・メメント・モリ
最初に目にしたのは、たぶん高校生の時、森鴎外の文章の中ではなかったか・・・メメント・モリ(死を想え)と括弧して意味も書き添えてあったように思う。
・震災の年の一月、私は家族と別れて、一人暮らしをすることになった。理由は私がろくでなしになってしまったからだ。禄でなし、つまりまったく稼がなくなったのだ。丸二年間、私は一銭も家に金を入れず、無為な日々を過ごした。それでも最初の一年は、自分でもなんとかしなければという思いがあって、鬱の隙間を見つけては原稿用紙に向かったが、腑抜けのようなものしか書けなかった。五枚とか八枚の短い依頼原稿もまともに書けず、あちこちに不義理をしてしまった。私はやけを起こして原稿用紙に向かわなくなり、ふて寝を決め込んだ。あとの一年は、ほとんど横になって過ごしたと言っていい、。この時期の私を指して女房は「寝れ雑巾みたい」と呼んだが、言い得て妙だ。・・・そんな図体ばかり大きな濡れ雑巾がねじけて転がっていると、家の中も段々と陰湿になってくる。鬱は伝染するのだ。働きに出ていた女房と娘も、大学に通っていた息子も、外ではどうなのか知らないけど、家の中ではすっかり口数がすくなくなった。横になっている私からは目を背け、そこにいない者のように扱うようになった。湿った家内の空気は重ったるく、粘り気をおびていて、不健全だった。
「これはもう一緒に暮さない方がいいと思う」
ある時、私が思い切って自ら打ち明けると、
「私もそう思う」
と女房も同意した。だからといって、あなたを見捨てるわけじゃないのよ、ということを彼女はしきりに強調した。
・そこへ十二月、私の腰に激震が走った。
あとになってヘルニアだと分かるのだが、その時は何が起こったのか分からなかった。ただ今までの人生の中で体験したことのない痛みだけがあった。
・ここにあらためて広く訴えたいのだが、アルコールと眠剤の併用は、きわめて危険である。・・・この組み合わせは、最悪の副作用をもたらす。自分が何をやっているのか、分からなくなる。自分を失うのだ。
・私は殺人的なだるさから脱し、動けるようになったばかりだった。そこへアルコールと眠剤二錠を飲んで、女房と口喧嘩したのである。何で頭に血がのぼったのかはわからないが、かっとなった私は、
「分かった。もういい! もうおわりにしてやる!」
そう叫んで、自分の部屋に閉じこもった。・・・
上から三段目にベルトをかけ、金具部分が梯子に当たるように調節し、くるりと後ろを向いて、ベルトに首を引っ掛けた。
「こうだろう。こうするだろう、そして・・・」
梯子から足を外したとたんに、
「あッ!」
目の前が真っ暗になった。
暗転、である。
次に目覚めた時、私は救急治療室のベッドの上にいた。女房や父母、妹までが、全員<森の妖精>みたいな緑色の服を着て、私を取り囲んでいる。
・「みんなスゲえ・・・」
というのが、正直な感想だった。自分みたいな新米の気違いが、何か勘違いしてこんなところに来ちゃって、申し訳ありません、と私は謝りたい気持ちだった。この時点で、私の生っちょろい鬱など、どこかへ吹き飛んでいた。
そんなこんな経緯を手短に話すと、女医は時々くすくす笑いながら、メモを取るのだった。
「その時、処方されたのは、おそらくリタリン・・・」
女医は、独り言のように呟いた。
「でも現在は、鬱病患者にはあまり処方していません。ナルコレプシーや一部の分裂症だったら・・・」
・1997年の夏のことだ。
私は某放送局の依頼でアフリカ、ヨーロッパ、アジアの戦争の傷跡を追って旅していた。・・・
タイとラオスの国境-メコン川のほとりの道を私たちは小走りで急いだ。
「できるだけ道の真ん中を行ってください。端っこにはコブラがいますから!」
前を行くT君が、大声でそういった。・・・
「T君にとって、平和ってどういうこと?」
「平和ですか・・・」
T君は、さあねと考え込み、
「・・・明日がある、ってことじゃないですかね」
と答えた。
・ある著名人が、自分は朝起きたら、まず自分の死ぬところを想像する、と語っているのをテレビで観たことがある。
「こう、瞑想するような感じでね、本気で想像するの。・・・それで、ああ、自分は死んだってことを意識してから、一日を始めるんだよね。これがね、いいんだ。生きているって感じが、すごくするんだ」
正直、私は感心した。
・人は、基本的に”死”を隠そうとする。あらわになるのが怖いのだ。できるだけ”死”には触れないで、生きていこうとする。しかし考えてみれば、そうやって隠そうとするから、怖いのだ。隠そうとしなければ、”死”は怖くなくなる。だから、あらわにする方が、実は生き易いのだ。
本書『メメント・モリ』は、そういう解釈のもとに読んでみると、”死”をあらわにすることによって、”生”をあらわにした作品である。
感想;
筆者は必死に生きているのだが、本が書けなくなり、それは収入がなくなることで、あがけばあがくほど底なし沼に沈んでいくようでした。
鬱になり寝られなくなり、眠剤を飲み、アルコールも飲むことで首つり自殺をしてしまいました。死の直前で助けられたようです。
鬱病を治すはずの薬が、逆に苦しめたりする場合があるようです。
鬱病で苦しんでいて、そして次は薬に苦しめられることがあるようです。
そんな著者だからこそ、『メメント・モリ』をタイトルに書こうと思ったようです。
一般社団法人 日本メメント・モリ協会があるのを知りました。
アルフォンス・デーケン先生が日本に「死生学」を導入されました。
死を忌み嫌うのではなく、死を考えることがより良く生きることであることを伝えて来られました。
そして「生と死を考える会」を立ち上げられました。
デーケン先生の講演を三回聞きに行きました。
ユーモアを交えたとても素晴らしいお話でした。
デーケンス先生の本を何冊か読みました。
ユーモアをとても大切にされていました。
『モリー先生との火曜日』と”メメント・モリ”の紹介を会社の朝礼での話題紹介の当番の時に行いました。
生産本部長から「朝から暗い話だったな」と言われました。
難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されたモリー・シュワルツ教授が、死を前にして、かつての教え子であるミッチに贈った「最後の授業」を記録したものです(ウイキペディアより)。
まさに『モリー先生との火曜日』は”メメント・モリ”に多くのヒントを与えてくれる本でした。
この本『メメント・モリ』は”メメント・モリ”の言葉をあらためて思い出させてくれました。現在のメメント・モリの意味は下記だそうです。
「避けることのできない死という未来があるからこそ今この瞬間を大切に生きることができる」