著者は食道がんステージ3。26歳の時に狭心症を起こしたが医師が若いから違うということで正しい処置がされず、心筋梗塞を起こし、心臓が弱っていたが、うまく薬と無理な運動をすることをせずに折り合いをつけていたので、がん治療の基本「(抗がん剤で)たたく、(手術で)切る、(放射線を)当てる」の切るがリスクが高かった。
医師にも親しい人がいて、当時の一流の人にも診てもらったが、全てが切るだった。
ipadで妻と一緒に治療方法を探したら“陽子線治療”があることを知り、それにより完治したそうです。
著者は満州で生まれ、命がけで帰国してきたそうです。
・「生きる力」とは森羅万象と交響する意識にはかならない、と今の私は知っている。
私は生まれ変わって、生きとし生けるものの中の、ただ一つの命として、また生きはじめている。
・国というものは情報を隠すし、必ず加害者側に利益保全を考え、犠牲者側には立たないということを、私は第二次世界大戦のときの満州ですっかり味わってしまっている。ソ連軍が攻めてきた時、関東軍は慰留民を置いてさっさと逃亡していた。しかも、彼らは自分たちの“
影”をつくろうとして、十五、六歳の少年に軍服を着せて、銃に見立てた木の棒のようなものを持たせて、ソ連国境に全員配備した。ソ連軍は望遠鏡で見て、それが棒を持った子どもたちだと分かっていた。影にもなんにもなっていなかったが、そんなことはお構いなしに関東軍はその間にどんどん南下していった。ソ連国境で汽車がすれ違うときに、南下していく汽車には軍人が乗っていて、北上する汽車には少年たちが乗っている。少年たちに軍人が逃亡していいるということを覚らせないために、軍人だちを乗せた汽車は窓を全部閉め切っている。何も知らない少年たちを乗せた汽車は偽装国境警備のために北に送られていく。そうまでして彼らは逃げた。
・外務省、昭和二十年八月十四日(ポツダム宣言受諾の日)付で在外機関に訓電した。
「慰留民はできるかぎり現地に定着せしめる方針をとる」
・三度目は、引き揚げ事業そのものを国が起こさなかったということ。引き揚げ事業を起こしたのは、避難民の中にいた、または避難民をそばで見ていた満州在住の篤志家で、金があり、地位があり、政府と渡りをつけられる力のある人間が、みんなで金を出し合って「ハルビン市日本人遺送民会」というものを組織し、国家に貸し付ける形をとって、中共政府、国民政府、アメリカとかけ合い、引き揚げ事業を起こした。
・ソ連軍の満州進行があり、関東軍に捨てられ、私たち家族は住んでいた牡丹江を脱出することになった。途中、ハルビンへ向かう列車が停まる。ロシア軍の戦闘機が迫ってきたためだ。乗客は皆、一目散に列車から飛び降り近くの森へと身を隠しに走った。私は母について行こうとしたが、母は「あなたはここに隠れていなさい」と言って、私を列車の座席に下に潜り込ませた。
銃弾は客車の屋根と天井を、一メートル間隔で撃ち抜き、通路の床板をも貫通していった。自分のすぐ目の前で床板に穴が開くのを見て公平は肝をつぶし、ふたたびしっかりと頭を隠して震えていた。『赤い月』なかにし礼著
戦闘機が飛び去った後、森へ逃げていた人たちが列車に戻ってきた。車内の惨状を見て、母は私に言った。
「許しておくれ。私が間違っていたわ。でもね、これからも、こういうことがなんどもあると思うわ。だから、あなたは母さんの言うことだって信じてはいけないのよ。だから、自分で逃げるのよ、自分で生きるのよ」
いずれにせよ、このとき以来、私は物事をすべて自分で考え、自分で決断してきた。
・引き揚げ船に乗る前、ハルビンにいたころ、収容所にロシア人が来て、「女を出せ」と言ってきた。するとグループ長が、「〇〇さん、済まないが、みんなのために、あなたのお嬢さんを出してくれませんかね」と頼む。みんなのためだから断れなくて愛する娘なり妻を差し出すと、彼女はロシア兵たちに犯され、半泣きで帰ってくる。それを周りの人は「やられたんだ」と蔑んだ目で見る。「我々のために犠牲になってくれてありがとう」と言って手を合わせるのではなくて、汚れた物を見るようにみんなで蔑視する。ところが毎晩のようにこういうことが起きるから、時を経ずして、和解女性のほとんどが犠牲になってしまうことになる。そうなると誰も人を蔑視することなどできなくなり、ただひたすら母娘で泣き合うしかない。
