幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

新型ウイルス 専門家会議設置し対策強化 首相 ”検査体制向上が必須では?”

2020-02-16 20:00:00 | 社会
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200214/k10012286101000.html NHKニュース2020年2月14日
新型コロナウイルスの感染拡大で、安倍総理大臣は、対策本部の会合で、感染症の専門家をメンバーとする新たな会議を設置し、医学的な知見を踏まえて対策の強化を図るとともに、各地の自治体と連携して検査や治療体制の拡充に全力を挙げる考えを示しました。
政府は14日夕方、総理大臣官邸で新型コロナウイルスの対策本部を開き、安倍総理大臣とすべての閣僚が出席しました。

この中で、安倍総理大臣は「これまで以上に医学的な知見を踏まえた対策の検討を進めていくため、本日、この対策本部のもとに第一線で活躍する感染症の専門家の方々を構成員とする専門家会議を設置し、対策をさらに一層強化していく」と述べ、医学的な知見を踏まえて、対策の強化を図る方針を明らかにしました。

また、国内でウイルスへの感染が相次いで確認されていることを踏まえ「せきや発熱があるなど症状に不安がある場合は、まずは近くの相談センターに相談してもらいたい。感染が疑われると判断された場合は、診療体制の整った医療機関に確実につなぐ体制をしっかり構築している」と述べました。

そのうえで「日常的な感染予防の励行が極めて重要だ。国民の皆さんには、手洗いや咳エチケットなどの予防策を実施し、落ち着いて行動していただくようお願いする。特に高齢の方や基礎疾患をお持ちの方は、人混みの多いところは避けるなど、感染予防に注意をお願いする」と呼びかけました。

そして、感染拡大の防止に向けて、各地の自治体と連携して検査や治療体制の拡充に全力を挙げる考えを示しました。

感想
市中感染のリスクがあることがはっきりしてきました。
感染が増えているのではなく、検査を「武漢の人との濃厚接点がある人」との3つ目の条件をを外したので、発見が増えたのでしょう。
ただ、発熱などの症状が出ている人との条件があるので、症状が出てなくても”倦怠感”など疑われる人も検査できるようにすればもっと増えると思います。
そうしてその周辺の人からの感染を防止する施策を行うことではないでしょうか?
300人/日の検査体制とか言っていましたが、全国の衛生試験所や民間の検査機関での検査体制を一桁Upする必要があるのではないでしょうか?
クルーズ船の乗船者も最初から全員検査をして陽性者を早く下船させて対策することが必要でした。
クルーズ船内では空調でウイルスをまき散らしていたのですから、結果的に感染するリスクを高めていたことになります。
見方を変えると感染していない人を閉じ込めて感染するのを待っていたように感じている乗船者も思われているのではないでしょうか。

反省するとしたら、武漢の人の入国制限をもった早くすべきでした。
「先手先手・・・」と安倍首相が発言されていましたが、すでに「後手後手」になっているようです。
ようやく専門家会議を開催していること自体が後手後手になっている証拠ですが。

WHOのSARS防止対策リーダーだった人がTVに出てコメントされていましたが、その通りだと思いました。
・既に市中感染が始まっている。
・感染者が増加したというより、検査基準が緩くなったから発見されている。
・SARSのは鎮圧まで8か月かかったが、発症しない人も感染させるので、それを考えると1年はかかるのではないか。
・今は発症者をいかに治すかに注力していく。
・オリンピックで世界から多くの人がくるので、広がる機会になるかもしれない。
・しかし、不安を大きくするのではなく、正しく理解して過剰な対応にならないよう冷静に対応すること。

TVを見て、この人を専門家会議のメンバーに含めないのかなと思いました。
御用学者を集めてパフォーマンスをしているだけのように感じてしまいました。
厚生労働省が専門家をもっと前に集めて対策を実施するものですから。



爆笑問題 槇原容疑者をメッタ斬り あごひげ写真に「どう見ても泥棒ですよ」 "弱っている人をさらに非難!”

