どこまでも続いている一筋の海岸線。 一陣の風で、海辺の白い一粒の砂が右から左へと動く。 そしてそのあと、海辺は再び以前と全く同じ深い静寂へとかえっていく。 人間の一生なぞ、この一粒の砂が右から左へ動くだけのことではないか。 海岸には何の変わりもありはしないのだ。
この心象風景に徹底的に悩まされ続けた私の十代であった。 いかにして避けることのできない、そして乗り越えることもできない死。 その死によって終わらざるをえない、死刑囚同然の生のmなしさと悲しさ。 この思いに追いつめられていった私は、ある日、この思いから逃げようとすることをやめて、その死というものと向かい合って生きてみようと決意した。 それが大学一年の終わりのときのキリスト教入信、そしてフランスの修道院入会へとつながっていったような気がする。
道をきわめたい。 そう願って渡仏した私であったが、年月がたつにつれて、次第に長い伝統を持つ西欧文化の重みに、耐えがたいような息苦しさを感じはじめていった。 そして、日本人としての私の血の中に流れているものを大切にしながらイエスの教えをとらえなおさなければ、決してイエスが伝えようとした真の自由とよろこびは湧きあがってはこないのだという確信を持った。
7年半の西欧の修道院生活を打ち切り、昭和32年の末、フランスから帰国した私は、自分の血の中に流れている「日本の心」を意識化してみようと思い時間をつくっては、奈良や飛鳥を散策し、和辻哲郎、鈴木大拙、小林秀雄などの著作に読みふけった。そんなある日のことである。働いていた学生センターの近くの、とある本屋で、ふと一冊の書物が私の目にとまった。「日本人の精神史研究」の第三巻で、「中世の生死と宗教観」と題された亀井勝一郎の著作であった。
その夜、むさぶるように読みふけっていた私は、「宗教改革への道」という章に出会って、まさに棍棒で頭をなぐられたような衝撃をおぼえたのであった。
これが私が法然と出会った最初である。
キリスト道にしろ、仏道にしろ、その道を歩むということは生きるということであって、思索するということではない。 人は二つの道を同時に考えることはできても、決して生きることはできないのである。
・法然が9歳の時、仲違いをしていた人物に夜襲をかけられ、父が非業の最後をとげる。その時、父が一人息子の法然に次のように語った。
「お前は決して敵をうらんではならない。これは先の世から定められている業(ごう)であって、私が受けなければならないものなのだ。もしお前が敵をうらんでこれを討てば、敵の子供はまたお前をうらんで討とうとするであろう。そうすれば、このうらみによる血の争いは絶えることなく続くこととなろう。お前は一日もはやくこの憎しみと争いの闇と修羅の巷を離れて、私の冥福を弔
い、ゆるしと光の境地に入ってくれ」。
イエス「難しいことかもしれないが、敵に対してもゆるしと思いやりの心を持つべきであり、あなたたちを迫害しているもののためにも祈るべきである(マタイによる福音書)」
まさにイエスの言葉を想起させるような父時国の遺言ではないか。
・法然は、一切の所有物は寺に返し、無一文のまま、墨染の衣一枚で山を下りて民衆の中に入っていく法然の後ろ姿は、思いだすたびに深い感動をよびおこさずにはいられない。イエスが神ヤーウェの冒涜者、ユダヤ教の裏切り者として追及され殺害されていったように、法然もまたそのとき、南都北嶺の権力者たちから裏切者として追及され、場合によっては殺されることすら覚悟していたはずである。
・子を思う母のような法然の姿勢は、ここでもあざやかにイエスの面影をしのばせている。
・法然の答弁においてまず大切なことは、宗教とは考える次元の事柄ではなくて、行じられるべきものだということである。だから法然は「修行したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく最もふさわしいものを一つ選んで酒豪せよ」といっているのである。
・法然は「七箇条制誡」の第戒において、と出来る限り敬う心をおこすようにせよ」とさとしているわけなのである。
・法然の短歌
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
花は散り その色となく ながむれば むなしき空に 春雨ぞふる
ゆめのうちも うつろふは なにかぜふけば しづらく
あはれあはれおもへばかなし つひのはて 忍ぶべき人たれとなきみを
ながむれば 我が心さへ はてもなく 行くへもしらぬ 月のかげかな
・正如房(式子内親王)よ、ただただ、深く(阿弥陀仏を)信じください。この一事が大切です。たとえいかなる智者、身分高き人々が仰言ろうとも、どかそれに心を動かされたりなさらないでください。
・その(女性は仏に救われない)害を受け最も苦しむのは、他ならぬ庶民や女性たちであることを誰よりも一番よく知っていたのが、まさに法然自身に他ならなかったからである。
感想;
法然は既存仏教界から睨まれて島流しになりました。
法然はその当時の仏教では救われない庶民や女性にも仏の救いがあることを、“南無阿弥陀仏”と阿弥陀仏にすがる念仏をとなえることで救われると説きました。
それは既存仏教界にとっては危険極まりない考え方でした。
法然の信者が増えることを良しとしない既存の仏教界は法然に罪を着せようとしました。
