・顕真学院は福井県の芦原町の北潟湖の畔にあった。・・・
一緒に入学した学院生12名だった。・・・
その「姿勢」ってなんだという話なのだが、これは朝夕に唱和する「顕真学院聖則」にその要点が書いてある。
一、我ら学院性は、(高森)会長先生の御指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、我ら学院性は、上司の指示は会長先生の指示と心得ます。
一、我ら学院性は、いかなる場合も仏法最優先とし、破邪顕正に命をかけます。
一、我ら学院性は、常に求道の姿勢を正し、会員の模範となります。
・それ(お布施集め)よりもっと厳しかったのはアニメ頒布で、これは親鸞会制作のアニメビデオ「世界の光親鸞聖人」を、戸別訪問で販売するという活動である。しかし一本1万五千円で全巻セットだと十万円という、高額な宗教アニメを買う人などそうそういうるわけではない。
・いろいろなことがあった。教団の最高幹部が女性問題を起こして、その最高幹部を快く思っていなかった人たちが、それをきっかけに謀反を起こしたこともあった。・・・
親鸞会に批判的な情報が簡単に見られるようになり、脱会者が続出していた。・・・
当時はヤフーとグーグルで「親鸞会」を検索すると、ずらっと親鸞会批判のページが並んだ。私たちはこれを「誹謗サイト」と言っていた。どうしていいのか見当もつかなかったが、とりあえず消せるものは消そうということで、顧問弁護士に相談して書面を作成、コンテンツを削除しないと名誉棄損で訴えますよと、サイト管理者に通達した。
この効果は絶大でだいたいのサイトは閉鎖された。・・・
本当のことを言えば、訴訟になったら一番困るのは親鸞会だ。・・・
つまり親鸞会が名誉棄損で「誹謗サイト」を訴えることが出来るとしたら、前者の社会的問題性を告発するサイトがその対象となるが、それは自分たちのやっている正体隠しの勧誘が、法廷の場で明らかになることを意味する。親鸞会は正体隠しの勧誘など「やってない」というスタンスだ。もっと踏み込んだ言い方をするとしたら、「現場が勝手にやっている」というスタンスだ。しかし実際は教団組織の指示で行われていることくらい、いくつかの証言を集めるだけで、簡単に立証されてしまうだろう。
つまり「名誉棄損で訴えるぞ」と警告しても、「どうぞ訴えてください」と言われたら、親鸞会はなにもできない。だから警告は脅しでしかなかった。警告を受け取ったサイト管理者は冷や汗が出ただろうが、実は警告を出す側も内心はヒヤヒヤだったのである。
・視聴覚担当職員氏は「ジャンヌ」(誹謗サイト)のソースコードを落としてきて、それをちょちょっといじって「ヅャンヌ」と書き換え、内容をごそっと別のものしてネットにアップしていた。「ジャアンヌ」を見に来た人はこの紛らわしいダミーサイトに誘導され、そこには親鸞会のことは一つも悪く書いていない。
私たちはこういうサイトを作りまくった。モラルも何もあったもんじゃない。やりたい放題である。こんなことをしているうちに、「親鸞会」で検索しても誹謗サイトは出て来なくなった。私はかなり評価されて二度も昇格して、さらに特別賞与までいただいてしまった。
・2005年になった。相変わらずインターネット対策に励んでいたが、あるときインターネット掲示板「2ちゃんねる」で「高森顕徹の著作は大沼法竜の書いたもののパクリである」という書き込みを見つけた。・・・。図書室で資料を探していて、一番奥の書棚の上のほうに、分類ラベルの貼られていない見慣れない本が数冊置いてあることに気付いた。・・・
驚いた。そこにあったのはネットで高森会長の本のパクリ元だと言われている、大沼法竜の本だったのだ。・・・
周囲に誰もいないか注意して一読してみると、確かに高森会長の書いた本の一部は「2ちゃんねる」の指摘どおり、大沼法竜の著作のコピーと言われてもしょうがないように思えた。
・そして決定打になったのが次の一冊、西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』だった。・・・
つまり親鸞会で勧誘活動を続けていた私たちは、統一教会に類似したマインド・コントロール的な手法を使っていたにもかかわらず、そうと気づいていなかっただけだったのだ。
・脱会支援においては相手を年齢や環境にもよるが、脱会者を「成人した一人前の人間」として扱うことが極めて大事であると思う。外から見たら宗教に狂っているようにしか見えなかったかもしれないが、真剣に人生を生きて厳しい信仰上の壁を幾度も乗り越えて、その辛い厳しい歩みを最終的に捨てる覚悟で脱会したのである。今思ってもあれは並大抵の決断ではない。そのときの信者の思いは深い敗北感である。
