https://mainichi.jp/articles/20200129/k00/00m/050/124000c 毎日新聞2020年02月01日
開催国の文化や伝統、芸術などを世界にアピールする機会でもある五輪・パラリンピックの開閉会式。クリエーティブディレクターを務める栗栖良依さん(42)は、開閉会式を通じて「共生社会」を描こうとしています。病気になってもあきらめず、夢を追い続けた半生を聞きました。【聞き手・芳賀竜也】
――クリエーティブディレクターの仕事を教えてください。
◆私は主にパラリンピックを担当しているのですが、障害のある人がセレモニーに出るために必要なアクセシビリティー(利用しやすさ)のケアや、キャスティングをしています。ステージ演出を手掛ける人たちは、日常的に障害者と仕事をしているわけではないので、必要な部分を補助しています。障害者が安全に舞台に立ち、最高のパフォーマンスができるために伴走する役割です。
――障害者と創作活動をするようになったきっかけは?
◆2010年に骨肉腫を患い、右脚が不自由になったことが直接のきっかけですね。いろんな障害がある人たち、誤解を恐れずに言えば面白い人たちに出会う機会が増え、自分が持っていない視点や気付きをたくさんもらえるようになりました。「障害者って大変」とか「頑張っているんだよ」などと伝えるつもりはさらさらなく、多様な個性から生み出される「楽しさ」を伝えたいです。
――五輪に興味を持ったのはいつですか?
◆高校1年の冬、リレハンメル冬季五輪の開会式をテレビで見て「五輪の開閉会式を自分で作りたい」と思いました。高校までバスケットボール部だったのですが、それとは別に仲間と年3、4回、舞台作品を作り、校内で発表していました。「平和に貢献する仕事がしたい」と進路を考え始めていた頃に出合ったのが五輪の開会式です。五輪は「平和の祭典」ですよね。すべてのピースがはまったのが五輪の開会式でした。
――その後の歩みは?
◆セレモニーは一番スケールの大きいアートと考えて、大学ではアートマネジメントを専攻しました。バレーボールなどの国際大会でアルバイトをして経験を積み、1998年長野冬季五輪ではボランティアで選手村の式典交流班を務めました。06年トリノ冬季パラリンピックの開会式も見に行くなど海外でも勉強しましたが、10年に病気をしてしまったんです。自分の人生の浮き沈みが、五輪の年表と並行している気がします。
衝撃的だったロンドン・パラリンピック
――転機となった出来事はありますか。
◆やはり12年ロンドン・パラリンピックですね。10年に骨肉腫が見つかり、手術は成功しましたが、5年生存率は高いとは言えず、一年一年を平和に過ごすことを目標にしていました。そんな中で迎えたのがロンドン大会です。テレビで開会式を見たのですが、衝撃的でした。ジェニー・シーレイさんという演出家が手掛けたのですが、彼女も聴覚障害を持ち、主役からマスキャストに至るまでとにかく多様な人々で作られている。十人十色の多様な人たちの掛け算によって、こんなに面白いことができるんだと思いました。
――横浜で活動されているのは?
◆障害を持つ人の個性を生かした現代アートの国際展「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」ですね。ロンドン・パラリンピックで衝撃を受け、14年に横浜市とフェスティバルを開催し、その中で障害者と一緒にパフォーマンスをするコンテンツを作りました。ところが、実際にやってみると、参加者がなかなか見つからないという壁にぶつかりました。障害を持つ人のアクセシビリティーに問題があったのです。それをきっかけに、アクセシビリティーの専門家を養成し、参加しやすい環境作りに努めました。
――そして念願の東京五輪・パラリンピックですね。
◆昔から「五輪の開会式を作るのが夢」と公言していたこともあり、13年に東京大会の開催が決まった時には、友人から「おめでとう」と言われました。まだ何も決まっていないのに(笑い)。縁あって16年リオデジャネイロ・パラリンピック閉会式の旗引き継ぎ式にステージアドバイザーで関わり、今回もクリエーティブディレクターを務めます。
――演出は秘密でしょうが、どんなステージにしたいですか。
