幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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上沼恵美子、沢尻エリカに叱咤激励「芸能界には帰ってこんといて」 ”過ちをしてもやり直せる社会であって欲しい”

2020-02-03 08:45:08 | 社会
https://www.sanspo.com/geino/news/20200202/geo20020215410021-n1.html SANSPO.COM
 タレント、上沼恵美子(64)が2日、MCを務める読売テレビ「上沼・高田のクギズケ!」(日曜前11・40)に出演。合成麻薬を所持したとして、麻薬取締法違反の罪に問われた女優、沢尻エリカ被告(33)に言及した。

 沢尻被告は31日、東京地裁の初公判で「間違いありません」と起訴内容を認めた。仕事関係者や家族に謝罪し「女優復帰は考えていない」と明言した。検察側は懲役1年6月を求刑、弁護側が執行猶予付きの判決を求めて即日結審した。

 番組冒頭、このニュースを取り上げると、上沼は「言うても、33歳、まだまだいける!」と前置きした上で「まだまだいけるというのは違う世界で。芸能界には帰ってこんといて、悪いけど」とキッパリ。

 「(沢尻は)私が作った豆ごはんをお代わりしてくれた子なんです。本当に普通にちゃんとした子なんです。あの時は良かった」と振り返り、「芸能界は周りが、エリカ様、エリカ様って。勘違いするんです。この勘違い、する人、しないのとどっちかなんです。(沢尻は)その勘違いを一番するタイプ」と分析した。

 「顔がきれいでスタイルが良くて生まれてしまったことが悪かった。ぶさいくで生まれたら、誰も見向きもせえへん。そっちのほうが良かったと思う。まだ33歳。やり直しがきく。エリカちゃん、私の豆ごはんをお代わりしたんやで。あの時に戻り!」と声高に訴えかけた。

感想
https://www.excite.co.jp/news/article/E1481305231812/
薬物使用で逮捕された槇原敬之 復活までの軌跡exciteニュース

この経験などを通して、「何が間違っていたか」を毎日考え続けたという槇原は、自分の歌を本当に聴いてほしい人に届いてないということに気がついたのだ。
この気づきにより、再び曲作りの火が灯ったという槇原は、次のようにも語っている。
「歌が、人の心の中で、本当の意味で必要なものでありたいと思ってから、急にすべてが変わりました。だからこそ、SMAPの歌が書けたと思う」
つまり、槇原は逮捕という失敗を通して学び、『世界に一つだけの花』という歴史に残る名曲を書き上げたといえる。逮捕やバッシングを乗り越え、今では第一線に戻り活動している槇原。その精神の強さには、改めて驚かされる。

槇原さんは失敗から多くのことを学ばれて復帰されました。
人は失敗します。
失敗から学ぶことで成長します。
日本社会がやり直せる社会であって欲しいと願います。
あなたが生まれるとき、神様から言われます。
「ドラッグなどやるとやり直せない社会に生まれたいか、それとも失敗をしてもそれを償いやり直せる社会に生まれたいか?」
と言われたら、どちらの社会を選択しますか?
私はやり直せる社会を選びたいです。

酒井法子さん、ピエール瀧さん、沢尻エリカさん、復帰を受けいれたいです。
ドラッグは病気なのです。
弱い心が招いてしまいます。
そしてドラッグに手を染めると、一人で戻ることは至難の業です。
米国ではハンディキャップ法で本人が立ち直ろうと思うと、法律で守られています。
病気なら直して戻ってきて欲しいです。
そしてドラッグの恐ろしさも伝えて欲しいです。
「芸能界に帰ってきて欲しい!」


「出雲と大和-古代国家の原像をたずねて」村井康彦著 ”出雲と大和の関係を知る!”

2020-02-03 01:28:00 | 本の紹介
・日本海ルートをたどり、邪馬台国へ
『魏志倭人伝』邪馬台国への道とは
北九州から東へ進むことであった。
「東水行二十日」の投馬国というのはおそらく出雲当たり、
「水行十日」は丹後辺り
陸路をとること(南へ)一か月にして到達したのが、邪馬台国であった-といった道程が考えられるであろう。たどりついた邪馬台国はヤマトの国=大和国(奈良)である。

・非連続説をとる-記紀に卑弥呼の名前が登場しない
そう考えるに至った根拠はただ一つ、邪馬台国や卑弥呼の名が『古事記』や『日本書紀』に一度として出てこないことにある。三世紀前半、使者を帯方郡、さらに洛陽にまで派遣して魏王から「親魏倭王」の称号を受け、銅鏡百枚ほか数々の品物を下賜された倭の女王が大和朝廷の祖先であれば、その人物を皇統譜に載せてしかるべきであるにもかかわらず、卑弥呼のヒの字も出てこない、卑弥呼は日本の神話歴史のなかでは完全に無視されているのである。いや、まったく出てこないといったら嘘になる。卑弥呼の名ではないが「倭の女王」「倭王」あるいは「倭国(の王)」としてなら、『日本書紀』に三度登場する。・・・「日本書紀」は卑弥呼を神功皇后になぞらえている、とか、同一人物と見ている。

・大和朝廷とは無縁の存在

・邪馬台国の終焉と「神武東征」
卑弥呼が没した頃、倭国の争乱にに乗じてあらたな勢力が東に向けて移動しはじめ、やがて邪馬台国は激しい攻撃にさらされることになる。『議事倭人伝』からは知ることのできない邪馬台国の状況は、じつは『日本書紀』が克明に記録していたのである。それがいわゆる「神武東征」に他ならない。・・・。その最大の勢力こそ、おそらく九州地方(高千穂宮)で力を結集し機会をうかがっている、記紀にいうところの神武勢力であった。

