幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「神様がくれたHIV」北山翔子著 "この病気になっても、悪いことばかりではない。得たものもたくさんある・・・"

2023-04-15 10:15:15 | 本の紹介
・私の仕事は保健師、地方公務員の技術職だ。

・医療の専門職として、HIVに感染してしまった自分の立場に居心地の悪さを感じ、
「このまま保健師をしてよいのだろうか?」
と、悩んだ時期もある。

・私は、避妊のためにピルを飲んでいてHIVに感染した。だから個人的に、ピルの解禁には全体反対である。

・(国際協力ボランティアでタンザニアで知り合った)彼の名前はジョン。・・・
 初めてセックスするときは、きちんと避妊の話もした。・・・
 最初はコンドームを使おうとした。しかし、彼はそれまでコンドームなど使ったことがなく、うまく自分でははめられない。見かねて私が手伝ったりしたのだが、どうもうまく行かない。・・・
 こんなに面倒ならと、私はピルを飲むようになった。今思うと、それがいちばんの落度だった。

・事業自得と言えばそれまでだが、でも、人間だったら、長い人生、こういう魔がさしたような失敗は、誰にでもとゆうわけではないけれど、一度や二度、あるのではないだろうか? いや、だからこそ人間なのではないだろうかと、今はやっと、そう思えるようになっている。

・「思いっきり泣きなよ。ここで泣いておかないと、日本に帰ったらもう泣いていられないよ」
 Kさんはそう言って、私をぎゅっと抱きしめた。

・今でも、仲間の存在を知らず、ひとりで自分の殻に閉じこもざるをえない感染者が多いのも確かだ。とくに地方だと、そういう情報網がなく、HIVに感染したショックからなかなかたちなおれない人が多いのだが、そんなとき、いちばん励みになるのが、同じ仲間の感染者と話をすることだ。

・「ショーコ、神様はね、その人が乗り越えられるだけの<苦労>をお与えになるものなのよ。大丈夫。あなたならきっと乗り越えられる。神様はそう思って、あなたにそういう障害をお与えになったのよ。日本に帰っても頑張るのよ」
 そう言って、強く私を抱きしめてくれたのだ。このときのダグ・ローズの言葉は、日本に帰ってからもよく思いだし、私の心の支えになっていた。

・「仕事なんですけどね。私はこっち(タンザニア)へ来たほうがいいかなと思って、職場に退職願をしたんですけど、上司に、今辞められたら困るやと言われて、どうしようかなと思っているんです」
と答えたとき、彼女の口からでたのが、
「そうなんだ・・・。北山さん、日本でも求められているんだよね」
という言葉だった。・・・そう言われてハッとした。それまで自分の思いこみだけで、日本の社会派居心地が悪いと疎外感を感じていたけれど、まわりの人たちは私でも必要としてくれていることに気づいたのだ。
 日本でも私は求められている・・・。

・「ジョンにショーコさんと結婚するから、その資金に金を貸してほしいと言われて貸したのですが、返してくれません。ショーコさん、返してください」・・・
 もし本当だったら、彼が許せなかった。・・・
「もし、私を利用してお金を借りたという話が本当なら、もうあなたと二度と会うことはないでしょう」
と念を押すための手紙を出したのだが、彼からは返事が来なかった。・・・
しかし、彼と別れたことより、タンザニアに半分以上行っていた気持ちの整理がついたのも事実だった。私は、日本で生きていく決心をした。

・直属の上司である婦長に、私の病気について話すときが来た。・・・
婦長にそんな保健師はいらないと言われたらどうしよう?・・・
「まあ、そうだったの。今まで黙ってて大変だったでしょう、でも、北山さん、仕事は絶対に止めないでね。もし何かあったら、言ってもらったらいいから」・・・
嬉しかった。

・職場の同僚への告白
上司へは、そうやって、必要に迫られて話したのだが、同僚に話すのは、やはり用心していた。もし話をして、過剰に重く受けとめられ、私を悲劇の主人公のように思われたら、仕事もしづらい。同情されるのも、ごめんだった。話すとしたら、やはり信頼できる人からだった。

