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五輪アプリを23億円受注  NTTが平井デジタル相と官僚を接待疑惑【内部文書入手】 "つい接待されて優先してしまった?”

2021-06-23 18:02:18 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/252353ae2e08611f3387cd898b46a7663cb29fdb 6/23(水) 16:12文春オンライン

 東京五輪向けアプリの事業費削減を巡り、平井卓也デジタル担当相(63)が内閣官房IT総合戦略室の会議で同室の幹部に対し、請負先企業のNECを「完全に干す」などと指示していた問題。五輪アプリを受注しているNTTグループの幹部から平井氏がデジタル担当大臣に就任した後、2回にわたって“迎賓館”と呼ばれる会員制レストランで接待を受けていた疑いがあることが、「週刊文春」が入手した内部資料でわかった。また、五輪アプリを発注したIT総合戦略室に所属する官僚も同席して接待を受けていた疑いがある。

【画像】NTTの内部資料には〈平井卓也大臣〉の名が

  NTTを巡っては、利害関係にある総務省幹部に対する接待を、「週刊文春」が報道 。谷脇康彦・総務省総務審議官が辞職し、多数の幹部が処分を受けた。

 NTTグループは、今年1月14日、IT総合戦略室が開発を担う五輪アプリをNTTの100%子会社・NTTコミュニケーションズを中心とした5社のコンソーシアムが約73億円で受注している。そのうち、NTTコミュニケーションズの契約額は約46億円。その後、事業費が削減され、NECについては契約が解除されたものの、NTTコミュニケーションズは引き続き23億円分の受注を確保している。

 NTT関係者が明かす。

「実はここ数年、NTTは平井氏との距離を縮めています」

 内部資料によれば、平井氏はデジタル相就任後の昨年10月2日と12月4日、2度にわたり、NTTの澤田純社長から接待を受けていた。

 場所は、港区・麻布十番にある「KNOX」。NTT幹部が総務官僚らを接待していた、同社の“迎賓館”と呼ばれる会員制レストランだ。

「KNOXでは和食かフレンチか選択でき、澤田氏は相手の希望がない限りフレンチですが、平井氏との会食は2回とも和食だったようです。和食の場合、2万4千円のコースに一本10万円単位の高級ワインなどを加え、1人5万円を目安に調整します」(同前)

 五輪アプリの開発や保守の入札が公示されたのは、2回目の接待から間もない昨年12月28日。ただ、事業者側は必要な資料を今年1月8日までに提出することが求められた。

「年末年始を挟んだ営業日は僅か5日間。公告期間としては異例の短さです。決定方法は一般競争入札でしたが、NTTコミュニケーションズが代表幹事を務めるコンソーシアムだけが応札し、1月14日に約73億円で落札しました」(IT総合戦略室関係者)

元検事の見解は……
 また、内部資料によれば10月2日の会食には平井大臣のほか<内閣官房2名>が、12月4日の会食には<向井様>が同席したと見られる。官報などで確認する限り、平井氏に関連する内閣官房の部局で<向井>姓は、IT総合戦略室の向井治紀室長代理だけ。向井氏は、平井大臣から「NECを干す」などと指示を受けた人物だ。 

 元東京地検特捜部検事の若狭勝弁護士が解説する。

「会食の場で大臣の職務権限に絡む話が少しでも出ていれば、業者側から具体的なお願い事をしていなくても、単純収賄罪に該当する可能性があります。実際に起訴されるかどうかは接待の回数や金額で決まりますが、大臣の場合、職務権限が多岐にわたる。事業の発注などもその一つです」

 NTTに事実関係の確認を求めたところ、以下の回答があった。

「個別の会食についてのお答えは差し控えさせていただきます。ただし、個別の会食の席上で、具体的なビジネスに関する話題を持ち出すことはありません。(平井氏への接待は)今後はルールを遵守していく」

 平井氏にも会食の目的や負担額などについて尋ねたところ、事務所を通じて主に以下の回答があった。

「個別の事案についてお答えするのは控えさせていただきますが、大臣在職中に行われる場合には、大臣規範に則った対応をしています。国民の皆様から疑念を招くような会食や会合などに応じたことはありません」

