても逃げても逃げきれない、しかし勝つこともできない死。私は宗教に、キリスト教に助けを求めました。しかし教会の壁は私には大変たかく、冷たく、非常に入りにくいものでしかありませんでした。
・パスカルの「瞑想録(パンセ)」
「安心しなさい。私があなたを見つけていなかったら、あなたが私をさがすことはなかっただろう」
・この主知主義(トマス哲学)者にならなければ司祭になれないという強制は、神も存在も人間の知性をはるかに超えた神秘をたあよわせているはずだと思いこんでいる私の心情、私の血の中に流れているものにはこの上ない窒息感だったのです。
・マグダラナ・マリアを迎え入れ、姦淫の現場を捕らえらえrた女性をゆるし、娼婦や徴税人と食事を共にする悲愛のまなざしにみちたイエスの姿、これがとりもなおさずテレーズが私に示してくれた師イエスの御姿だったわけで、もちろん渡欧中も日本に帰国してからも私はこの師イエスの姿を疑ったことはありませんでした。
・「風の家」で祈る前の言葉
アッパ アッパ 南無アッパ
イエスさまにつきそわれ
生きとし生けるものと手をつなぎ
おみ風さまにつつまれて
アッパ アッパ 南無アッパ
その日の気分で、南無を付けたり付けなかったり。
感想;
キリスト教に接して、まず疑問に思うことがいくつかありました。
・神さまが人を創った
・アダムのあばら骨からイブを創った(だったら血液型が合わない)
・イエス・キリストが行った数々の奇跡な行為
・キリストは復活し、天に昇った
でも、井上神父の本を何冊か読み、氷解するようでした。
新鮮だったのが、旧約聖書と新約聖書は並列の重みではなく、新約聖書の教えがキリスト教で、その前段階を説明するために旧約聖書が必要になっているとのことでした。
良寛が辞世の歌(自作でないとの説が有力だが、良寛が好きだった)
裏を見せ 表も見せて 散る紅葉
風に吹かれながら、生きていく様を描いています。
この風を聖霊、井上神父は”おみ風さま”と。
まさにロゴセラピーも人生が自分に問いかけてくる、その問いかけにどう生きるかとの選択肢があると考えます。
人との比較ではなく、神さまが自分に使命を与えた風が自分の人生に影響を与え、そしてどう生きるか、まさに自分の生き様なのでしょう。
キリスト教では、アガペー(悲愛)の周りへの実践。
ロゴセラピーでは”良心”の実践。
宗教云々ではなく、まさにどう生きるかを井上神父の本から学びました。
・「十牛図」はユングが述べている個性化の過程を非常に美しい方法で示しているものだと思います(河合隼雄)
・私が、私が、という自我中心、自我肯定の立場に自分でもそれと気づかずに生きてきていたといえる。命がけで目標に向かって頑張るということは、確かにすばらしいことなのだが、しかしただそれだけだと、自我中心の閉じた姿勢になってしまい、反対するものは排除し、ときには、ぶつかって相手を傷つけてもそのことにすら気づかずにひたすら走りつづけるという状態にさえなってしまう。自我中心の生き方が根底から破られ、他者に対して開かれているという柔らかな姿勢がないから、前を歩いている人、横を歩いている人が、たとえどんなに貧しく淋しい思いをいだいていても、そんなことに全く気づかずに、ただ自分が目標としている価値観から人を裁くということになってしまう。
ところがキリストとの出会いの体験によって、パウロの生き方が、私が、私が、という自我中心の生き方へと転換されたのだということを、この手紙での「神が、・・・御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」という表現が示していると思うのである。
・道元も「正法眼蔵」のなかの「生死」で次のように語っている。
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなうなり、仏のありさまをとどむるなり、いとふことなく、したふことなき、このとき、はじめて仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ、ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる、たれの人がこころにどどこほるべき」
・ステファノ殉教とパウロの回心
ステファノの殉教の場面に、証人として立ち会ったパウロ。
ステファノは”主よ、この罪を彼らに負わせないでください“と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
・「ローマの信徒への手紙」12章 「各自がキリストの体の部分であることを自覚して、互いに心を一つにして相手を尊重することをすすめている」
・Xが存在するのではない。本当は存在がXしているのだ!