2020-02-16 12:26:12 | 社会
https://news.goo.ne.jp/article/dailysports/entertainment/20200216003.html 2020/02/16(デイリースポーツ)
 お笑いコンビ・爆笑問題が15日、都内で行われた「第2回江戸まち たいとう芸楽祭」のクロージングイベントに出演。毒舌漫才で、槇原容疑者を斬り捨てた。

 冒頭で田中裕二(55)が逮捕のネタを振ると、太田光(54)は「21年ぶり2回目、大阪府代表、みたいな」とひとボケ。あごひげをたくわえた近影の写真に「どう見ても、覚醒剤と言うより泥棒ですよ」とツッコんだ。

 逮捕の一報が流れた時、2人はテレビ局で番組収録中で、太田は「局はてんやわんやでした」と苦笑い。2人とも過去には槇原容疑者と交流があり、田中が「すごくいい人。気配りがちゃんとできて」と話すと、太田が「だから、今日われわれが漫才やるって知ってて、一昨日逮捕されてくれた」と混ぜっ返して爆笑をさらった。

感想
弱っている人をさらに非難する漫才ネタ。
どこにも面白さがなく、下品な感じさえ受けます。

逮捕される前に、あごひげをネタにして言うならまだしも・・・。
その時は、槇原さんは力があるから言えません。
逮捕されて弱くなって言っています。

故大橋巨泉さんから、爆笑問題が安倍首相の『桜を見る会』の招待に行ったことを批判されていました。
「お前は利用されているだけだよ」
その点、大橋巨泉さんは招待されても行かず、一線を画していました。
結局、非難しているようで権力にはなびいているような印象を受けました。
太田光さんは「桜を見る会」に参加した理由を説明されていましたが、”絆創膏”のように思いました。
絆創膏”どこにも貼り付けられる”

もう一つ、ドラッグから抜けられない人は病気なのです。
田代まさしさんは何度も。
弱いからと片付ける問題ではないのです。
人の弱さで片付けたら、全てが本人のせいになってしまいます。
確かに本人の部分もありますが、それ以上に社会や周りの問題でもあるのだと思います。

病気だから再発するリスクが高いのです。
ところが日本ではその認識が乏しく、病気を治す支援が少ないのが現状です。
そのことにも爆笑問題の太田光さんは気づいているのかいないのかい?と思ってしまいます。

なにより、人に対する優しさ、温かさが伝わってきません。
笑いにはユーモアが必要です。
そしてそこにはほっこりとした温かさが欲しいです。
人を非難する特に弱っている人を非難する笑いは笑いではないと思います。
それを行っている人が本当は笑われていると思うのですが。

もう一つ。
2人とも過去には槇原容疑者と交流があり、田中が「すごくいい人。気配りがちゃんとできて」と。
交流があった人をけなすこと。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html
”杜子春”
の話を思い出しました。
良いときには周りに人が寄って来て、「友だちだから」と。
悪いときには逆に「友だちでない」とかまで言い出す。
太田光さんにとって槇原さんとはそのような交流だったのでしょうか?





「キャッチ! JR福知山線脱線事故がわたしに教えてくれたこと」岡崎愛子著 ”人生からの過酷な問いかけに!”

2020-02-16 04:15:18 | 本の紹介
・わたしは今も生きている。
2005年4月25日、決して忘れることのない日。
JR福知山線脱線事故。

・この事故によって、わたしは車椅子ユーザーになりました。頚髄を損傷したため、首から下に麻痺が残り、自力で歩くことはできません。腕は動かせるものの、指が曲げられないため、握力はゼロ。今も、装具がないと字は書けないし、お風呂に入るのも、着替えるのにも介助が必要です。

