横尾忠則
芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、死について。
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今、一番の関心事は? と問われたら、やっぱり死かな? 老齢になったからそう思うのではなく、子供の頃からこの観念は一貫していたように思う。物心がつくと同時に死は身近にあった。戦争が身近に迫る以前から、自分の存在を脅かしている死は本能的な恐怖を伴って、ジワジワと締めつけてくるように思えた。
幼稚園児だったころ、婦人会の女性達は竹槍を手に敵を殺害する訓練をしていた。日本は神風が吹いて、戦争には絶対勝つと全国民に信じ込ませていた。だったら何も目の前の敵と肉弾戦を交すような訓練などする必要がない、というような判断は幼児の自分には想像もできないことだったが、幼心にすでに人間は死ぬものであるということだけは知っていたように思う。
死の恐怖が迫るのは本土空襲が始まって死がうんと身近になった頃だった。僕の住んでいた山に囲まれた田舎町にある日、米軍のグラマン戦闘機が三機、全校生徒が運動場で朝礼をしている最中に、突然低空で襲って来た。青空いっぱいに黒い鉄の怪獣のカタマリが覆いかぶさったように見えた。僕は学校の校舎の中庭の小さいコンクリートの溝の中に飛び込んで、小さい手で目と耳をふさいで、背後からミシンの縫目のように銃弾が地面に穴を開けながら迫ってくる死の瞬間を超越した時間の中で、死を待っていた。幸いグラマンが校舎の窓をバリバリ震わせながら頭上を去って行った時は、不思議な小さい生の凝縮した瞬間を味わった。死が通過した瞬間の快感だったのだろうか。
このようなフイに訪れる死はその後一度も体験したことがない。幼心に味わわされた死の疑似体験であるが、この瞬間は今も僕の魂の中に永遠に刻印されたままだ。今、僕の前方に見え隠れしている死は、この時の死に比べれば、実に暢気なものだ。年齢的にいつ死んだっておかしくない年齢を漂(さまよ)っているような気がする。
毎朝、最初に見る新聞の記事は死亡記事である。そこには僕の85歳という年齢の前後の人達の死が伝えられている。だからすでに自分は死の範疇(はんちゅう)に入っているのに今日まだ生きているという不思議な実感を伴いながら、ルーシアン(ロシアン)ルーレットの洗礼からまぬがれたことにホッとしているというわけだ。だから毎日が実にスリリングなサプライズを味わっていることになる。
人間が死ぬということは、いっぱい抱えたメンドーくさいことを、そのまま処理しないで放っといたまま死ぬことを夢想することでもある。瀬戸内さんに晩年会う度に、「まだ遺書を書いていないのよ」とよくおっしゃっていた。このままスッと消えると遺書も遺言も書く必要はない。亡くなる直前、瀬戸内さんは、よく、「思い残すことは何もない」ともおっしゃっていたので、ちゃんと遺書だか遺言を残されたんだなあ、と思っていたら、死後、そんなもんは見つからずに、残された人達の宿題になってしまったらしい。
死ぬことはメンドーな問題を放ったらかして、無責任に死ぬことかも知れない。そんな無責任な行為を実践することが「思い残すことがない」と言うことで、たとえ思い残すことがあっても、それは残された者の宿題にしておけ、ということなのかも知れない。自分の死後の問題をいちいち、考えていたらキリがない。死ぬということは無責任になることでもあるらしい。生前、いちいち責任を取りながらどのように生きてきたのか知らないが、そんな責任から逃れることが死なのではないかとも思ったりする。
そう思うと死は解放である。生きることは責任を全うすることなのか? どうかはわからないが、死んでも尚、責任を駱駝が背負った荷物のように、ヘトヘト言いながら、死の旅路にでるなら、死んだ値打ちはない。折角死ぬんだから、空っぽになって死ぬのがいい。抱えた問題を解決するというより、その問題からの執着を解決すれば、それでいいのではないだろうか。とにかく責任を云々する以前に執着から解放される生き方を生きている間に解決しておけばいいということではないのか。執着は問題の解決を実践することではなく、その問題から離れた心的状況の中で生きていることが重要ではないのか?
何ひとつ現世で得た物を持って死ねないんだから、心の執着もないまま死ぬのが天国への近道で、地獄へ行くのは執着がそう決めるのであってエンマ大王が決めるわけではない。自分の中のエンマ大王が決めることではないだろうか。よく「死んだら無心になりたい」と特に知識階層の人達はそう言われるが、もし無心になりたいなら、死んでからなるのではなく、今、今生で無心にならなきゃ、死んでから無心になるのは無理じゃないでしょうか。
と考えると、人間は生きている間に、死んだ気持ちで生きていれば、何も問題はないということではないのかな?
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。
ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
感想;
横尾忠則さんは、西脇高校の先輩です。
西脇高校でもう一人思い出すのは、大島みち子さん「愛と死を見つめて」です。
人口4万人の兵庫県のほぼ真ん中にある小さな市です。
当時の高校は今のところではなく、童子山にあり、自宅から徒歩3分でした。
NHKの朝ドラが終わってから登校し、ホームルーム開始の8時40分には余裕で間に合っていました。
私が卒業した時は普通科が6クラス、家庭科が2クラスの、その地域の唯一の高校でした。
卒業生の6~7割が高校卒業して就職し、大学や短大、専門学校に残りが進んでいました。
大学入学で、東大に1人入り、校長先生がとても喜んでいました。
東大に入学したのが十倉好紀君(東大元教授)でした。
十倉君と3人で校長先生に大学合格の挨拶を行ったときのことです。
経団連の会長の十倉雅和氏は十倉好紀氏の実兄で同じく東大に入りました。
まさに田舎の高校でした。大学進学を目指していた多くは、内職(授業とは関係ない参考書を勉強)していました。
あらためて西脇高校のHPを見たら、部活動で当時入っていた化学部は今もありました。同級生と一緒に立ちあげた将棋同好会は今は将棋・囲碁部として続いていました。
高校卒業後に新しい場所に引っ越した高校に行ったとき、横尾忠則作の絵画が掲示されていました。
大学4年時の教員免許取得のために母校で実習しました。
同級生も何人か教育実習に来ていました。
卒業者名簿を見て、知っていた何人かが亡くなっているのを見て、まさに人生とは?を考えてしまいます。一番親しかった友だちももう20年ほど前に亡くなってしまいました。
田舎にもグラマンが飛んできたことを知りました。
また竹やり訓練をしていたのも知りました。
今もJアラートの避難訓練をしていますが、同じレベルが今も続いているようです。
「もし無心になりたいなら、死んでからなるのではなく、今、今生で無心にならなきゃ、死んでから無心になるのは無理じゃないでしょうか。」
高校の先輩の言葉を心に刻みたいと思いました。