まさに、法然の生き方、弱者、女性へのまなざしは、イエスの行動、姿に重なっていました。
井上洋治神父ご自身が、まさに弱さを自覚されていました。
この心象風景に徹底的に悩まされ続けた私の十代であった。 いかにして避けることのできない、そして乗り越えることもできない死。 その死によって終わらざるをえない、死刑囚同然の生のmなしさと悲しさ。 この思いに追いつめられていった私は、ある日、この思いから逃げようとすることをやめて、その死というものと向かい合って生きてみようと決意した。 それが大学一年の終わりのときのキリスト教入信、そしてフランスの修道院入会へとつながっていったような気がする。
道をきわめたい。 そう願って渡仏した私であったが、年月がたつにつれて、次第に長い伝統を持つ西欧文化の重みに、耐えがたいような息苦しさを感じはじめていった。 そして、日本人としての私の血の中に流れているものを大切にしながらイエスの教えをとらえなおさなければ、決してイエスが伝えようとした真の自由とよろこびは湧きあがってはこないのだという確信を持った。
7年半の西欧の修道院生活を打ち切り、昭和32年の末、フランスから帰国した私は、自分の血の中に流れている「日本の心」を意識化してみようと思い時間をつくっては、奈良や飛鳥を散策し、和辻哲郎、鈴木大拙、小林秀雄などの著作に読みふけった。そんなある日のことである。働いていた学生センターの近くの、とある本屋で、ふと一冊の書物が私の目にとまった。「日本人の精神史研究」の第三巻で、「中世の生死と宗教観」と題された亀井勝一郎の著作であった。
その夜、むさぶるように読みふけっていた私は、「宗教改革への道」という章に出会って、まさに棍棒で頭をなぐられたような衝撃をおぼえたのであった。
これが私が法然と出会った最初である。
キリスト道にしろ、仏道にしろ、その道を歩むということは生きるということであって、思索するということではない。 人は二つの道を同時に考えることはできても、決して生きることはできないのである。
・法然が9歳の時、仲違いをしていた人物に夜襲をかけられ、父が非業の最後をとげる。その時、父が一人息子の法然に次のように語った。
「お前は決して敵をうらんではならない。これは先の世から定められている業(ごう)であって、私が受けなければならないものなのだ。もしお前が敵をうらんでこれを討てば、敵の子供はまたお前をうらんで討とうとするであろう。そうすれば、このうらみによる血の争いは絶えることなく続くこととなろう。お前は一日もはやくこの憎しみと争いの闇と修羅の巷を離れて、私の冥福を弔
い、ゆるしと光の境地に入ってくれ」。
イエス「難しいことかもしれないが、敵に対してもゆるしと思いやりの心を持つべきであり、あなたたちを迫害しているもののためにも祈るべきである(マタイによる福音書)」
まさにイエスの言葉を想起させるような父時国の遺言ではないか。
・法然は、一切の所有物は寺に返し、無一文のまま、墨染の衣一枚で山を下りて民衆の中に入っていく法然の後ろ姿は、思いだすたびに深い感動をよびおこさずにはいられない。イエスが神ヤーウェの冒涜者、ユダヤ教の裏切り者として追及され殺害されていったように、法然もまたそのとき、南都北嶺の権力者たちから裏切者として追及され、場合によっては殺されることすら覚悟していたはずである。
・子を思う母のような法然の姿勢は、ここでもあざやかにイエスの面影をしのばせている。
・法然の答弁においてまず大切なことは、宗教とは考える次元の事柄ではなくて、行じられるべきものだということである。だから法然は「修行したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく最もふさわしいものを一つ選んで酒豪せよ」といっているのである。
・法然は「七箇条制誡」の第戒において、と出来る限り敬う心をおこすようにせよ」とさとしているわけなのである。
・法然の短歌
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
花は散り その色となく ながむれば むなしき空に 春雨ぞふる
ゆめのうちも うつろふは なにかぜふけば しづらく
あはれあはれおもへばかなし つひのはて 忍ぶべき人たれとなきみを
ながむれば 我が心さへ はてもなく 行くへもしらぬ 月のかげかな
・正如房(式子内親王)よ、ただただ、深く(阿弥陀仏を)信じください。この一事が大切です。たとえいかなる智者、身分高き人々が仰言ろうとも、どかそれに心を動かされたりなさらないでください。
・その(女性は仏に救われない)害を受け最も苦しむのは、他ならぬ庶民や女性たちであることを誰よりも一番よく知っていたのが、まさに法然自身に他ならなかったからである。
感想;
法然は既存仏教界から睨まれて島流しになりました。
法然はその当時の仏教では救われない庶民や女性にも仏の救いがあることを、“南無阿弥陀仏”と阿弥陀仏にすがる念仏をとなえることで救われると説きました。
それは既存仏教界にとっては危険極まりない考え方でした。
法然の信者が増えることを良しとしない既存の仏教界は法然に罪を着せようとしました。
まさに、法然の生き方、弱者、女性へのまなざしは、イエスの行動、姿に重なっていました。
井上洋治神父ご自身が、まさに弱さを自覚されていました。