・今回闘病している間に、さまざまな作家が作品の中で残した言葉が私の頭の中で思い返されてきて、それがいろんな支えにもなり、考えの裏打ちになった。ドストエフスキー、カフカ、トーマス・マン、ヘッセ、カミュ・・・、過去の知的巨人たちが、私の考えを下支えしてくれたり、裏打ちしてくれたり、引っ張り上げたり、後押ししてくれた。日ごろから自分の精神を鍛えるための読書を休みなく続けていくこと。そういう時間を私はいっぱい持ったことによって、自分の下す結論に対する自信が人一倍強くあったのだと思う。日ごろ読んだ本の一言一句をどれだけわが事として痛烈に受けとめ、胸に刻み込んだか、それが大事で、それによって本当に助けられたと思っている。
・私は「死を友とせよ」という言葉を自分のモットーとして生きていて、毎日毎日、明日はないと思って眠り、朝、目が覚めたら、「今日も生きている」というところから今日を始めよう、一日一日を充実して生きようと思ってやってきた。
・『わがままこそ最高の美徳』ヘルマン・ヘッセ著
「運命に外から見舞われた者は、野獣が矢に倒されるように、運命に倒される。内部から自分の核心から運命に見舞われた者を、運命は強化して、神とする。」
私はヘッセの言葉をまともに信じた。
がんというものは、よそから与えられたり、事故のように遭遇したりするものではない。自分が延々と抱えてきたもの、七十何年かかって抱えてきたものが突然何かの拍子に顔を出してきた。つまり、がんが生きていた七十年間と、私が生きていた七十年間は一緒なのだ。
・『告白』ルソー著
「逆境にあっても英知のある人間は、いつも幸福を求める道を知り、幸福に達するために順風に乗るすべを知っている。
・陽子線でがんが治った後、僕が手術を断った外科医の先生にいちおう報告したのですが、そのとき陽子線治療のことを知っていたかどうか尋ねてみました。すると、「もちろん知っていました」と言うわけです。「じゃあ、なぜ僕にはすすめてくれなかったのですか?」と理由を聞くと、「うちの病院にはないから」と、これだけです。僕はこの言葉を聞いて、呆然としました。
「当時、国立がん研究センター東病院では食道がんの陽子線治療はやっていなかったと思います」不破信和(兵庫県立粒子医療センター院長)
感想;
「過去を忘れるのが早すぎないでしょうか」 なかにし礼さんインタビュー
生きるとは、自分で考えて判断して選択して行動する。
判断するためにはそれを支える知識を人生の先達から学ぶことを普段から行っておくことだと。
医師にも親しい人がいて、当時の一流の人にも診てもらったが、全てが切るだった。
ipadで妻と一緒に治療方法を探したら“陽子線治療”があることを知り、それにより完治したそうです。
著者は満州で生まれ、命がけで帰国してきたそうです。
・「生きる力」とは森羅万象と交響する意識にはかならない、と今の私は知っている。
私は生まれ変わって、生きとし生けるものの中の、ただ一つの命として、また生きはじめている。
・国というものは情報を隠すし、必ず加害者側に利益保全を考え、犠牲者側には立たないということを、私は第二次世界大戦のときの満州ですっかり味わってしまっている。ソ連軍が攻めてきた時、関東軍は慰留民を置いてさっさと逃亡していた。しかも、彼らは自分たちの“
影”をつくろうとして、十五、六歳の少年に軍服を着せて、銃に見立てた木の棒のようなものを持たせて、ソ連国境に全員配備した。ソ連軍は望遠鏡で見て、それが棒を持った子どもたちだと分かっていた。影にもなんにもなっていなかったが、そんなことはお構いなしに関東軍はその間にどんどん南下していった。ソ連国境で汽車がすれ違うときに、南下していく汽車には軍人が乗っていて、北上する汽車には少年たちが乗っている。少年たちに軍人が逃亡していいるということを覚らせないために、軍人だちを乗せた汽車は窓を全部閉め切っている。何も知らない少年たちを乗せた汽車は偽装国境警備のために北に送られていく。そうまでして彼らは逃げた。
・外務省、昭和二十年八月十四日(ポツダム宣言受諾の日)付で在外機関に訓電した。
「慰留民はできるかぎり現地に定着せしめる方針をとる」
・三度目は、引き揚げ事業そのものを国が起こさなかったということ。引き揚げ事業を起こしたのは、避難民の中にいた、または避難民をそばで見ていた満州在住の篤志家で、金があり、地位があり、政府と渡りをつけられる力のある人間が、みんなで金を出し合って「ハルビン市日本人遺送民会」というものを組織し、国家に貸し付ける形をとって、中共政府、国民政府、アメリカとかけ合い、引き揚げ事業を起こした。