・結局私は、親鸞会はやめたが浄土真宗はやめることが出来なかった。同じ浄土真宗の伝統的教団である真宗大谷派(東本願寺)の末寺の住職をしている。
・日本基督教団の竹迫之牧師は、カルトの定義を反社会性の有無に置くのではなく、「全体主義的な人格変容を組織的恒常的に誘導する団体」と定義すべきだと主張している。・・・。本書ではこれらのことも加味して、カルトを次のように定義したい。
「カルトとは、ある特定の教義や思想、あるいは人物そのものを熱狂的に崇拝する集団であり、その組織的目的を達成するために、詐欺的な手法を用いて勧誘したり、メンバーやメンバー候補者に対して、過度な同調圧力を加えて人格を変容させ、精神的肉体的に隷属させたり、経済的に無理な収奪を行ったりするものをいう。」
・『人生の価値について』西尾幹二著
・小説家の村上春樹は、オウムに入っていった人は小説を熱心に読んだ経験がなく、それで現実とフィクションの区別がつかなかったのではないかと語っている。・・・
これは私の実感と違う、私の場合はオウムの信者に接したことはほとんどなく、その後継団体のアレフの信者・元信者と、私がいた教団である親鸞会の話が中心になるが、彼らは小説を読まなかったどころか、平均的な人たちよりもずっと読んでいたと感じる。
あれ負の場合は教団に入ると小説は読まなくなるのだが、親鸞会の場合は学生の拠点の本棚にはたくさんの小説があり、私自身先輩からよい小説を紹介されむさぼるように読んだ。そもそもオウムに入った人は、アニメやSFが好きな人が多かったと報道されていたが、そこからフィクションと現実との区別がつかなくなってしまったのではないか、という考察は、村上に限らず多くの識者によって語られてきた。
・ナチスが自らの人種的優位性を信じ、ユダヤ人をゲットーに集めて労働力を搾取し、最終解決として皆殺しにしようとしたときに、数十万の勤勉なドイツ人はその理念に従い黙々と「任務」を遂行した。
・カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。・・・。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いと消し去ってくれる。「もう迷わなくていい」のだ。・・・
しかし見かけ上消し去っているだけであって、解決しているわけではない。「カルトの提供する答え」という目隠しをさせられているだけである。なので脱会して信者が元信者となり、いわば目隠しを外されたときに、何一つ問題が解決してないことに気付いて、深刻な空虚感や虚脱感に苦しむケースは多い。
・私は当初「どうしたら自分が本当に救われるか」という思いを持って教団で求道したが、途中でそれが「どうしたら会長先生の御心に叶うことができるか」にすり替わっていることに気づいた。
・東京工業大学の中島岳教授は戦時中の真宗大谷派の戦争協力が、教義理解ろ反することを承知で、時代の要求に屈して「仕方なく」なされたのではなく、むしろ親鸞の教えから戦争協力の論理積極的に見出し、一種の宗教運動そいてなされたことを明らかにしている(『親鸞と日本主義』)。
・オウム真理教家族の会の永岡弘行会長
「体の不自由な人の車イスを押していた優しい若者が、三歳にも満たない幼児の首を絞めて殺害してしまう。凶悪な殺人者が犯罪に走ったのではなく、きれいな心を持った若者がいつしか、そのきれいな心のままで殺人を犯していた。これこそが、オウム事件の最も恐ろしい核心だ。・・・。『きれいな心のままでも人間は人を殺せる』ということは、誰でも条件さえ揃えばそうなり得るということだ。その意味でオウム事件は、誰にとっても他人ごとではない。」
・カルトの信者を見ると、どう考えても真実性の証にならないようなことを、信仰の拠り所にしているように見えるかもしれないが、それは洗脳されて盲信している姿ではない。疑念や悩みを残してもがいている姿が、仮にそういう形を持って外に現れているに過ぎない。
・カルトの見分け方はあるのか
『Q&A 宗教トラブル110番』山口広等著
①伝道に際し、宗教団体の電動であることを隠すなどウソがある。
②信者らに高額のお金を要求する。
③信者らに、宗教団体の代表に対する、絶対的帰依と従属を要求する。
④人類が滅亡する、輪廻転生ができないなど、構成員に恐怖感を執拗にあおる傾向が強く認められる。
⑤信者らが共同生活をしている。
⑥関連会社をもち、信者らにただ働きさせている。
⑦家族からのクレームに関し誠実に対応しない。あるいは平気でウソをつく。
・脱会支援においては、「教団がいかにおかしいか」を知ることも大切だが、信者が「どうしてその教えを求めずにおられなかったのか」を考えることも同じくらい大事なのである。
