版籍奉還、廃藩置県によって土地を奪われ、支配者の地位から転落した元殿様たち。戊辰戦争で勝者となり新政府の要職も務めた土佐藩主・山内容堂は新政府への鬱憤から酒浸りに。徳川宗家十六代は天皇に信頼される大政治家に。朝敵となった会津藩主・松平容保は日光東照宮の宮司となりひっそりと生きた。多様な元殿様の「その後」のなかから、特に波瀾万丈な人生を送った十四人の元殿様の知られざる生き様を、人気歴史研究家の河合敦先生が紹介する。
目次
第1章 維新の波に抗った若き藩主たち(松平容保(会津藩)―朝敵にされた悲劇の大名
松平定敬(桑名藩)―容保と行動をともにした実の弟
林忠崇(請西藩)―藩主みずからが率先して薩長と戦う
徳川茂承(紀州藩)―敗走した旧幕府軍平をかくまう)
第2章 最後の将軍・徳川慶喜に翻弄された殿様(徳川昭武(水戸藩)―兄慶喜の身を案じた仲の良い弟
松平春嶽(福井藩)―徳川慶喜に裏切られ通しの坂本龍馬の理解者
山内容堂(土佐藩)―晴らせぬ鬱憤を酒で紛らわせる
徳川家達(静岡藩)―幼くして徳川宗家を継いだ十六代目当主)
第3章 育ちの良さを生かして明治に活躍(蜂須賀茂韶(徳島藩)―祖先の不名誉な噂を払拭するために外交官や官僚として活躍
浅野長勲(広島藩)―三人の天皇と心を通わせた最後の大名
岡部長職(岸和田藩)―長年の欧米生活で身についたマイホーム・パパ
上杉茂憲(米沢藩)―沖縄の近代化に尽くそうとした名門藩主
亀井茲監(津和野藩)―国づくりは教育にありを実践)
巻末付録 江戸三百藩「最後の藩主総覧」
・松平春嶽(福井藩主/幕府の政治総裁職)が、松平容保(会津藩主)に京都守護職の就任を打診した。・・・このとき二十代の後半だったが、虚弱な体質であった。それに、給される役料だけでは到底守護職の仕事をまかないきれないことから春嶽の依頼を固辞した。けれども春嶽はあきらめず、わざわざ会津藩邸に赴いて説得したり、哀願する手紙を書いた。
最終的には容保は、京都守護職を引き受ける決断をする。決定打となったのは、春嶽からの手紙だった。そこには、「土津公あらせられ候わば、必ず御受けに相成り申すべきと存じ奉り候」と書かれていた。土津公とは、会津藩祖・保科正之のこと。つまり、「正之公なら、必ず引き受けてくださるでしょう」と記されていたのである。
これが、容保の忠義心に火をつけ、病身をおして同職を拝命をさせたのである。西郷頼母ら家老ははなおも反対したが、容保は家訓第一条を口にした。この瞬間、誰もが口をつぐみ、異をとなえるものは霧散した。第一条が、
「大君(将軍)の義、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(諸藩)の例を以って自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず」
・保科正之は、二代将軍・徳川秀忠の落胤だったが、恐妻家の秀忠は死ぬまで正之を我が子と認知しなかった。その後、三代将軍・家光が、弟である正之の存在を知り、その聡明さに感心して会津28万石の太守に取り立てたのである。正之はこれにいたく感謝し、その恩に報いるべく、このような文言を家訓の冒頭にもってきたのだ。
いずれにせよ、京都守護職に就任した容保は、政争の中心地たる京都において、不逞浪士や尊攘派をよく取り締まった。とくに配下の新選組は、多数の浪士を捕縛した。
ただ、労使の多くは、のちに新政府の主力を構成する長州藩、土佐藩の出身者だったから、会津藩に対する彼らの怨みは、非常に根深いものがあった。
・将軍・慶喜の裏切り
江戸に戻った徳川慶喜は、最初は抗戦を叫んで威勢がよかったが、まもなく恭順の意を示し、新政府に憎まれていた容保を遠ざけた。ひどい話だ。