・最近、よく思いだす言葉がある。私が中学の頃だった。入学式か卒業式か忘れたが、このときの校長先生が式辞で、「人を助けるより、人に助けられる人間になりなさい」という話をした。人を助ける行為は、とてもよいことに思えるけれど、自分に気持ちさえあればできる。しかし、人に助けられるのは、まわりの人を大事にしている人だ。大事にしない人は助けてもらえない、という意味だった。
 その言葉を聞いたのは一回だけだった、今でもすごく印象に残っている。そして、できれば私も、人に助けれもらえるような人間になりたいなと、いつも願っているのだが・・・。

・HIVに感染したとわかった直後は、これでもう子どもは産めないと、女としての人生は諦めていた。・・・それが主治医の岡先生に、
「子どもは、産もうと思えば産めますよ」
と言われ、諦めは希望に変わった。またセックスも、コンドームなどを使って安全なセックスを心がければ、相手への感染を防げるということもわかった。

・「翔子さんは、心に隙があるから、そういう人を好きになるんじゃないの?」(HIVでも
結婚しようと言っていた彼が、やはりHIVでない方が良いと他に好きな人ができてふられた)
「北山さん、寂しいときは、寂しい気持ちをじっくり噛みしめてみたらいいよ。心に隙があっても、いいじゃない。悲しかったら、悲しい気持ちにどっぷりつかったらいいじゃないの?」
と(カウンセラーが)言ったのだ。
「そうしないと、前へ進めへんのと違う」
横田さんの言葉に、私は思わずうなずいた。・・・
「北山さん、忙しすぎるんじゃないの? だから、じっくり寂しさを味わうこともできないんじゃない?」・・・
「そうだ。ひとりになる時間を作ろう」
・「そうか・・・。なってしまったんもんは、しょうがないしな・それにしても、難儀な病気にかかったもんやな」
母は溜め息をつくようにそう言った。
その間、私と母のやりとりと黙って聞いていた父は、母が会計のために席を離れたのを見はからったかのように、
「あんたもこうして、お父さん、お母さんに話をして、気持ちがすっきりしたやろ。これからは元気出して、頑張りや」・・・
私は父の言葉に思わず涙ぐみそうになった。
・HIV感染者は「ヒト免疫不全ウイルスによる免疫機能障害」として身体障碍者の認定を受けるのだが、それには四段階ある。CDCの数値でいうと、第一級と第二級が200未満、第三級と第四級は500未満、それぞれの症状によって段階がわかれているのだが、申請すると障害の等級などによって自己負担が軽減される制度があり、一、二級の人は、年間、最高で80万から90万円の障害者年金をもらえるようになっている。
 私が申請したのは三級だった。

・この病気になって得たもの
 この病気になるまで私は、死や、生きることについて、あまり考えたことがなかった。もし私が病気にならなかったら、こんなに一生懸命考えなかったかもしれない。命の大切さ、生きていることのありがたさを、これほど感じなかったかもしれない。
 自分のうちに耳を傾け、その声を聞いて今ほど素直に生きられなかったかもしれない。
 人の素晴らしさ、温かさも、それほど感じなかったかもしれない。

・この病気になっても、悪いことばかりではない。得たものもたくさんある・・・。

感想
 HIVのことをよく知っている人でも、ついうっかりすることがあるということです。

ロゴセラピーでは人生の方から問いかけて来ると言います。
その問いかけは過酷な場合もあります。
それに対して、どう受け容れて前を向いて行くかが問われているのでしょう。
それは本来の夢とは違うことかもしれませんが、違う価値を生み出していくのでしょう。
まさに北山翔子さんはその人生を歩まれています。
本を出版したり、講演活動をすることで啓発活動をされています。

彼が子どもを欲しい協力をしてくれ、でも結婚はないが、妊娠しましたが、流産されました。
一人で育てる決意をされていましたが。

まだまだHIVに関する理解が低いようです。
今は薬がよくなっていて、きちんと管理していると寿命まで生きられるようです。
免疫力は薬だけでなく、ヨガなども効果があるようです。