・中学時代の経験から私なりに学んだことがある。それは、暴力による支配は必ず別の暴力を生み出すということだ。
・「自分より知識のねえ医者のところにどうして俺が来てんのかわかるか? わざわざ長い待ち時間に耐えて、金まで払って病院に来る理由がわかるか?」
圧倒された私は、声の震えを必死でごまかしならら、平静を装って質問した。
「それは、な、なぜですか?」
すると、その患者は不意に声と表情をやわらげてこういった。
「それはな・・・クスリのやめ方を教えて欲しいからだよ」
彼の指摘はまさに正鵠を射ていた。それこそ彼の周囲にいる素人の人たちが無償でやっていることだ。それを同じものを、いやしくも国家資格を持つ専門家が有償で提供してはいけない。
・薬物で逮捕されたり、薬物でおかしくなって人前で大失態を演じてしまったときには深く反省して、しばらくのあいだ断薬します。しかし、なかなか長続きしません。薬物をやめるのは簡単です。難しいのは、やめつづけることです。
・薬物を手放した自分には何も残らないのではないか、あるいは、自分が抜け殻のようになり、この先、ずっと灰色の無味乾燥な人生に耐えなければならないのではないか、と不安になる人もいます。多くの薬物依存者がなかなか薬物を手放す決心がつかないのは、たぶんそのせいです。
ところが、自助グループに行けば、何とか苦しい日々を乗り越えて一年間やめつづけた人、あるいは、三年やめつづけて気持ちにゆとりが出てきた人、さらには10年とか20年やめつづけ、薬物がない生活があたりまえになっている人とも出会うことができます。そこには、近い未来の自分の姿や、遠い未来の自分の姿があります。決して抜け殻になっておらず、苦労しながらも自分らしい人生を楽しみながら、年余にわたってやめつづけることに成功している姿です。そのような未来のイメージは、依存症を抱える私たちに希望を与え、回復への意欲を刺激してくれるのです。
・この(自助グループ)集会のクロージングでのことだった。参加者たちがそれぞれに手をつないで大きな輪にを作り、それから声をあわせてある言葉を読み上げたのである。
「神様、私にお与えください/変えられないものを受け容れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/そして、その二つを見分ける賢さを」
・薬物をやめるヒントは患者のなかにある。その意味では、ダルクという薬物依存者のための民間リハビリ施設にかかわったことも財産になった。
・ある女性患者は、自身が自傷行為をする理由についてこう語った。
「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわかんなくても怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、『痛いのはここなんだ』って自分に言い聞かせることができるんです」・・・
おそらく自傷行為は、「痛みをもって痛みを制する」行為なのだろう。
・『激励禁忌神話の終焉』井原裕著
「うつ病患者を励ましてはいけない」はそうした神話の代表格だろう。
それだけではない。・・・
「統合失調症患者に幻聴や妄想の内容をくりかえし聴いてはいけない」
「患者のリストカットに関心を抱いたり、主治医自ら傷の手当てをしたりしてはいけない」
「悩んでいる患者に対して安易に自殺念慮について質問してはいけない」
いまなお精神科医を縛りつづける神話は残っている。
「患者のトラウマ体験について質問してはいけない」
・薬物依存症や自傷行為といった、これまで私が関心を持って数多く診てきた患者のなかには、自身の身体を改造する者が少なくなったと思う。
・その一方で、さほど深刻な病理性を感じさせない身体改造もあった。それは大雑把に二つのタイプに分類できた。
1)アウトローとして生きることの決意を表明し、自身の強さを誇示するための身体改造だ。
2)さほど顕示的ではない、ささやかな身体改造だ。・・・たとえば一見、真面目そうな会社員の上腕に施されている小さな機械彫りのタトゥ。あるいは、清楚な若い女性の足首に彫り込まれた庁の絵柄のタトゥなどである。
・精神科医であれば誰でも、心の中に自殺した墓標をいくつか抱えているはずだ。
・大切な学びもあった。とりわけ次の二つのことは、自殺という現象を考えるうえでぜったいに無視できない重要な学び出会った、いまでも確信している。
1)本人が真に強く自殺を決意したら、いかなる治療や支援にも限界がある、ということだった。
2)そうはいっても人は最後まで迷っている、ということだった。