・当時、同支社大学に通う2年生だった19歳のわたしには、とても受け入れがたい残酷な現実。平穏だった日常は、音もなく、一瞬にして消え去りました。

・人生の底にいたわたしを引き上げてくれたのは、家族や応援してくれている周りの人々、そして、愛犬たちでした。

・後遺症によってできなくなったことは、他にも山ほどあります。毎年言っていたスノーボードも、大学の卒業旅行も、行きつけだったお店も階段があって上がれなくなりました。できないことばかりを集めてしまうと、自分は何もできない人間になってしまったと思わされます。ですが、やり方や見方を変えれば、できることもいっぱいありました。たとえば、歩けなくても車椅子があれば移動することができます。字も装具があれば書くことができます。できないことを嘆いても、自分が苦しいだけで、そこからは何も生まれないことを、身をもって気づくことができました。変えられないものは受け入れるしかありませんが、「別の方法はないか」「こうしたらできるのではないか」というように考え方を変えたのです。世の中には、「でも」「だって」「無理」「できない」そんな言葉があふれ、自分の可能性に限界を決めている人が多いのではないでしょうか。わたしも事故にあうまでは、そうでした。人はいつ死ぬかわかりません。明日かもしれないし、20年後かもしれない。死にさえしなければ、この世界には、無限の可能性が広がっています。だから、あきらめずに一歩を踏み出したいと思うのです。

・あの事故から377日後、わたしは退院することができた。本当に長く、もう二度とごめんと思うような入院生活。

・わたしの性格を表現すると、あきらめが悪く、負けず嫌い、それも、極度の負けず嫌いだ。何をしても、自分が一番上手くできないと許せないのである。

・9時18分 「ヤバい! 倒れる」「どーーーーン」「ガガガガーーーーーー」「早く止まって!」「シーン」 とりあえず、生きていた。「早くここから出ないと」そう思って体を動かそうとしたが、全く力が入らない。「意識を失ったら終わりかもしれない」「早く、助けて欲しい・・・」 あたりに漂う、ガソリンのような油っぽい臭い。「引火したらどうしよう。生きたまま焼死なんて絶対イヤ」

・事故直後は呼吸に異変は感じられなかった。しかし、肺挫傷を起こしていたことから、肺炎を起こし、徐々に呼吸不全となり、酸素吸入が必要になっていった。はじめは酸素マスクだったが、事故から2日後の27日、「呼吸の状態が回復せず、とうとう気管内挿管を行うことになった。

・「この第6頸椎の骨折によって、脊髄を損傷しているので、もう歩くことはできないでしょう。

・3時間ごとの痰の吸引と、褥瘡予防のため2時間ごとの体位変換もされるがままだ。

・4月29西、事故から4日後のゴールデンウィーク初日の祝日に、急遽手術が行われることになった。手術は、腰にある腸管の一部を切り取り、首の折れた部分に移植。首の骨を8cmほどのチタンプレートで前後から固定する大がかりな手術だった。
手術は約12時間に及んだ。

・そんな最悪な精神状態のなか、わたしを支えてくれたのが、友人や先生からのメッセージとお見舞いだった。

・緑の大きな自然がわたしの心を包んでくれた。この景色は今でもわたしの頭から離れない。

・肺の状態は少しずつ良くなっていたが、今度は発熱が続く。検査してみると、MRSA感染症を起こしていた。・・・気管切開をすることになった。

・食べられるって、それだけで実は素晴らしいことなのだと、感謝をもって食べられるようになった。

・発熱してから4日後、ようやく一つの病気が疑われた。「血管貪食症候群」・・・免疫抑制剤と大量のステロイド投与が始まった。副作用は怖かったが、それ以外の治療法はない。
後で知ったことだが、この薬が効かなかったら、わたしの命は危なかったそうだ。

・2時間、泣きながら吐き出した。看護師さんは勤務が終わっているにもかかわらず、そばにいてくれた。「水はね、気持ちを落ち着かせてくれるから、手をお湯で洗ってあげるね」・・・
ようやく気持ちを鎮めることができた。夜中の3時をまわっていた。

・「最初に運び込まれてきた時、ご家族、なんていったと思う? どんな形でもいいから、命だけは助けてくれって、いってくれたんやで。ちゃんと、生きなあかんで」
この言葉のおかげで、目が覚めたような気がした。人は命あってこそ。死んだ方が良かったなんて、思うものじゃない。・・・あの事故から奇跡的に助かって、今こうして、みんなと話ができて、一緒にいられるだけで十分ではないか。その日から、どんなに落ち込んでも、死んだほうが良かったなんて思わないと決めた。