・スクールカウンセラーをしている友人が言っていた言葉が忘れられない。不登校の問題について話していたときに、彼は「学校に行けないというのは人間としてまっとうで、極めて正常なことだ」と言ったのだ。たくさんの個性のある人たちが同じ空間で画一的な教育を受け、集団で行動することを要求される学校は、「行けなくなって当たり前」だと言う。そして学校に行けない子供に「学校に行かなければ生きていけないぞ」と脅すのをやめろと厳重注意された。そんなことは本人も悩んでいることであって、こちらから言うことではない。逆に「学校に行かなくても人間は生きていける」ということを伝えてあげてほしいと。
・必要なのは私たちがちゃんと迷ってゆらぐことなのだ。真剣に聴こうとすれば相手も真剣に話してくれる。理解したいという思いで聞けば理解してもらおうと思って向き合ってくれる。自分が当たり前に受け入れていた人生観が、揺さぶられるくらいに向き合わなければ対話は成立しない。それはカルトの論理にこちらが立つということではない。「真理」と求めずにおられない人間の思いを理解するということだ。そうして私がちゃんとゆらぐことで、ようやく相手もゆらぐ。信者は自分の言葉が私たちを揺るがしていると気づいたときに、私たちの存在によって揺らぐことが出来る。論破して気付かせるのではなく、信者自身がゆらげるための土台になるのが私たちの役目であるあなたの目の前の信者を洗脳されたロボットとして扱うのではなく、悩んで迷ってきた一人の人間として信頼するということだ。
・脱会後の回復
①「生活の回復」
②「喪失感の回復」
③「正しさ依存からの回復」(脱却)
・どうやって勧誘されるのか
①春の一斉勧誘(新入生がキャンパスに現れる時期)
②通年の個別勧誘
教室や食堂で一人でいたり、一人でキャンパスを歩いている学生に声かけ
③SNSを使った勧誘
・『「カルト」はすぐ隣に-オウムに引き寄せられた若者たち』江川紹子著
感想;
真宗大谷派玄照寺(滋賀県東近江市)住職の瓜生崇氏は親鸞会を脱会された方です。
統一教会関連の本 3冊(本の紹介&友だちの弟が統一教会脱会へ)
1)「愛が偽りに終わるとき」 山崎浩子著
統一教会に入ったこと、脱退したこと
2)「我らの不快な隣人-統一教会から救出されたある女性信者の悲劇-」 米本和弘著書
脱洗脳が上手く行き時と行かない時、韓国で暮らす女性それぞれの人生
3)「Nの肖像 - 統一教会で過ごした日々の記憶-」 仲正 昌樹
統一教会に入会し、ドイツにも派遣され、韓国での集団結婚式にも出たが疑問に思い脱退した金沢大学の教授
1)「愛が偽りに終わるとき」 山崎浩子著
統一教会に入ったこと、脱退したこと
2)「我らの不快な隣人-統一教会から救出されたある女性信者の悲劇-」 米本和弘著書
脱洗脳が上手く行き時と行かない時、韓国で暮らす女性それぞれの人生
3)「Nの肖像 - 統一教会で過ごした日々の記憶-」 仲正 昌樹
統一教会に入会し、ドイツにも派遣され、韓国での集団結婚式にも出たが疑問に思い脱退した金沢大学の教授
前から、宗教に入る方/宗教を学ぶ方は人生なんのために生きているのかを真剣に考えている人が多いのではないかと思っていましたが、この本を読みその考えを強くしました。
ところが入るときにその宗教がどのような宗教で社会からどう評価されているかを知らずに入られている方が多いように思います。
新興宗教の方が勧誘が積極的です。既存宗教はそれに比べると弱いようです。
カルト宗教に誘われて入った人は、振り込め詐欺に遭遇したようなものかもしれません。振り込め詐欺だと騙されてすぐにわかりますが、カルト宗教はそれがなかなかわかり難く、分かった時点では「もう遅い」「この宗教の中でしか生きられないと思い込む」状態の人も多いかもしれません。
無理やり脱会させても、その後やる気をなくしてしまうケースもあるようです。
す。
事前にこのような本を読み、カルト宗教に対する免疫力を高めておくことが、自分がそういう宗教を選択しないよい方法かもしれません。
誘われた宗教によって人生が変わることがなく、自分が選択できる知識と判断力を持ちたいと思いました。
・本当の宗教とは「迷う力」を与えるもの…生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノである まともな宗教とカルト宗教の根本的な違い
・何事にも白黒つけたい人は要注意「これでもう迷わずに生きていけると思った」 ごく普通の人がカルト宗教にハマる怖すぎる瞬間
瓜生 崇真宗大谷派玄照寺住職/PRESIDENT Online