・ソ連軍の満州進行があり、関東軍に捨てられ、私たち家族は住んでいた牡丹江を脱出することになった。途中、ハルビンへ向かう列車が停まる。ロシア軍の戦闘機が迫ってきたためだ。乗客は皆、一目散に列車から飛び降り近くの森へと身を隠しに走った。私は母について行こうとしたが、母は「あなたはここに隠れていなさい」と言って、私を列車の座席に下に潜り込ませた。
銃弾は客車の屋根と天井を、一メートル間隔で撃ち抜き、通路の床板をも貫通していった。自分のすぐ目の前で床板に穴が開くのを見て公平は肝をつぶし、ふたたびしっかりと頭を隠して震えていた。『赤い月』なかにし礼著
戦闘機が飛び去った後、森へ逃げていた人たちが列車に戻ってきた。車内の惨状を見て、母は私に言った。
「許しておくれ。私が間違っていたわ。でもね、これからも、こういうことがなんどもあると思うわ。だから、あなたは母さんの言うことだって信じてはいけないのよ。だから、自分で逃げるのよ、自分で生きるのよ」
いずれにせよ、このとき以来、私は物事をすべて自分で考え、自分で決断してきた。
・引き揚げ船に乗る前、ハルビンにいたころ、収容所にロシア人が来て、「女を出せ」と言ってきた。するとグループ長が、「〇〇さん、済まないが、みんなのために、あなたのお嬢さんを出してくれませんかね」と頼む。みんなのためだから断れなくて愛する娘なり妻を差し出すと、彼女はロシア兵たちに犯され、半泣きで帰ってくる。それを周りの人は「やられたんだ」と蔑んだ目で見る。「我々のために犠牲になってくれてありがとう」と言って手を合わせるのではなくて、汚れた物を見るようにみんなで蔑視する。ところが毎晩のようにこういうことが起きるから、時を経ずして、和解女性のほとんどが犠牲になってしまうことになる。そうなると誰も人を蔑視することなどできなくなり、ただひたすら母娘で泣き合うしかない。
・今回闘病している間に、さまざまな作家が作品の中で残した言葉が私の頭の中で思い返されてきて、それがいろんな支えにもなり、考えの裏打ちになった。ドストエフスキー、カフカ、トーマス・マン、ヘッセ、カミュ・・・、過去の知的巨人たちが、私の考えを下支えしてくれたり、裏打ちしてくれたり、引っ張り上げたり、後押ししてくれた。日ごろから自分の精神を鍛えるための読書を休みなく続けていくこと。そういう時間を私はいっぱい持ったことによって、自分の下す結論に対する自信が人一倍強くあったのだと思う。日ごろ読んだ本の一言一句をどれだけわが事として痛烈に受けとめ、胸に刻み込んだか、それが大事で、それによって本当に助けられたと思っている。
・私は「死を友とせよ」という言葉を自分のモットーとして生きていて、毎日毎日、明日はないと思って眠り、朝、目が覚めたら、「今日も生きている」というところから今日を始めよう、一日一日を充実して生きようと思ってやってきた。
・『わがままこそ最高の美徳』ヘルマン・ヘッセ著
「運命に外から見舞われた者は、野獣が矢に倒されるように、運命に倒される。内部から自分の核心から運命に見舞われた者を、運命は強化して、神とする。」
私はヘッセの言葉をまともに信じた。
がんというものは、よそから与えられたり、事故のように遭遇したりするものではない。自分が延々と抱えてきたもの、七十何年かかって抱えてきたものが突然何かの拍子に顔を出してきた。つまり、がんが生きていた七十年間と、私が生きていた七十年間は一緒なのだ。
・『告白』ルソー著
「逆境にあっても英知のある人間は、いつも幸福を求める道を知り、幸福に達するために順風に乗るすべを知っている。
・陽子線でがんが治った後、僕が手術を断った外科医の先生にいちおう報告したのですが、そのとき陽子線治療のことを知っていたかどうか尋ねてみました。すると、「もちろん知っていました」と言うわけです。「じゃあ、なぜ僕にはすすめてくれなかったのですか?」と理由を聞くと、「うちの病院にはないから」と、これだけです。僕はこの言葉を聞いて、呆然としました。
「当時、国立がん研究センター東病院では食道がんの陽子線治療はやっていなかったと思います」不破信和(兵庫県立粒子医療センター院長)
感想;
「過去を忘れるのが早すぎないでしょうか」 なかにし礼さんインタビュー
生きるとは、自分で考えて判断して選択して行動する。
判断するためにはそれを支える知識を人生の先達から学ぶことを普段から行っておくことだと。