幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

<レスリング>栄氏、おわびコメントも「五連覇阻止」否定 "ご自分がパワハラをしたと認識されていると良いのですが・・・”

2018-04-09 14:45:14 | 社会
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/sports/mainichi-20180409k0000e050167000c.html (毎日新聞)
 日本レスリング協会が委託した第三者の弁護士3人による報告書で五輪で4連覇した伊調馨選手(33)=ALSOK=や田南部力氏(42)=日体大コーチ=へのパワーハラスメントが認定され、強化本部長を辞任した栄和人氏(57)が9日、代理人の弁護士を通じてコメントを発表した。全文は次の通り。
    ◇
 日本レスリング協会第三者委員会から、私の伊調馨氏及び田南部氏に対する行為の一部がパワーハラスメントに該当すると認定されたことにつき、私の不徳のいたすところと深く反省し、責任を痛感しております。
 伊調馨氏、田南部氏をはじめとする関係各位に対し、深くお詫(わ)びいたします。
 一方、第三者委員会の調査結果として、私が伊調馨氏のオリンピック五連覇を阻止するというようなパワーハラスメント行為は認められなかったことは安堵(あんど)しております。
 私は、4月6日付で日本レスリング協会の強化本部長を辞任いたしましたが、これまで男女をとわずレスリング選手を応援してくださったレスリングファンの皆様に、心より感謝申し上げます。
 私は、今回のことを深く反省し、今後も可能な範囲でレスリング界の発展を願い鋭意努力していきたく思っております。 栄和人(自署)

感想
これまでずっと否定されて来られました。
パワハラが第三者委員会で認定されたことで、仕方なしに謝罪をされたなら、それは問題です。
まずはご自分が”パワハラ”をしたとの認識をして、そして謝罪だったら良いのですが。
人の認識はそんなに簡単には変りません。

強化本部長辞任だけで、レスリング協会の処分がないとすると、それは”パワハラ”に対する軽視にもなります。
きちんとレスリング協会が処分をされるかどうか?

"五連覇阻止はなかった”と否定されています。
第三者委員会がそこまで踏み込まなかっただけのように思います。
・警察署の練習所使用禁止
・田南部コーチに伊調選手のコーチをするな
・田南部コーチにパワハラした
・アジア大会に全日本で優勝している伊調選手を派遣しなかった
・伊調選手にパワハラして精神的に追い込んだ
これは五連覇阻止行為そのものではないでしょうか?
伊調選手と田南部コーチがメンタルで強かったので、五連覇できたのだと思います。
そのことをご理解されていないのですが、栄氏はパワハラをよくご理解されていないようです。

それと至学館大学学長(&レスリング協会副会長)の、谷岡氏も”パワハラがなかった”と記者会見されているので、どうされるのでしょう?
”都合悪くなったら、謝罪せずに隠れる”を通されるとしたら、教育者として問題になります。
至学館は学生に何を教える場になるのかと思ってしまいます。

問題を起さないこと。
そして大切なことは、問題を起したら適切に対応する。
これが教育者として教えることであり、模範になることではないでしょうか?
悪しき模範になると、後世に”不適切な教育者”とのレッテルを貼られるだけなんですが・・・。

至学館の学生がとても気の毒です。

「生と死のことば 中国の名言を読む」川合康三著 ”「老いを知らず」として生きる生のありかた”

2018-04-09 08:30:08 | 本の紹介
・斉の景公
 「山から眺めるわが領土の緑にあふれる風景をいとおしみ、いつまでも自分の所有物としておきたいのに、しかし自分はやがてこれを捨てて死んでいかねばならない。そう思って涕泣【ていりゅう】したのです。
⇒晏子の諭し
 「人間に死というものがなかったら、昔の人が居続けただろう、生死が繰り返されるからこそ、人は生まれるのだ。次々と君主の地位に立ち、次々と去っていったから、殿の番になったのです。」

・羊祜(ようこ)晋の武将
 「宇宙が生まれて以来、この山は存在し続けている。これまで優れた人士たちは、ここに登って遠くを眺め、今わたしや君たちがしていることを多くの人が繰り返してきた。しかしみなこの世から消えてあとかたもないことを思うと、悲しくなる。もし死後にも精神がのこっているものならば、わたしは魂になってもきっとここに登ることだろう。
⇒鄒湛(すうたん) 側近
 「殿は四海に冠する徳を抱き、先哲を受け継ぐ道を備え、その名声は必ずこの山と同じように後世に伝えられていくことでしょう。」
 そののち、羊祜が亡くなると、襄陽の人々は羊祜がかつて遊んでいた場所に碑や廟を建て、時節ごとにお祭りをしました。