・そうした事情もあって、容保がいくら新政府に平身低頭して謝罪しても、それが受け入れられることはなく、慶応四年八月末、新政府軍が会津領になだれ込んできた。
・容保は、長さ20cmほどの竹筒を肌身離さず持っていたが、死後、それを開けると、なかから孝明天皇の御宸翰(直筆書簡)と御製(自作の和歌)が出てきた。一通は、容保が文久三年(1863年)の8月18日の政変で尊攘派を朝廷から駆逐したときに賜った宸筆だった。孝明天皇は過激な尊攘派を嫌い、公武合体政策を支持していたから、以下のような文章が記されていた。
「憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也」そう容保を讃え、箱に入った和歌二首を贈ったのだ。
「私は朝敵ではない、世間が何と言おうが、天に恥じることはない。亡き孝明天皇が最もご信頼くださったのはこの私なのだから」
もちろん容保は、生前そのような弁明をする人ではなかった。ただ、この言葉を心の糧に後半生を生き、そして静かに逝った。それが、会津武士の生き方だからである。
・幻の徳川内閣
そうした徳川家達(徳川宗家を継いだ16代目当主/静岡藩主)に対し、いよいよその政治的手腕が期待されるようになり、大正三年(1914年)、にわかに徳川家達に対し、「内閣を組織するように」との大命降下がなされたのである。かつて朝敵となった徳川家が、新政府のトップの地位に立つというのだから、数少ない幕臣の生き残りたちは、おそらく感無量だったことだろう。
だが家達は一族と相談のうえ、「私は総理の器ではない」として正式に辞退した。
・留学生の派遣
沖縄を去るにあたり、上杉茂憲(元米沢藩主)は奨学金として三千円を沖縄県に寄付した。これは当時としては破格な金額であった。
茂憲は在職中(沖縄県令)、初めて県費で東京へ留学生を派遣している。太田朝敷、岸本賀昌、高嶺朝教、山口全述、謝花昇の五名であった。
彼らはのちに衆議院議員、首里市長、沖縄県最初の新聞『琉球新報』の創刊、沖縄共立銀行頭取など、沖縄県の近代化をになう逸材に育った。とくに農民出身だった謝花昇は、茂憲の意思を継ぐかのように、農政改革や自由民権運動、参政権獲得運動を展開した。
・亀井茲監(津和野藩主)は、猛然と藩政改革に取り組んだ。なかでも教育分野を改革の最重要課題と位置づけた。天保十四年(1843年)、有能な藩士を江戸や大阪へ遊学させて、一流の学問を身につけさせた。これまでの重臣に限らず、武士としては身分の軽い藩医、さらには町医者の子も遊学生のなかに含まれた。思い切った人材抜擢だ。
弘化四年(1847年)、茲監(これみ)は藩校「養老館」が独立運営できるように一万両の教育基金をひねり出した。・・・
教育方針として
「国体を重んずるを以って基礎をなし、人材を挙げて古学を復興し、敬神尚武を本として大いに藩政を改革せんとする」
感想;
孝明天皇が急死しなければ、生きながらえていたら、明治維新は違った形になっていたでしょう。
なにより、会津藩が朝敵として新政府に攻撃されることはなかったです。
いくら会津藩が謝罪しても、長州藩が許してくれなかったのです。
長州藩の一番の秀才、久坂玄瑞が禁門の変(蛤御門の変)で亡くなった怨みが強かったのでしょう。
京都の警備をしていた会津藩に怨みが集中したようです。
薩摩藩もその時は長州藩と敵対していたのですが。
人材育成を行った藩主や県令、それが未来を創っています。
岸田首相はそれをやっておられるでしょうか?
「えっ、安倍元首相も、菅前首相もしてこなかったから、私だけ責めないで!」
との声も聞こえて来そうです。
日本の未来は暗いです。涙