幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

ナッツ・リターン事件初公判、検察と争う姿勢示す(大韓航空) 上司の命令に背いて犯罪を行わなかったら

2015-01-21 00:34:59 | 社会
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2398219.html
大韓航空の、いわゆる「ナッツ・リターン事件」の初公判が開かれ、起訴された前副社長のチョ・ヒョンア被告側は検察側と全面的に争う姿勢を示しました。
 チョ被告は、ニューヨークを出発する大韓航空機内で、ナッツを袋のまま出されたことに激怒して動き出していた機体を引き返させ、
機内サービス責任者を降ろしたことが航空保安法違反などの罪に問われています。

初公判で検察側は、チョ被告が航路を変更させたのは航空保安法違反にあたると指摘。
さらに、暴行や暴言で安全運航を妨害し、事件の発覚後は証拠隠滅を図ったと主張しました。
 これに対して、弁護側は、飛行機は17メートル動いていただけで航路変更ではないと反論しました。
また、被告の言動は飛行機の運航を妨げるほどではなかったと主張し、裁判で争っていく姿勢を示しました。

感想;
前副社長が従来から、酷い言動/行動があり、副社長が飛行機に乗る時は、特別のベテランを配備していたそうです。
内部の人の匿名での告発では、今回の件はたまたま外部に公になっただけとのことです。
一番重い罪は、航空法で航路に入っているのを戻させたかどうかだそうです。
被告側は、飛行機が動いていたとの認識はなかった。戻ったのは機長の判断だと主張しているとのことです。

この問題は、二つの課題があるように思いました。
1)前副社長に言えなかった。上に対して問題点を言える状況でなかった。
2)前副社長が命令した場合、法律に反してまで命令に従い、法違反を行った。
皆さんが命令された従業員の立場だったらどうでしょう?苦渋の判断でしょう。

戦後の東京裁判で、上司の命令で捕虜を殺害した兵士が処刑されました。軍部では上司の命令は絶対服従でした。
服従しなかったらどうなったでしょうか?銃殺刑に処されるかもしれません。

ただ、上司の命令であっても、違反をすると違反した人も同罪になってしまいます。
上司と法、とどちらが優先かと言えば、法遵守だとはわかっているはずですが。

ただ。そのような状況でどうするかは難しいです。
前社長に従わなければ左遷あるいは退職なのかもしれません。
大韓航空では、幹部もNoと言えなかったのでしょう。

中国の古事を思い出しました。
貞観政要のリーダー学」  守屋 洋著
直言を聞く上司に問題起こらず
大事は皆小事より起こる
太宗(唐の二代目名君)が貞観六年、側近の者に語った。
あの孔子が、『国が危難に陥って滅びそうだというのに、だれも救おうとしない。これでは、なんのための重臣なのか』と語っている。
まことに臣下たる者は、君臣の義として、君主に過ちがあれば、これを正さなければならない。
わたしはかつて書を繙(ひもと)いたとき、夏の桀王が直言の士、関竜逢を殺し、漢の景帝が忠臣の晁錯を誅殺したくだりまでくると、
いつも読みかけの書を閉じて、しばし嘆息したものだった。どうかそちたちは、おのれの信ずるところをはばからず直言し、政治の誤りを正してほしい。
わたしの意向に逆らったからといって、みだりに罰しないことを、あらためて申し渡しておく。

ところで、近ごろ、朝廷で政務を決裁するとき、法令違反に気づくことがある。
この程度のことは小事だとして、あえて見逃しているのであろうが、およそ天下の大事はすべてこのような小事に起因しているのである。
小事だからといって捨ておけば、大事が起こったときには、もはや手のつけようががない。
国家が傾くのも、すべてこれが原因である。隋の煬帝は暴虐の限りを尽くしたあげく、匹犬の手にかかって殺されたが、それを聞いても嘆き悲しんだ者はいなかったという。
どうかそちたちは、わたしに煬帝の二の舞いをさせないでほしい。わたしもまた、そちたちに忠なるが故に誅殺された関竜逢や晃錯の二の舞いはさせないつもりである。
こうして君臣ともに終りをよくするなら、なんと素晴らしいことではないか。

歴史を学ぶとは、まさに経営のトップに立つ者が、謙虚な姿勢で経営に望むことと、古典からも学ぶことが必要なのでしょう。
前副社長は経営の神髄を学ぶことを行って来なかったツケを今味わっているのではないでしょうか。これからどうするかなのだと思います。