・やはりみんな価値を求めてやってくるので、その価値を脱いでしまった時には、それに耐えるより仕方がないのでしょう。自分が価値をたくさん持っていて、知識なり、地位なり、おカネなり、名声なりをたくさん着ていた時には、その名声に引かれていろいろな方が来ると思うのですが、その時の自分を大切にするのは割合にやさしいのでしょうが、その価値を脱いでしなわなければならなくなった時に、そういう自分を大切にできるかどうかが、大変に大事なことなのではないかと思うのです。
・意味のない苦しみには耐えられない ビクトル・フランクル
・もっと大きなものの中に自分が見えてくる。外から来る目の中に自分を置く。自分を中心にするのではなく、そちらを中心にして生きることを言っているのです。
・キリストの生命に生かされて一つなのだ。
・生活と人生の次元のちがい。
生活というのは、ある程度、自分が中心にいて、例えばどうやったらもっとおカネが儲かるか、どうやったら家庭がうまくいくか、どういうふうにしたら老後の生活がうまくいくか、という次元でものを考えていたわけです。人生の次元というのは、人間は必ず死ぬ、死ぬというのは別れることでもありますから、人間は必ず別れなければならない。老いを迎えるにあたって、死ぬまでの残された人生のうちで、この自己の相対化ということが、どこまで腹の底からとらえられていくかが、私のこれからの課題なのではないかと思っております。
・自分が主人公というものでもなくて、大きな神さまのみわざが実現される場として、大きな全体の中に見えてくるということが、何か私は非常にたいえつなことなのだと思っています。
・アッパという祈りとともに、その神さまのみむね、みわざ、神さまから動いてくるブネウマ(聖霊)の働きにお任せするということがいちばん基本で、そこで神さまの働きの場として自分が見えてくるということでしょう。
・「風の家の祈り」
「アッパ、利己主義に汚れている私たちの心をあなたの悲愛の息吹きで洗い浄めてください。空を行く雲、小川のせせらぎ、一輪の野の花がささげる祈りにあわせて、私たちの祈りを、あなたのみまえで澄んだものとしてください」
・私が「日本人の心情でイエスの福音をとらえなそう」という運動を「風の家」の運動と名づけたときも、この「風」に、一遍上人が「居住を風雲に任せ、身命を山野に捨てる」といわれたときの日本語の風という言葉が含んでいる「天然の風(プネウマ)」「造化の風」という意味にくわえて「神の息吹き」という意味をも持たせたいと思ったからでした。
・十代半ばの私を徹底的に苦しめたのは「死によって終わってしまう、死刑囚としての私たちの人生の空しさと無意味さ」でありました。逃げても逃げても逃げきれない、しかし勝つこともできない死。私は宗教に、キリスト教に助けを求めました。しかし教会の壁は私には大変たかく、冷たく、非常に入りにくいものでしかありませんでした。
・パスカルの「瞑想録(パンセ)」
「安心しなさい。私があなたを見つけていなかったら、あなたが私をさがすことはなかっただろう」
・この主知主義(トマス哲学)者にならなければ司祭になれないという強制は、神も存在も人間の知性をはるかに超えた神秘をたあよわせているはずだと思いこんでいる私の心情、私の血の中に流れているものにはこの上ない窒息感だったのです。
・マグダラナ・マリアを迎え入れ、姦淫の現場を捕らえらえrた女性をゆるし、娼婦や徴税人と食事を共にする悲愛のまなざしにみちたイエスの姿、これがとりもなおさずテレーズが私に示してくれた師イエスの御姿だったわけで、もちろん渡欧中も日本に帰国してからも私はこの師イエスの姿を疑ったことはありませんでした。
・「風の家」で祈る前の言葉
アッパ アッパ 南無アッパ
イエスさまにつきそわれ
生きとし生けるものと手をつなぎ
おみ風さまにつつまれて
アッパ アッパ 南無アッパ
その日の気分で、南無を付けたり付けなかったり。
感想;
キリスト教に接して、まず疑問に思うことがいくつかありました。
・神さまが人を創った
・アダムのあばら骨からイブを創った(だったら血液型が合わない)
・イエス・キリストが行った数々の奇跡な行為
・キリストは復活し、天に昇った
でも、井上神父の本を何冊か読み、氷解するようでした。
新鮮だったのが、旧約聖書と新約聖書は並列の重みではなく、新約聖書の教えがキリスト教で、その前段階を説明するために旧約聖書が必要になっているとのことでした。
良寛が辞世の歌(自作でないとの説が有力だが、良寛が好きだった)
裏を見せ 表も見せて 散る紅葉
風に吹かれながら、生きていく様を描いています。
この風を聖霊、井上神父は”おみ風さま”と。
まさにロゴセラピーも人生が自分に問いかけてくる、その問いかけにどう生きるかとの選択肢があると考えます。
人との比較ではなく、神さまが自分に使命を与えた風が自分の人生に影響を与え、そしてどう生きるか、まさに自分の生き様なのでしょう。
キリスト教では、アガペー(悲愛)の周りへの実践。
ロゴセラピーでは”良心”の実践。
宗教云々ではなく、まさにどう生きるかを井上神父の本から学びました。