◆パラリンピックの開閉会式は、400人超のキャストを公募しました。特に障害がある人に応募を呼び掛けたところ、約2000組5000人超の応募がありました。イベントの規模は異なりますが、14年のヨコハマ・パラトリエンナーレの応募者はわずか5人、17年でも60~70人でした。17年は、全国の自治体や文化団体関係者から「どうしてそんなに集まるの」と驚かれましたが、パラリンピックは桁違いです。チャンスがあれば舞台に立ちたいと思っている人がこれだけいるんだ、という証明になりました。
魔法が使えても過去に戻りたくない
――東京パラリンピックを通じて、どんな社会になればいいと思いますか。
◆もし私に魔法が使えて「病気になる前の健常者に戻れるよ」と言われても、私は「戻してくれるな」と言います。つえが邪魔だとか、走れないとか、物理的な不自由さはありますが、今の方がよっぽど自由に楽しく生きています。今の社会の空気感って、行き詰まっているじゃないですか。同調圧力に押しつぶされそうで、皆さんつらそうな顔をしている。それよりも、みんなバラバラで、違いを認め合って生きているコミュニティーの方が幸せだし楽しい。誰のことも否定しないし、自分も否定しない。みんながお互いの違いを認め合い、生かし合える社会になればいいなと思います。
くりす・よしえ
1977年生まれ、東京都出身。横浜市のNPO法人スローレーベル理事長。パラクリエーティブプロデューサー、ディレクター。2010年に骨肉腫を患い、右下肢機能全廃となったことをきっかけに障害福祉の世界と出合う。14年からヨコハマ・パラトリエンナーレ総合ディレクター。趣味は旅行、温泉巡り。
感想;
骨肉腫を患い、右脚が不自由になりました。
骨肉腫ですから死ぬことも考えられたでしょう。
「もし私に魔法が使えて「病気になる前の健常者に戻れるよ」と言われても、私は『戻してくれるな』と言います。つえが邪魔だとか、走れないとか、物理的な不自由さはありますが、今の方がよっぽど自由に楽しく生きています。」
骨肉腫になっても生きる目的を見失わずに、努力を重ねて来られたからこそ、言える言葉なのでしょう。
まさに「人生からの問い(骨肉腫になったがどうするか?)」に”Yes”と受け入れて、できないことよりも、できることを探して来られた結果が今なのだと思います。
彼女は多くの人に勇気と元気と希望を与えてくれていると思います。
ロゴセラピーでは、「人生から問いかけてくる」と考えます。
そして自分がどうそれを受けいれて選択していくか。
できないことを”黒石”、できることを“白石”に例えます。
彼女は黒石を数えることより、その状況でも持っている白石を見つけ、それをやって来られたのでしょう。
ロゴセラピーについて
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
開催国の文化や伝統、芸術などを世界にアピールする機会でもある五輪・パラリンピックの開閉会式。クリエーティブディレクターを務める栗栖良依さん(42)は、開閉会式を通じて「共生社会」を描こうとしています。病気になってもあきらめず、夢を追い続けた半生を聞きました。【聞き手・芳賀竜也】
――クリエーティブディレクターの仕事を教えてください。
◆私は主にパラリンピックを担当しているのですが、障害のある人がセレモニーに出るために必要なアクセシビリティー(利用しやすさ)のケアや、キャスティングをしています。ステージ演出を手掛ける人たちは、日常的に障害者と仕事をしているわけではないので、必要な部分を補助しています。障害者が安全に舞台に立ち、最高のパフォーマンスができるために伴走する役割です。
――障害者と創作活動をするようになったきっかけは?
◆2010年に骨肉腫を患い、右脚が不自由になったことが直接のきっかけですね。いろんな障害がある人たち、誤解を恐れずに言えば面白い人たちに出会う機会が増え、自分が持っていない視点や気付きをたくさんもらえるようになりました。「障害者って大変」とか「頑張っているんだよ」などと伝えるつもりはさらさらなく、多様な個性から生み出される「楽しさ」を伝えたいです。
――五輪に興味を持ったのはいつですか?
◆高校1年の冬、リレハンメル冬季五輪の開会式をテレビで見て「五輪の開閉会式を自分で作りたい」と思いました。高校までバスケットボール部だったのですが、それとは別に仲間と年3、4回、舞台作品を作り、校内で発表していました。「平和に貢献する仕事がしたい」と進路を考え始めていた頃に出合ったのが五輪の開会式です。五輪は「平和の祭典」ですよね。すべてのピースがはまったのが五輪の開会式でした。
――その後の歩みは?