 官僚への接待では、国家公務員倫理規程に、利害関係者との1万円を超える会食は届け出が必要と定められている。向井氏に事実確認を求めたが、期日までに回答はなかった。

 五輪アプリを巡っては、平井氏が「完全に干す」「死んでも発注しない」などと発言したNECが実際に契約から外れている。NTTから接待を受けたことで事業の契約に影響を及ぼすことはなかったか、平井氏には透明性のある説明が求められそうだ。

 6月16日(水)16時配信の「週刊文春 電子版」及び6月17日(木)発売の「週刊文春」では、平井氏がNTTから受けたとされる8回に及ぶ接待の詳細のほか、五輪アプリの公示期間が短かった背景などを詳報している。

感想
大臣ともなれば、「李下に冠を正さず」の姿勢で疑われなくすることですが、多くの大臣が、その桃をお土産用にもらっているようです。
もちろん、渡す方は見返りを期待してのことですが。

丸川五輪相 五輪会場での酒類販売容認、スポンサーへの配慮も「ステークホルダーの存在がある」 ”丸川五輪相のポロっと出た本音にアサヒビールは涙”

2021-06-23 03:50:00 | 新型コロナウイルス
https://www.tokyo-np.co.jp/article/112059 2021年6月22日 12時35分 東京新聞

 丸川珠代五輪相は22日の記者会見で、東京五輪・パラリンピック組織委員会が会場で観客への酒類の販売を認める方向で調整しているとされることについて「飲酒、酒類の提供のあり方は組織委が検討している」とした上で、「大会の性質上、ステークホルダー(利害関係者)の存在があるので組織委はそのことを念頭に検討される。大声を出さない、拍手だけで応援する観戦スタイルが貫かれる形で検討してほしい」と述べた。
 大会での酒類の提供・販売については、アルコール飲料メーカー「アサヒビール」がゴールドパートナー契約を結んでいる。

【関連記事】販売契約のアサヒビール「コメントする立場にない」 五輪会場、酒類販売容認で調整

 また丸川氏は酒類提供について「地域では知事が何時まで提供できるのか、どういう形なら提供できるか。一定の呼び掛けやのぞましい姿を示しになられた。地域の知事との連係、相談した上で決めていくことが必要だ」との考えも示した。
 通常の飲食店での酒類の提供をめぐっては、これまで新型コロナウイルスの感染防止のために提供の自粛や人数制限などが行われてきた。ツイッターでは「市中店舗で酒販売に制限を加える一方で、五輪が酒類販売がOKという支離滅裂な方針」などと批判の声も上がっている。

感想
酒類の販売が中止の方向とか。

アサヒビールにしたら、何のためにスポンサーになったのかとの思いが強いでしょうね。

人数制限など行っている通常の飲食店と同じレベルだと結果は違っていたのではないかと思います。
つまり、オリンピックだからと言って特別視せずに一般と同じにするとしていれば、批判はもっと少なかったと思います。

衆議院選挙が控えているので、無視できなかったのでしょう。

「私は親に殺された! 東大卒女性医師の告白」小石川真美著 ”親の子への良かれの言動が子どもを苦しめる”

2021-06-23 03:23:23 | 本の紹介
・物心ついた時には既に、母は私にとって神のような存在だったから、私には母の評価が全てだった。その母から「情けない」「つまらない」と嘆かれることは、「お前には生きている価値がない」という“死刑宣告”に等しかった。これは全然大袈裟ではなく、母から少しでも嘆かれると私の存在そのものが危機に瀕してしまう状況は、私の精神疾患が大きく改善する40歳近くまで続いた。

・これから先、両親の非を厳しく責める内容をたくさん書かなければならないので、その前に公平を期すために、両親のとても良かったところをまとめて述べておきたい。
 ・母の良かった点は、何よりも躾が厳しかったことである。まず早寝、早起き、歯磨き、洗面などの基本的生活習慣を厳しく教え込まれた。・・・挨拶、言葉遣い、礼儀作法を厳しく仕込まれた。
 ・5歳以降は全て、散剤か錠剤を処方された。服薬の問題については、この母のやり方が正しかったと、今でも感謝している。
 ・父も躾が厳しかった。“人として持つべき基本的な心の姿勢”を教えることが多かった。「自分がやられて嫌なことは絶対他人にやるな」と、「自分なりの目標を立てて、達成するまで頑張りぬけ」の二つだった。
 ・本物の躾とは、間違いなく親の深い愛情に根差した行為だ。それをきちんと私に教えてくれたことについては、両親に深く感謝している。