・(巨大橋梁の)会社側と何度か意見交換の機会を作ったが、会社の及び腰(2m以上の高さの障壁作成に対する)な態度に押し返され、最終的に、欄干に高さわずか50cmの有刺鉄線の障壁を増設する、というささやかな対策に合意した。・・・
障壁増設から一年後、対策の効果を検証することとなった。すると、予想に反して、50cmの有刺鉄線の効果はてきめんだったのだ。対策以前は年間20人を超えていた橋梁からの飛び降り自殺者数が、障壁を増設した翌年はゼロになった。その後、改めて確認したところ、障壁増設以降、現在までずっと1.2人程度という、急増以前の状態を維持しているという。
・巨大橋梁から飛び降り自殺をする人は、どのような時間帯に、橋梁のどの部分から飛び降りる人がもっとも多いのか、何らかの特定の傾向はあるのかどうかを調べるなかで気がついたことことだった。調べてみると、ほとんど全員が、時間帯は午後10時~午前3時のあいだ、場所については、橋梁の海側に面した部分ではなく、陸側に面した部分の中央付近を選択していたのだ。
要するに、その橋から飛び降りる人の大半は、重油を敷き詰めたようなyルの海に向かってではなく、美しい街の夜景-人間の営みの光の群れ-を眺めながら身を投げていたのである。
・「次回の診察予約をとること自体に治療的な意味があり、予約の有無こそが生ける人と死せる人とを隔てるものなのだ」
・「(薬物を)悪い使い方」する人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ」
・薬物乱用防止教室には苦い思いである。20年ほど前ある中学校から薬物乱用防止教室の講師として依頼を受けた。・・・私は一計を案じた。それは、ダルクの職員をやっていた、薬物依存症からの回復者に私と一緒に登壇してもらい、自身の体験談を話してもらう、というものだった。・・・。
ところが、私の提案は学校側からにべもなく却下されてしまった。理由は、「薬物依存症の回復者がいることを知ると、生徒たちが「薬物にハマっても回復できる」と油断して、薬物に手を出す生徒が出てくるから」というものだった。
・刑罰には三つの機能がある。
「威嚇」;
「悪いことをすると罰を与えられて嫌な思いをするぞ。だから悪いことをやっちゃだめだよ」
「応報」:
「目には目を、歯には歯を」
「再犯防止」
薬物使用者は刑務所により長く、より頻回に入れば入るほど、再犯リスクたがたかまる。
・(ダルクの)施設が建っている通り沿いの家のすべてに、「薬物依存者リハビリ施設断固反対」という貼り紙がされていたのだった。
「ダルクの活動は評価している。しかし、私たちの街には、薬物依存症のリハビリ施設を必要とする人など一人もいない。むしろそんな施設があると、よそから危険な人たちが集まってきて、生活の安全を脅かされる。だから、やめてくれ」
・私は機会を捉えてくりかえしこう主張しなければならない。
「ダメ、ゼッタイ。」では、絶対ダメだ。と。
・『フランドルの冬』加賀乙彦著
・研修医二年目、救急救命センター研修中
救急隊が引き上げたのを確認すると、私は胃洗浄を開始した。・・・
しかし、妙だ。吸引される液体のなかには、少量の食物残差が混じっているだけで、溶けた錠剤の痕跡が見当たらない。・・再度、胃洗浄を試みる。
今度は錠剤が引けた-ただし、四錠はど。
「ん? たったこれだけ?」・・・
救急隊が持ってきた、枕元にあったという鎮痛剤の箱を調べてみた。すると、薬は全部で5箱あったが、いずれも錠剤は大部分は残っているではないか。
この意識障害は急性薬物中毒によるものではないかもしれない。・・・肝機能も正常だった。医意識障害の原因となるような電解質の異常もない。ただ、なぜか白血球が増加し、炎症の存在を示す所見がある。
どういうことだ? 看護師に体温を聴くと、38.8℃だという。昏睡時に吐瀉物を誤嚥して肺炎を起こしたのか? とすると、意識障害は低酸素脳症? だが、血中酸素飽和度は97%、血液は十分に酸素化されている。念のため、胸部レントゲンも確認してみる。肺炎の所見んはない。
ならば発熱の原因は? 髄膜炎か?
首の後ろに手を入れ患者の頭を持ち上げてみる。髄膜炎ならば、頭と一緒に方も浮き上がるくらい頸部が固く案っているはずだが、それもはい。
もう一度、ハンマーを手に膝蓋腱反射を確認した。反射は亢進している。足底をハンマーの鋭利柄で引っ搔くと、足指が開き、足の親指が反り返る、。バレンスキー反射波強陽性だ。もちろn、意識障害であればこの病的な反射がでてもおかしくはないが、単なる過量服薬だけでここまではっきりこの反射がでるのは、ちょっとめずらしい。
この意識障害の原因は一体何のか?
