幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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阿川佐和子さん「サワコの朝 高木菜那さん」 ”妹がいたから頑張られた”

2018-04-21 08:10:08 | 生き方/考え方
平昌オリンピックで二つの金メダルを。高所恐怖所なのでジャンプはできない。
TVにでることが多くなり、メイクをして貰えることが増えた。
1992年生まれ。
パシュートとマススタートで2つの金メダル。
小学校2年生の時。美帆さんは先にオリンピックに出場した。
地元は北海度、会社は長野県の諏訪。スピードスケートの公式練習場は長野と帯広にある。
強化チームは帯広のオーバルで夏場はそこでトレーニング。自宅から近い。
社長が大盤振る舞いで金メダル1個で2,000万円貰えた。
急にお金持ちになったのでは?
スケートはお金でやっているのではないので。

1曲目はゆずの「栄光への架橋」。
この曲で、言葉にしなくても感動させることができると思った。

スケートは小学2年生から始めた。兄が長野オリンピックの清水選手の活躍を見て、スケートやりたいと言ってやりだした。お留守番しているのが嫌だったので、だったら一緒にやったらと妹とやりだした。
小学校にスケートリンクがあり、スピードスケートの靴を最初に履いた。スケート靴はオーダーメイドだと20万円くらいした。スケートの費用で高木家は大変で、朝は私たちも新聞配達した。母も朝から働いていた。

背が低いと損。身長は155cm。
パシュートは団体戦。
先頭は風の抵抗があり辛い。
日本は先頭の交代が上手い。
選手間の間隔は短いので風の抵抗を後ろの人は受けにくい。
後ろの人は余裕があれば前の人を押してあげる。

ユニフォームは軽い(実際に持って来てもらった)。
ゴールしてすぐフードを取る理由は、カッコ悪いのですぐ取りたい。それとフォームは滑っている姿勢で楽になるように作っているので、
今日両親に金メダルをかけてあげた。

高校生の時、妹が中学でオリンピックに出て、私は出られなかった。オリンピックの選考大会にもすごく顔に出ていたと思う。応援してあげないといけないのに、自分が出れなかった。イライラして父に八つ当たりしていた。「なんでそんなこと言うの。私だってわかっている」。図星のことを言われたからだったかも。妹は母に八つ当たりしていた。
妹だったからこそ、ここまで頑張って来られたかもしれない。妹に負けるのが気持ちを奮い立てたかと。他の人だったら、仕方ないかと諦めていたと思う。

5,000mは最下位だった。膝を傷めてから個人種目では力を出しにくいのでパシュートとマススタートを練習した。コースの内側を走る練習はしていた。外側と内側では遠心力が全然違う。誰の後ろにつくかは重要。位置取りがすごく重要。ラストで膨らむだろうと思っていたので、インを責めようと思っていた。

金メダルを取った瞬間は、金メダルを取れると思っていなかったので、取れたら嬉しいなと軽い気持ちが良かった。皆鳥肌が立ったと。妹も「金メダル取れると思っていなかった」と言われた。「そうだよね」と。

2曲目「ガッツポーズ」。私たち姉妹のために樋口さんが曲を作ってくれた。
これを聞いた時、妹も泣いていました。
まずはひざを治して、これからは選手としてだけでなく、人として、尊敬されるようにやっていきたい。妹とはずっと仲が良い。

感想
オリンピックにでるために、並大抵の努力と練習があったと思います。
ましてやメダルを取ることはとても大変です。
信じて練習を続ける気持ちの維持は大変だったと思います。
妹に負けたくないとの気持ちがモチベーションになったとのことでした。
諦めない、信じる、そして努力を続ける。
言うは易し行うは難しで、自分がやるかどうかなのでしょう。