・また犬が教えてくれた。「できる」のとらえ方を変えれば良いのだと。その行為の本質を見れば良いのかもしれない。たとえば、お金が持てないなら、店員さんに財布からお金を取ってもらう方法もある。そう気づけば、気持ちも軽くなった。できないことばかりに目を向けてしまうと、何もできない人間に思えてしまうが、どうしたらできるようになるか、「できる」を考えればいい。ダイナ(犬)は思わぬ形で私の背中を押してくれた。

・「今日は装具でパソコンのキーボードが打てるようになってん。この装具があるとやり易いわ。メールもできるようになったし、メールアドレス交換しようよ。リハビリにもなるし、メールするね」
その方の言葉には前向きさと、どうにか生活していかなければいけないという覚悟があふれていた。ウジウジ思い悩んでいた自分がアホらしくなった。

・大学のほうはもともと福祉に力をいれていて、車椅子で通われている方も何名かいたので、それほど心配はしていなかった。階段しかない場所でも、ほとんど車椅子用の昇降機が付いているので、移動の不自由さはない。移動の不自由さはない。同志社大学の学生だったことに運を感じた。

・これまでだったら30分ぐらいでできたことが、4倍になった、体力も消耗してしまうので、いざ出かけようと思った時には、すでに疲れが溜まっていることもあった。
・・・歩いて10分くらいの距離が車椅子だと倍の20分くらいかかり、大学に着いたころには疲れ果てていた。学ぶどころではない。

・友達がいれば問題なかったが、わたし一人の時は、
「すみません、教壇までいけないんで、一緒に取って来てもらってもいいですか?」
と声をかける。教室を出る時も、
「扉、開けてもらっていいですか?」と近くにいる人にお願いする。その声かけのタイミングが初心者には難しく、「どうしよう、どうしよう」といつも緊張感でいっぱいだった。入院中にあれだけ、戻りたかった場所なのに・・・授業をどうやってサボろうかと考えるようになっていた。

・「ソニーの採用担当です。選考結果ですが、ぜひ、ソニーで一緒に働いてもらいたいと思います」

・代表の渡辺さんが出迎えてくれる。渡辺さんはアメリカのサンディエゴにある世界初の脊髄損傷回復施設Project Walkでトレーナーとして働い、日本にそのメソッドを持ち帰ることを許可された方だった。JW内には、リハビリ施設では見かけない、まさにジムにあるような筋トレマシーンが並んでいる。・・・ここでは違う。渡辺さんは「できるようになる」といってくれる。・・・生活のなかで、動作が楽にできるようになったことと、一つの動作にかかっていた時間が少しでも短くなるというのは大きい。
「自分が信じないと始まらない」というのをわたしに教えてくれた人だった。渡辺さんにはもう会えないが(マラソン中に倒れて死亡)、これからもわたしは希望を持って歩み続けたいと思っている。

・ソニーの採用担当の方にも後々、わたしの障がいレベルで採用したのは挑戦だったと言われたことがあった。・・・意気揚々と上京を決めたものの、早くも暗雲が立ち込めた。

・なんとかなるはどうにもならない

・働くって難しい

・障がいを理由にしない
 ソニーの創業者である井深大氏の言葉に次のようなものがある。
「障がい者の特権無しの厳しさで健丈者より優れたものを」
この理念のもとで仕事ができたのは、とても良い経験になった。

・「今後、課員全員に、岡崎さんの体調面で気を付けないといけないことや、必要なサポートについてシェアしようと思っています。メンバーもどうしたらいいかわからないことがあると思うから、お互い理解したうえで働けるようにしていきましょう」といってくださった。説明の場があるのは、安心だ。

・働きながら学ぶのも、逃げ道に甘えてしまいそうで嫌だった。辞めて、あかんかったらまた違うことをしたらいい。危機的な状況に陥っても、自分ならまた這い上がれるだろうと、どこから来ているのかよくわからない根拠の自信だけはあった。
あの事故で退院してから、自立するためにずっと走り続けてきて、入社6年目を迎え、休息の期間が欲しいというのもあった。ちょっとの間、ゆっくり人生を歩む期間が欲しかった。
2014年2月、私は会社を退職し、無職になった。