他に考えられるのは脳炎か? だが、その根拠は? 脳せき髄液を調べるか?・・・
顕微鏡の視野には、葉状に分かれた核を特徴とする好中球が多数見えたのだ。
脳炎、それも細菌性の脳炎は! 枕元に鎮痛剤が何箱もあったのは、おそらくこの数日間、本当に頭痛がひどかったからなのだ。
いずれにしても、この小さな脳外科病院ではきちんとした治療はでいない。念のため、抗生物質の点滴は開始しつつも、平行して、大学病院に転院の手はずを進めた。・・・
神経内科医は、「うん、うん」とうなずきながら私の報告を聞いていた。やがて何かを思いついたらしく、超音波検査機を持ち出し、そのプローグを患者の左胸に当てて、心臓の動きを調べ始めた・
「やっぱり弁膜の動きがあやしいね」
神経内科医によれば、おそらく細菌性心内膜炎がまずあって、弁膜にふちょくした細菌の塊が血流に乗って脳に飛び散り、脳炎を起こしたのだろう、とのことだった。・・・
・ベンゾ依存症患者は、「不眠や不安を軽減するために」「抑うつ気分を改善するために」といった意図から、単独で使いはじめているのが特徴だった。
このことは二つの重要な事実を示唆していた。
1)ベンゾ依存症患者は決して「快感」を求めて薬物を乱用しているのではなく、あくまでも「苦痛の緩和」を求めて薬物を乱用している、ということだった。これは、たとえ快感を引き起こさなくても、苦痛緩和の作用さえあれば、人は依存症に罹患しうることを意味する。いや、快感ならば飽きるだろうが、苦痛緩和となると飽きるわけにはいかない。自分が自分でありつづけるためには手放せないものとなる。
2)この「苦痛の緩和」をしてくれる薬物を最初に提供した人物が、しばしば精神科医である、ということだった。事実、私の調査では、ベンゾ依存症患者の84%は、閉山する精神障害の治療を受けるなかで依存症を発症していることがわかっている。
・ベンゾ依存症患者の治療は実に手がかかる。覚せい剤依存症患者の少なくとも倍は手がかかるといってよいだろう。
1)併存する精神障害のせいで、いっさいの精神科治療薬をやめるという選択肢がとれないことだ。
2)入院が必要ということだ。
3)他の医療機関との調整をしなければならないことだ。
・ベンゾ依存症患者は、2000年以降、薬物依存症臨床の場で目立ち始めたが、この世紀の変わり目の年は、精神医学にとってさまざまな分岐点であったと思う。
1)新しい抗うつ薬の登場だ。SSRI、パロキセチン
2)自殺した伝説的なリストカッターとしてブロガー、南条あやのの遺稿集『卒業するまで死にません』が刊行されたことも、個人的に無視できないと感じている。・・・自身の精神科医療ユーザーとしての体験を赤裸々に語り、さまざまな治療薬の服用感を生き生きと語っていた。そのありさまは、「向精神薬ソムリエ」と評したくなるほどであった。
・精神科医のななには、このような医原性の薬物乱用に対して「パーソナリティ障害」という屈辱的なラベリングをもって、責任を患者側に押し付け、さらには、そうした患者を治療から排除するものが少なくなかったことだ。
・「では、お薬を追加しておきますね・・・」
かくして患者は薬物依存症に、そして精神科医は薬物療法依存症になる。
・『ひき裂かれた自己』R・D・レイン著
・こう言い換えてもいい。「困った人」は「困っている人」なのだ、と。だから、国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という「物」に溺愛せざるを得ない、痛みを抱えた「人」への支援が必要なのだ。
その意味で、やはりこれは私なりの挑戦であり、闘いなのだ。そう自覚するに至るまでの彷徨いや雑感をまとめたものが、本書に収載された原稿となっている。
感想;
以前から、すぐに薬を投与する精神科医が多いので、疑問に思っていました。
何か患者が症状を訴えるとお薬が増える。
たくさんのお薬を飲んで、そしてお薬で逆に体調を悪くしている人も多いように思っていました。
また、精神科医がお薬で自分のうつ病を治せずに必死で治し方を求めてよくなり、それを本にされている精神科医も多いです。
お薬は必要な時は必要だと思います。
しかし安易に増やすと医原病になる場合もあります。
お薬の効き目は自分が一番よく分かるのですから、医者任せにせずに、医者とよく話し合うことが必要だと思います。
この本は薬物依存に関心のある方にはお勧めです。