・長髄彦の死と大和朝廷の成立
ところが神武軍は、そこ(大和)で長髄彦にてこずっている。何度戦っても勝てない。・・・。そこで饒速日命の方が、いまや危険な存在となった長髄彦を殺し、軍平を率いて神武に帰順する。・・・。戦いに勝った神武は大和入りを果たし、橿原の知に宮殿を営み、即位する。いわゆる大和朝廷の成立である。

・饒速日命の帰順は「国譲り」
邪馬台国は外部勢力(神武軍)の侵攻を受けて滅亡したが、しかし先頭に敗れた結果でない。総氏・饒速日命が最後の段階で、戦わずして帰順したからである。饒速日命は、もっとも信頼のおける部下の長髄彦を殺してまで和平の道を選んだのである。

・「国譲り」の役割と意義
むろん記紀にいう「国譲り」とは、葦原中国(=地上世界)を作り始めていた大国主神が、天照大神の命に従い、その統治権を天孫に譲るというものであった。しかしその際、大国主神が葦原中国を天津日継(天皇家)に献上するのと引き換えに、天皇の宮殿のような立派な宮の造営を要求したことは知られる通りである。これも国譲りであったからこそ得られた成果であったろう。そしてこの約束が負い目となって、のちのち出雲大社の造営が大和朝廷の重荷となる。

・天皇降臨の話で不可解なのは、葦原中国の統治権を得た天孫の降臨先が、なぜ大和ではなく、九州日向の高千穂の峰であったのか、である。地上全体を譲られたのであれば一挙に本拠地の大和に降ってしかるべきではないか。
ところがそうはしなかった。そればかりか、後年、大和へ入るための東征という大事業を起こさねばならなかった。これでは何のための国譲りであったのかと疑いたくなる。思うにそれは、もともと天孫とされる神武の勢力が、おそらく南九州あたりに本拠を持つ豪族だったからで、そこからしか邪馬台国連合の中心地である大和へ侵攻することができなかったのである。ただし、もし神武が邪馬台国側に圧勝していたら、国譲りはもとより東征も語られることはなかったろう。

・大物(大国)主の巫女との婚姻
神武の后として、大物主神の巫女が選ばれたのは、出雲勢力の奉祭する出雲の神の力を取り込み、大和に残る出雲族の服属を意図したものであったといってよいであろう。三輪山・大神人社のもった重みがしのばれる。

・歴然たる歴史的事実
出雲神話は『古事記』の三分の一を占め、しかもその対部分は大国主神を主人公とする物語である。他方『日本書紀』は出雲神話を取り上げていないが、ただ一書第六のなかで大国主神の「国作り」と「国譲り」について(それが出雲神話の核心でもあるのだが)だけは記述している。

・出雲大社はいつ総建されたか
定説なし

・祭神を知ることは、その地域の歴史や社会のあり方を知る、もっとも有効な手がかりとなるからである。

・古代の出雲世界とは何だったのか。出雲理解の三つのデータをあげてみる。
1)三輪山の存在である。よく知られるように山そのものが神体とされ、したがって拝殿はあっても本殿はない、とい古くからの祭祀=信仰の姿を現在も伝えている。いま問題にしたいのはその祭神・大物主神が出雲系の神であることだ。なぜ大和に出雲なのか。
2)八世紀はじめ、出雲国造が朝廷に出かけて奏上した神賀詞のなかで貢置を申し出た「皇族の命の近き守神」が三輪山の大神神社、葛城の高鴨神社など、いずれも出雲系の神々であったことである。それはそうであろう。出雲国造がいう大和朝廷の守神が、出雲と無縁の神々であったら、受けとる方にとって、何の意味もない。それらの神々が守神となりえたのは、大和朝廷以前から大和に存在していた神々だったからである。
3)『議事倭人伝』で知られる倭の女王、邪馬台国の卑弥呼の名が『古事記』『日本書紀』に全く出て来ないことである。実は『日本書紀』の編纂者たちは『議事倭人伝』の内容も卑弥呼の存在も熟知していたのである。にもかかわらず卑弥呼の名を出さなかったのは卑弥呼が大和朝廷と無縁の存在であり、大王=天皇家の皇統譜に載せられるべき人物でなかったからである。したがって邪馬台国は大和朝廷につながらず、その前進ではなかったということになる。
以上の三つのデータを重ね合わせると何がいえるのであろうか。それは、邪馬台国は出雲勢力の立てたクニであった。

感想
どうして出雲の大国主の話があるのだろう?
出雲と大和はどんな関係か?
邪馬台国は大和朝廷の始まりなのか?
邪馬台国はどこにあるのか?

それについて記録と調査から仮説を立てられそれを説明されていました。
なるほどと思いました。

橿原神宮に神武天皇の東征の蒔絵がありました。
大和を攻略して征服した戦いの絵でした。
記録は勝った方が自分たちの都合よいように作成します。
なのに出雲の大国主神の記録が多く残されたのは「国譲り」だったことを残さざるをえなかったのでしょう。

武蔵一宮 氷川大社(大宮)の祭神は
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと)(大国主命)
です。
まさに出雲の神様を祭っています。

須佐之男命は天照大御神の弟
大国主命にとって、天照大御神先祖の伯母
稲田姫命 と須佐之男命は夫婦になります。
まさに、氷川神社は出雲系の神社だったのです。