勝田 茅生 ロゴセラピー入門ゼミナールより 「17回の失敗」 ”可能性を信じることが力を生みだす”

2015-01-20 02:33:12 | 生き方/考え方
ゼミナールに参加しました。そのテキストにとてもよいケースが紹介されていました。
ロゴセラピーはヴィクトル・フランクルが始めたセラピーです。
オーストラリアの精神科医でナチスの強制収容所での体験記「夜と霧」が世界でよく読まれている書物の10冊に取り上げられています。
それでも人生にYesと言う  ヴィクトル・フランクルはウィーンの精神科医でしたが、ナチスの強制収容所で死の隣で生きる希望を失わなわずに耐え忍びました。
収容所でチフスにも感染しましたが、ロゴセラピーを残さないといけないとの執念でチフスに立ち向かいました。
ロゴセラピーはヴィクトル・フランクルが自ら実践し、そのロゴセラピーの効果を自ら確認しました。
ロゴセラピーは、精神 ⇔ 心(感情/気持ち) + 身体 と、心と身体の上位に精神があると考えます。
心と身体が病んでいても精神が病んでいなければ、その人は健全な状態にいて生きる目的を持っています。
自分から人生の意味を見出すと言うより、”人生”が自分に意味を尋ねて来ると考えます。
どんな過酷な状況の中でも意味/価値を見出すことができると説明しています。
価値には、①創造価値、②体験価値、③態度価値があります。


このケースでは、この青年は社会復帰はもう無理と誰もが諦めていました。本人も自分はダメだと諦めていました。
ロゴセラピストがこの青年を信じたことで、青年はチャレンジを続けました。
人は信じてくれる人がいると頑張れるのでしょう。どんな過酷な状況でも意味/価値を見出すことができると信じることが必要なのです。

「17回の失敗」 
 18歳になる若者が仕事を始めるたびに、そのつど数か月か数週間後に自分から辞めてしまうか、あるいはきちんと仕事をしないという理由で解雇された。この青年は自分が規則的な仕事に耐えられないと思い込んでいたので、自分の絶望的な状況にかなり苦しんでいた。

13回目の試みの後で、青年保護局は青年の生活態度を改善できるかどうか探るために、彼を私のもとに寄こした。それと同時に、青年の家族状況が祖父母の代に至るまで非常に詳しく記録されている参考情報の分厚い書類も届いた。それによると母親は「節操のない放埓な女性」で、未婚でこの青年を出産した。さらにその後何人かの男性との間に10人の子どもを作ったが、その父親の何人かは誰だったかも覚えていないということだ。
青年自身は親戚、祖母、養育の親など、まったく異なる教育方針を持つ人たちの間をたらいまわしにされ、規則正しい生活のリズムや家族のいこいの場などをほとんど知らないで育ってきた。泥酔して暴力を振う男たちが時折家に入り込み、そのような時には家人はこの子を寝床から引きずり出して地下室に隠したが、時によるとそのままでしばらく忘れられていたこともあった。

 最後に少年保護係りがこの子を養育者に引き渡した。養育を買って出た両親は一生懸命世話をしたが、あまりにも手がかかりすぎてよく喧嘩になった。養育者はこの子が宿題をきちんとやらないというので厳しく叱ってしつけようとした。自分の子どもの学校成績は良好なので、そんなことは考えられなかったのだ。青年は2回家出をしたが、それほど遠くへは行かなかったデパートで窃盗したり、動物を虐待したり、よその人の自転車を壊したり、というような小さな犯罪をたびたび起こした。
そして何度目かに仕事場を辞めさせられたときに、養育の親は彼の面倒は見られないと申し出た。それからというもの状況はますますひどくなり、青年はあちこちで短期間のパートをしてきたが、それが仕事に対するアレルギーとやる気のなさに拍車をかけることになった。