◆セレモニーは一番スケールの大きいアートと考えて、大学ではアートマネジメントを専攻しました。バレーボールなどの国際大会でアルバイトをして経験を積み、1998年長野冬季五輪ではボランティアで選手村の式典交流班を務めました。06年トリノ冬季パラリンピックの開会式も見に行くなど海外でも勉強しましたが、10年に病気をしてしまったんです。自分の人生の浮き沈みが、五輪の年表と並行している気がします。
衝撃的だったロンドン・パラリンピック
――転機となった出来事はありますか。
◆やはり12年ロンドン・パラリンピックですね。10年に骨肉腫が見つかり、手術は成功しましたが、5年生存率は高いとは言えず、一年一年を平和に過ごすことを目標にしていました。そんな中で迎えたのがロンドン大会です。テレビで開会式を見たのですが、衝撃的でした。ジェニー・シーレイさんという演出家が手掛けたのですが、彼女も聴覚障害を持ち、主役からマスキャストに至るまでとにかく多様な人々で作られている。十人十色の多様な人たちの掛け算によって、こんなに面白いことができるんだと思いました。
――横浜で活動されているのは?
◆障害を持つ人の個性を生かした現代アートの国際展「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」ですね。ロンドン・パラリンピックで衝撃を受け、14年に横浜市とフェスティバルを開催し、その中で障害者と一緒にパフォーマンスをするコンテンツを作りました。ところが、実際にやってみると、参加者がなかなか見つからないという壁にぶつかりました。障害を持つ人のアクセシビリティーに問題があったのです。それをきっかけに、アクセシビリティーの専門家を養成し、参加しやすい環境作りに努めました。
――そして念願の東京五輪・パラリンピックですね。
◆昔から「五輪の開会式を作るのが夢」と公言していたこともあり、13年に東京大会の開催が決まった時には、友人から「おめでとう」と言われました。まだ何も決まっていないのに(笑い)。縁あって16年リオデジャネイロ・パラリンピック閉会式の旗引き継ぎ式にステージアドバイザーで関わり、今回もクリエーティブディレクターを務めます。
――演出は秘密でしょうが、どんなステージにしたいですか。
◆パラリンピックの開閉会式は、400人超のキャストを公募しました。特に障害がある人に応募を呼び掛けたところ、約2000組5000人超の応募がありました。イベントの規模は異なりますが、14年のヨコハマ・パラトリエンナーレの応募者はわずか5人、17年でも60~70人でした。17年は、全国の自治体や文化団体関係者から「どうしてそんなに集まるの」と驚かれましたが、パラリンピックは桁違いです。チャンスがあれば舞台に立ちたいと思っている人がこれだけいるんだ、という証明になりました。
魔法が使えても過去に戻りたくない
――東京パラリンピックを通じて、どんな社会になればいいと思いますか。
◆もし私に魔法が使えて「病気になる前の健常者に戻れるよ」と言われても、私は「戻してくれるな」と言います。つえが邪魔だとか、走れないとか、物理的な不自由さはありますが、今の方がよっぽど自由に楽しく生きています。今の社会の空気感って、行き詰まっているじゃないですか。同調圧力に押しつぶされそうで、皆さんつらそうな顔をしている。それよりも、みんなバラバラで、違いを認め合って生きているコミュニティーの方が幸せだし楽しい。誰のことも否定しないし、自分も否定しない。みんながお互いの違いを認め合い、生かし合える社会になればいいなと思います。
くりす・よしえ
1977年生まれ、東京都出身。横浜市のNPO法人スローレーベル理事長。パラクリエーティブプロデューサー、ディレクター。2010年に骨肉腫を患い、右下肢機能全廃となったことをきっかけに障害福祉の世界と出合う。14年からヨコハマ・パラトリエンナーレ総合ディレクター。趣味は旅行、温泉巡り。
感想;
骨肉腫を患い、右脚が不自由になりました。
骨肉腫ですから死ぬことも考えられたでしょう。
「もし私に魔法が使えて「病気になる前の健常者に戻れるよ」と言われても、私は『戻してくれるな』と言います。つえが邪魔だとか、走れないとか、物理的な不自由さはありますが、今の方がよっぽど自由に楽しく生きています。」
骨肉腫になっても生きる目的を見失わずに、努力を重ねて来られたからこそ、言える言葉なのでしょう。
まさに「人生からの問い(骨肉腫になったがどうするか?)」に”Yes”と受け入れて、できないことよりも、できることを探して来られた結果が今なのだと思います。
彼女は多くの人に勇気と元気と希望を与えてくれていると思います。
ロゴセラピーでは、「人生から問いかけてくる」と考えます。
そして自分がどうそれを受けいれて選択していくか。
できないことを”黒石”、できることを“白石”に例えます。
彼女は黒石を数えることより、その状況でも持っている白石を見つけ、それをやって来られたのでしょう。
ロゴセラピーについて
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-