・私の精神の健康な生育を阻害した要因は、両親が全くと言っていいほど、私を褒めなかったことだ。例えば学校のテストで繰り返し100点を取っても、他人は皆、目をみはって褒めてくれたが、両親だけはけっして褒めてくれなかった。

・動こうとしても動けず、人並みの社会生活を送ることさえ難しくなった。その兆候が最初に現れたのが、うつ病を主体とした「境界性人格障害」を発病した17歳の時であり、より顕著に表れたのが、うつ病という診断で初めて精神科の治療対象になった26歳の時である。

・実の親から心を傷つけられる苦しみを嫌というほど経験したはずの両親が、皮肉にも我が子である私を苦しめる行為に出た。要するに、既によく知られる“虐待の連鎖”が私の身にも起きて、それが私を病ませる主原因になったと考える。父の場合は特に、「自分がやられて嫌なことは絶対他人にやるな」という、自身の言葉に似つかわしくない行動をしたと言える。

・親であれ、他人や社会であれ、自分を傷つけた当の相手を正しく、そしてしっかり恨むことで、自分のマイナスの感情をきちんと処理し終えていない人は、処理し終えるまで親にならないで欲しいと、強く言いたい。

・「一緒に死ぬ!」障害児の弟(ダウン症候群)をめぐる母の脅し<小学校卒業まで>
弟については純粋にいい意味においてのみ、今の自分があるのは弟のお蔭と思えるので、彼に深く感謝している。
 当時8歳だった私は、自分の命を半分弟に分けてやれないものかと考えて、毎晩頭から蒲団をすっぽりかぶって、声を殺して泣いた。そしてこの思いが、“
 こういう星の下に生まれた以上、私は将来医者になって弟と同じ病気の子ども達を助けなければ、人として許されない”という思いにつながり、私はその思い出自分で自分を強く縛ってしまった。

・小学生時代も、私は両親からもっぱらネガティブな評価ばかり受入れ、成人してからは、両親に感謝するより、恨みつらみを言いたいことの方が圧倒的に多くなった。しかし当時の私は恐らく、世間から見れば相当親孝行の部類で、両親の誕生日や父の日、母の日、クリスマスのプレゼントを欠かしたことはなかった。これは弟を引き取って、両親と完全に絶縁する直前の、2012年末まで続いた(筆者は1957年生まれ)。

・高校生前半の時期にもっぱら取りつかれたのは、個々の人間や人生には本当に意味や価値があるのかという疑問だった。

・Mさんは私とは対照的に、他の誰にも左右されない、しっかりした自分を持つ人だった。そのMさんが、ある日私に「ねえ、真美。真美は自分は他人から嫌われると思い込んで、いつもびくびくしてるみたいだけど、そんなことないよ。普通だよ。だからびくびくする必要なんか全然ないよ」と、ポロっと言ってくれたのである。Mさんのたったそれだけの言葉が、私が、現在まで続くうつ病を中核とする精神の病を発病する契機になったのである。Mさんが言ってくれたこと自体は、私にとって喜ばしいもののはずだった。なぜなら「自分が他人から嫌われてると信じ込んで」という、それまで長い間、私の自己認識の中核になってきた否定的認識を、Mさんは「違う」と言い切ってくれたからである。しかし私はその時、もっとすっと大きな間違いに気づかされてしまった。それは、私がそれまで“自分はこれこれこういう人間”と自身について認識してきた像全てが、全く本当の自分ではなかったということだった。
 だからといって、全くMさんを恨んではおらず、むしろ感謝している。病気になったからこそ、本当の自分を探す長い旅の出発点に立てた。一生嘘を生きるより、ずっとましだった。