・事故のせいで心を乱され、怒りの感情にとらわれている自分に無性に腹が立った。今は、不思議に思うくらい、怒りや恨みの感情はない。どうしようもないことに怒っても、気持ちは晴れることはなく、苦しさだけが残ることを、身をもって体験したからだと思う。
事故を忘れたいのではなく、とらわれたまま、これから生きたくないという思いが強い。自分の人生だから、事故に振り回されず、自分の足で歩みたい。そう思い続けてきて、こうして10年が経った今だからようやく、いえることなのかもしれない。

・人生は欲張ったもの勝ち
この世のなかは、本当に何が起きるかわからない。・・・
人生は楽しむためにあるもの。せっかく、この世に生を受けたのだから、楽しまなくてはもったいない。だから、やりたいことは全部やっていこうとわたしは思う。

・会社を退職してから、わたしはアーチェリーを始めた。

・感謝できる喜び
「ありがとう」この言葉は、何度いってもいい足りない。その時、その時、さまざまな人に助けられた。入院中はもちろん、復学した時、上京した時など、ピンチになっても、誰か助けになってくれる人が必ず現れた。
人と笑いあえること。
文字がかけること。
自由に行きたいところへ行けること。
犬と暮らせること。
好きなものが食べられること。
学ぶこと。
人にありがとうといえること。

・当たり前にできていたことは、実は素晴らしいことだったのだ。

・「事故が起きなければ、どんな人生をあゆんでいただろう?」とふと考えることがある。あの事故から10年が経ち、自分なりに精いっぱい走って来た。あの時、こうしておけば良かったと思うこともある。決して、平坦な道ではなかったけれど、その中に、人との出会いやさまざまな出来事があった。それは、わたしにとっての宝だ。
今、目の前にいる人も、わたしが事故にあっていなかったら、出会わなかった人かもしれない。そう思うと、事故にあって、障がいが残ってしまったことは、決して良かったとはいえないけれど、事故のおかげで得られたものは、たくさんあったと思う。今だからこそ、あの事故には意味があったんだなと思えるようになった。

・これから先の未来に何があるのか楽しみで仕方がない。たくさんの壁が目の前に立ちふさがって、落ち込むことも不安になることもあるだろう。でもそれ以上に、この世界には大きな可能性が広がっている。歩みを止めている暇はない。「自分なら大丈夫、なんとかする」という、自分を信じる気持ちだけは持って進んでいきたい。

・お亡くなりになった方々の、ご冥福をお祈り申し上げます。

・今もなお、苦しみのなかにおられるご遺族、負傷者の方々もおおくいらっしゃると思います。あれから10年経ちましたが、事故は消えない事実であり、終わりはないからです。

・みんなのおかげて今、生きています。

感想
自分がもし、そうなったらどうできただろうか?
どうするだろうか?
気持ちをどう維持することができるだろうか?

現実を先ずは受け入れることと言われるが、果たして受け入れられるだろうか。

ただ言えることは受け入れないと前に進めないということははっきりしているように思います。

生きているとこのように突然、人生の方から過酷な問いかけが来ます。
受けいれるしか選択肢がないのはわかっていてもなかなか受け入れることは困難です。
岡崎さんは、出来なくなった”黒石”お数えることよりも、事故に遭って新しく体験する”白石”を見つける努力を続けて来られたように思いました。

人生からの問いかけにどうこたえていくか?
ロゴセラピーがヒントと力を与えてくれるように思います。
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-


タイトルの”キャッチ”は、フリスビードッグから来ています。
フリスピーを投げてドッグがキャッチする。
岡崎さんは事故に遭うまではその大会に愛犬ダイナと一緒に出ていました。
それがとても大好きなことでした。
それが出来なくなりました。
そして退院する前日に大会にまた出来るようになりました。
もちろん以前のようにはできません。
持つことも力が入らず、フリスピーも飛びませんが。

岡崎さんは今、人と犬が生涯のパートナーとして楽しく暮らせる関係作りをサポートするため、ドッグトレーニングを学び、起業する。
現在は、人と犬の生活環境を変えて、問題行動を解決する専門家として活動中。

彼女は多くの人に支えられました。
そして今彼女は多くの人に生きるエネルギーを与え続けておられます。
まるで、神様から新しい特別の使命をいただき、その使命を果たしておられるようです。