・生きることは自分を苦しめるという人がいる。しかし生はいいものなのだから、自分が生きていることを憎んではいけない。死ぬことで自分は休息するという人がいる。しかし死は悪いものなのだから、自分が死ぬのを喜んではいけない。いった、人の心は自分の生を喜ばないことはないが、生き続けることはできない。自分の死を憎まないことはないが、死を遠ざけることはできない。(雲笈七箴巻90)

・死が免れないものであると知る時、人は二つの可能性へと心が向かいます。
 ・一つは、死後に平安を得たいという思いです。天国とか極楽浄土とか。宗教の多くはそうした死後の幸福を約束してくれることで人々を惹きつけました。
 ・もう一つは、いつまでも死なずに生き続けたいという思いです。中国では仙人になって不老長生を獲得することを求めました。秦の始皇帝が永生を求めた話は、よく知られています。

・人の生は幻化(げんか)に似る、終に当に空無(くうむ)帰すべし
 「幻化」とは、実体はなく、常に変化してしばしも留まっていることのない状態をいう。

・「形影神」の題された詩(陶淵明)
人の人間を「形」(身体)、その身体につきまとう「影」、そして「神」(精神、魂、目に見えない思考の働き)、その三者にわけて擬人化し、形、影、神の三人が繰り広げる問答を通して、生きること、死ぬことの意味を問いかけたものです。
 形、影が語った後に神が語る。
 「形」が言うように日々酒を飲んで忘れようとしても、酒は命を削るものでしかない。「影」が言うように善行を立てたところで、いったい誰がそれを誉めてくれよう。そして次のような結論を述べて、この詩を結びます。
 「考えすぎると自分の生を損なうことになる。成り行きに任せることこそ好ましい。人生の展開に漂うままに、喜びもせず恐れもしない。命が尽きる時には尽きればよい。もう一人であれこれ悩まないことにしよう。

・「天を楽しみ分に委ね、以て百年に至る」(陶淵明)
 天命を楽しみ分に任せ、そうして百年(寿命)になった(自ら祭る文)
 自分からは何も求めない。天が与えてくれた条件、自分に授けられた持ち前、それをそのまま受け止めて生きる。

・人の生は実に難し、死は之を如何せん、嗚呼哀しい哉(自ら祭る文)

・ああ、この身を世界のなかに置くのはいかほどの時間か、どうして心を自然にゆだねて生も死もなりゆくままにしないのか(帰去来の辞)

・まずは万物の変化と一体になって死に帰ろう。天命なるものを楽しんで何も惑うことはない(帰去来の辞)

・「老いの将に至らんとするを知らず」
 世間で活躍して名を挙げる、しかし、死後に名をのこしたところで何にもならない。それよりも毎日を自分が納得のいくように生きることにしよう、と陶淵明は語っています。それが彼にとっても「老いを知らず」として生きる生のありかたでした。
 老いの迫るのにも気付かず、夢中になる生の内容は、人によってそれぞれに異なることでしょう。陶淵明の場合は平凡で平穏な私生活を求めているのですが、孔子のほうはもっと激しい没入を欲していたようです。おそらくはそれは孔子が理想とする世の中を実現するために、われを忘れて奔走する―公的な使命のための熱中が、その内容だったはずです。

感想
アルフォンス・デーケンス先生が”死の教育”を日本で初めてされました。
当時は、何で”死の教育”なんだと反発もあったそうです。
死を考えることを生をよりよくしていくとの信念でした。
今は、”死の教育”は一般的に認知され、“生と死を考える会”が各地で活動しています。

死を考えると恐怖になります。
考えないようにと頭を振り払おうとしても払うことができません。
だったら、しっかりと考え、今の生を大切にする方が、意味ある人生を送れるように思います。

ある本に、「なぜ死を恐れるのか? 死ねば恐れることはない」と。

パスカルの言葉に、「死後の世界があるかどうかは誰も証明できない。もし無いと思って生きると辛い。あると思って生きると幸せである。死んだ後、もし死後の世界があれば、無いとって生きると間違える。有ると思って生きれば、もしなかったらそれだけのこと」がありました。
これは、わからないことを悪いように考えるのではなく、良いように考えて生きた方がより幸せな人生を送れることを言っているように感じました。