・イギリスの著名な精神医学者R・D・レインの著書『ひき裂かれた自己』や『好き?好き?大好き?』などを愛読していた。
 それについて母は、「精神科なんかに関心を持つと、ろくなことにならない。精神科の医者になりたがるのは、もともと自分が患者の素質を持った人間で、関心を持つうちにますますおかしくなっていくのよ!」という暴言を吐いた。あげ句に私の本棚の精神医学関係の書籍を隠したり、捨てたりまでした。

・「これは(好きになってすこし付き合っていた同級生に振られて、そのことでクラスの中で彼を誹り、包丁を彼の前に置いた)はお坊ちゃまとお嬢さんの喧嘩だね」と私の未熟さを窘めることも抜かりなかったが、学問に優れているのみならず、こんなに懐の深い、人情の機微に通じた先生が東大にいらしたのは大きな驚きだった。

・結論から言って、私は強制入院は廃止(できる限り全廃)した方がいいと考えている。患者本人に入院の意思がないのに、家族や医者など他の人間が勝手に入院を強制できるのは精神科だけだ(意思に反して強制入院させられる)。

・その後私は合計で30回、本気で死ぬ意思を持って、通常なら当然死ねる手段を用いて自殺を図ったが、結局一度も父からその質問「何が辛くて死のうとしたのか?」を受けることはなかった。

・「母親から『お前は駄目』と嘆かれ貶されて、悲しみうろたえた記憶がフラッシュバックするからだ」と書いている。これは「あなたはいつも人間関係が悩みになって、それに対する耐性がない」という神庭先生の指摘に反応した記述である。

・私の生活を決定的に悲惨にしたのは、先ほど述べた激しい不安と胸苦しさから逃れるために、自傷行為を始めたことだった。最初は腕の皮膚を、チクリチクリと針で刺すことから始まった。・・・痛みを感じている間だけ胸の苦しさが忘れられて、とても楽になった。そして次は剃刀で腕の皮膚を切るようになった。
 そして婚活をやめた頃、私は東大の小児科にも行けなくなり、自傷行為もエスカレートした。具体的には皮膚から静脈に、静脈から橈骨動脈に切る対象が移った。第一の理由は、その方が胸の苦しさをあ忘れるのにより効果的だったからだ。他にも理由があった。それは、自分自身に対する激しい憎しみだった。
 今述べた二つの理由から、自傷行為は一度始めるとやめられなくなった。これにもBZ(ベンゾジアゼピン)と同様に依存性があったと思われ、これがじきに自殺企図に発展した。

・最後の主治医との出会い、そして再生へ
 東大精神科講師の天野直二先生と出会ったのは1994年の12月、37歳の時だった。
 天野先生は抗うつ薬にしろ抗精神病薬にしろ、一つずつ取り替えて、何とか効く薬を見つけようと根気よく工夫してくださった。・・・おかげで天野先生にかかり始めてからは、自傷行為や自殺企図がバタリとやんだ。しかし本当に回復の決め手になったのは、天野先生が私の話をちゃんと聞いて、思いをしっかり受け止めてくれたことだった。何だ、そんなの当たり前じゃないかと思われるだろうが、それをしてくれる精神科の先生に、私はここで初めて出会うことができたのである。・・・
 私のうつ症状を主体とする精神の病は、主に生育歴が発病の原因になったと、はっきり認めてくれた。先生はさらに両親を読んで、「ご両親との関係に問題があったことが、お嬢さんが病んだ原因です」とはっきり説明し、「生まれつき悪い」というこれまでの認識を改めるよう、厳しく忠告して下さった。これは、それまで10人近い精神科の医師にかかってきて、初めての革命的な出来事だった。

・私の立ち直りは確実に進んでいった。1996年の年明けからは、都内の個人病院の外来を週3回、ほとんだお休まずに行けるようになり、診察する患者さんの数も順調に増えた。そして体重も計画的にダイエットの成果で3月末には73kgと、1月からさらに15kg減った。私本来の向上心が復活して、自分を、自分が思い描く理想像に向かってコントロールしていくことが、無性に楽しくなったためである。
 これには、天野先生が変わらず私を支え続けてくれたことの他に、1995年暮れに手紙で自分の心を洗いざらい吐き出せる人ができたことにも大いに助けられた。多分片思いだったと思うが、これが私にとって最後の恋になった。つまりそれだけ大きな存在だった。
 そんな中、1996年4月にふと思い付いて取った行動が、私を完全に地獄から追い出させ、立ち直りをゆるぎないものにしてくれた。それは84年から12年間、大量運用してきいたBZ系薬剤を、完全に中止したことだった。

・ソラナックスを一気に中止して、激烈な禁断症状を実体験してしまったことで、こんなものを飲んでいたのでは絶対にまともな子どもなど埋めるはずがないという認識が一層強固になり、そのお蔭で、何としてもやめなければという思いがゆるぎなくなったからである。そして、いったんそう心が決まると、私は速やかにソラナックスの減量・中止に向けて具体的計画を立てた。
1) 薬の量を1日1回4錠から始め、1回飲んだら、その後の24時間は絶対に次の薬を飲まず、出来る限り長く我慢すること。
2) 次に4錠飲んだら、その次に薬を飲むまで、少なくとも前の薬から薬までの間隔より長く我慢し、しかもできる限り長く我慢すること、。これを繰り返して、薬から薬までの間隔を、出来る限り早いうちに36時間まで延長すること。
3) 薬から薬までの時間が36時間に延びたら、4錠から3錠h3えの、薬の量を1段階減らす。そして次に薬を飲むまで24時間は絶対に我慢すること。
4) 2)と同じように、薬から薬までの間隔をできる限り長くする努力を繰り返し、36時間まで延ばせたら、また薬の量を3錠から2錠に1段階減らす。
5) 3)4)と同じことを繰り返して、薬の量を2錠から1錠、1錠から0.5錠と減らしていって、最終的にゼロにする。

・私の場合、まともな社会人として生きることを決定的に妨げていた強い不安・焦燥の症状や、境界性人格障害の病像の大部分は、BZの弊害だったと、やめてみて初めてわかった。

・天野先生の外来をやめる少し前の1996年末頃、私は先生にお願いして両親と絶縁する手続きを取っていただくことにした。
天野先生も「それがいいと思う」と認めて下さり、先生から両親に私の意志を伝えていただいた。

・2013年1月に弟を両親の元から私の処に引き取り、近くの授産施設に通わせながら、今日まで2人で仲良く暮らしている。しかし、その後も母からの攻撃的な働きかけは2014年2月まで続いたが、一切反応しないようにした。それがあるとどうしても心が掻き乱され、生活に支障が出てしまいそうになったがどうにか踏ん張って持ちこたえ、現在に至っている。(2015年1月30日発行)

感想
母親は、育児書『スポック博士の育児書』にある「生後何か月の子どもは何時間おきに何ml」という授乳量の目安を憶え込んで、それと一滴も違わぬよう、私に飲ませようとしたそうです。でないと自分が不安でたまらなくなったからだそうです。
赤ちゃんがミルクを嫌がって飲まなくなると、チューブでミルクを食道に流し込んだそうです。

親が子どものために良かれと思ったことが、どれだけ子どもを苦しめていることがあるかを知りました。
親は子どもが失敗しないように、怪我しないように前もってやったり、手助けをしがちです。
でも、それが子どもにとって、「失敗から学ぶ」「怪我を体験して自ら注意する」ことを学ぶ機会を奪い取っているのでしょう。
子どもは成長するにたくさんの大変なことに直面します。
そいう体験をしていないとそれに直面した時に困ってしまいます。

親からされたことが当たり前と思って、同じように自分の子にしていることもあるのでしょう。
つまりよくない見本の親を真似ているのです。
それがどれだけ子どもの人権を無視しているかに気付いていないのです。

子どもを一人の人間として本人の意志の確認と本人がやりたいことを尊重することなのでしょう。
親が子に思う幸せはそれは親の幸せであり、子どもの幸せではないと言うことです。
人生の責任は本人が背負うものです。
親が代わりに背負うものでもないし、背負えません。
その荷を背負わない人があれこれ言うのはおかしいです。
逆に子どもは、成人すれば、親の言うことを聞く聞かないは自由です。

子どもは自分で生活できません。
それをよいことに、親の言いなりにさせているのは問題です。
子どもがやりたいことをさせないとか。
親はそれが子どものためと思っているのですが、子どもにとっては夢をつぶされたと思います。
よく話し合いがもたれると良いのですが。

筆者は職場の同僚と深い関係になりました。
しかし、同僚は妻子がある身のため、その関係を続けることを拒否しました。
筆者にとって、初めての男性であり、それまで性を否定してきた身でそれを受け入れたのにそれがまた閉ざされたように思い、同僚の妻に告白しました。
妻は夫の仲人でもあった職場の教授にそのことを伝えました。
筆者は職場に出入り禁止、その同僚はおとがめなしだったそうです。
そのために、心臓の専門医として未来も閉ざされてしまいました。
それが精神不調にもなりました。

必死で生きて来たが、コントロールできない思いと行動にまた、苦しめられる人生のようでした。
それと医者であるために自分で薬を処方して好きなだけ服用できたのも、かえって苦しめたようです。

筆者は親の干渉を避けたいと言いながら、いろいろなことを親に話しています。
そして干渉を受け、かつそれに苦しんでこられました。
何でそんなに嫌なら、自活できるようになったら親に話さなくてもよいと思うのですが・・・。
きっと筆者は自信が持てずについ親に相談されたのかなと思いました。

この本は『親という名の暴力』小石川真美著を読みやすくした本だそうです。
この本も新書380ページです。『親という名の暴力』は単行本で548頁とい大作です。
『親という名の暴力』
第1章 誕生から小学校入学まで
    経管栄養-乳児期から始まっていた主体性の抑圧
第2章 小学校低学年時代
    「あんたは末恐ろしい子」-大人に阿る嘘がつけないことを責められる
第3章 弟の誕生から小学校卒業まで
    障害児の弟を連れて死ぬという脅し
第4章 中学時代
    数学者は研究者のカビ?!-学業への没頭で精神疾患の顕在化が遅れる
第5章 高校時代
    「私は全然私じゃない」-境界性人格障害の発症
第6章 東大教養学部時代
    「もう人形扱いはやめて!」-初めての明確な母への抗議
第7章 東大医学部医学科時代
    「何をしたいのかわからない」-スチューデント・アパシーの苦しみ
第8章 東大病院小児科での研修と都立府中病院時代
    目標を得て、束の間平和だった頃
第9章 女子医大・心研の時代
    初めての精神科の患者になり、閉鎖病棟で拘束される
第10章 東大大学院時代
    その場凌の選択から再び挫折
第11章 臨床医への復帰と精神疾患の再発
第12章 最初の本格的な自殺企図
    ”燃え尽き”と罪業妄想の高まり
第13章 二度目の閉鎖病棟入院まで
    BZ依存症進行による衝動性の悪化
第14章 懲罰の入院生活
    精神を病むことは犯罪か-第1回H病院入院
第15章 自傷・そして自殺企図の習慣化
第16章 第2回H病院入院
    地に落ちた両親への信頼
第17章 奈落の底へ
    落伍寸前まで至った社会生活
第18章 最後の主治医との出会い、そして回復へ

エピローグ
原稿用紙1020枚、最初の構想から10年7か月が経過していた。
自分が親に傷つけられた親は、自分が負った心の傷やゆがみを真っ直ぐ見詰め、正しく認識して、自分を傷つけた親をきちんと恨み、そうすることによって、罪のない我が子を不当に恨みの捌け口にして、「虐待の連鎖」によって、また我が子を病ませてしまうという愚を、絶対に犯さないで欲しいと、繰り返し書いてきた。
落ち着いて、客観的な視点に立てば、人は誰でも、不安にして自分の親から全く価値を認められなくても、立派に社会の中で価値を持ち得ることは明白である。
従って、抗議の努力が実らなかったら、病んだ子供は、"どんなに親が認めなくても、やるべきことさちゃんとやれば、自分は立派に価値ある存在である”と正しく認識し直して、「もういいや」とさばさば、その後の人生を歩んでいかなくてはならない。でなければあまりにも勿体ない。

「大いなる誤解親子が殺し合わないために 子どもの魂を健やかに育て、幸せな親子関係を築くために必要なこと」小石川真美著 ”親の思う幸せと子の幸せは違う!”