 そもそもこの書類を読みとおした時に、私はこの青年を社会復帰させるチャンスはどう考えても皆無だということを宣言すべきだったのかもしれない。けれども私はこの青年がやってきた時に正面からぶつかって行った。私は、『もう誰もおそらく、あなたが生活態度を改善して普通の生活ができるようになるとは信じてくれないでしょう。それはなぜだか分かりますか?あなた自身がそれを諦めてしまったからなのです』ときっぱり言った。
『けれども』と、私は続けた。『私は諦めません』。私は彼の目の前で書類のファイルをパタンと閉じ、『この中に書いてあることはもう全部忘れました。最初から始めましょう。あたかもあなたの前にすべての可能性が広がっているかのように。あなたが小さい時に、頼まれたことをきちんと処理することや、勉強を規則正しく続けてやることや、多少辛いことでも我慢してやり遂げるというようなことを学ばなかったのならば、今、自分でそれを学ばなくてはならない時が来たのです。そして今までの失敗を「授業料」だとみることにしましょう。他の人たちは、親の義務教育や模範から多くのことを学ぶわけですが、あなたの場合は、自分自身の失敗からそれを学ぶわけです。もしその学習コースが終わったなら、そこであなたは初めて、辛いことでも耐えなくてならないという意味を理解するわけです。だから、今ここであなたが人生を本当に新しく始めるために、何としてもすべての力を束ねてぶつからなくてはなりません。私はなたなにはきっとそれができるだろうと思っています。』

 この青年は私の考えを受け容れてくれた。生まれて初めて誰かが、『君はそれができる、君にはチャンスがある』、と言ってくれたのだ。この人は次の仕事、玩具店のパートを始め、自分でがんばろうと意気込んだ、店の主人は青年が品物を売る時に客への対応がぎくしゃくしているという理由で不満だった。これは14回目の試みだった。
17回目の失敗の後でこの青年はもう本当に諦めようとしていた。私はもう一度だけ新しい仕事を始めてみるように勇気付けた。それは花屋のパートだった。彼は花を店の外にだし、車から花を下ろし、時折は園芸場で植え替えなどを手伝った。誰も信じないかもしれないが、青年は今でもまだそこで働いているのだ。そしてうまく行ったら、新しい園芸場で実習を始める可能性も出て来たそうだ。青年は自分が成功したことを非常に誇りに思っていて、市の成人教育施設で国語の書き方の講習を始め、それも今まで続いているのだという。

ピーター・フランクルさんを大宮駅(埼玉)で見かけました 友達関係を維持する

2015-01-19 03:00:34 | 生き方/考え方
大宮駅でピーター・フランクルさんを見かけました。ジャグリングの荷物(ケース)を持っておられたので、どこかで講演あるいはジャグリングを披露されたのでしょう。
前に講演を聞いてことがあります。、ジャグリングも見せていただきました。その時のケースと同じでした。
友達ち関係を維持するために、わざわざヨーロッパまで逢いにいくと言われていました。
友達と一緒にいる時間を意図して創ることが友達関係を維持する上では必要だと話され、実践されていました。

人と親しくなる、そのためには一緒にいる時間、何かを共有する時間、共有する出来事があるのが、繋がりを持つことになるように思います。
学生時代の友達に何十年ぶりに会っても、学生時代の気持、関係に戻れます。
それは学生時代に一緒にいた時間が充分あったからだと思います。
秘密を共有すると親しくなる場合も多いと思います。

ピーター・フランクルさんはユダヤ系で、お父さんは銃殺される寸前だったそうです。
ユダヤ人が捕まえられ、銃殺される時、その時の責任者がチェスが好きで、「誰かチェスができるやつはいないか?」と言われ、
お父さんは申し出て、チェスの相手になったそうです。
お父さんは考えました。チェスが早く終わると銃殺される。また勝っても銃殺される。意図的に負けるのも見え見えでよくない。
そこで相手の力量に合わせて、ゲームを盛り上げながら長引かせました。
ゲーム中に銃殺はどんどんされていきます。ゲームが終わった時、銃殺が終わっていました。
部下が責任者に「このユダヤ人はどうしましょうか?」と尋ねたところ、「放出せよ」と言われ、いのちが救われました。

最近、TVで見かけないので、どうされているのかなと時々思っていましたが、お元気そうで良かったです。

杞憂(きゆう) 将来を心配することで今を無駄にしている

2015-01-18 02:04:51 | 生き方/考え方
出典は『列子』の天瑞篇にある寓話です。杞憂

杞(き)は、周の武王が殷をほろぼしたとき、
夏(か)の禹王の子孫の東楼公(とうろうこう)を封(ほう)じて禹の祭事をおこなわせた小国で、
今の河南省杞県がその故都である。

その杞の国に、もし天が落ち地が崩れたなら身の置きどころがなくなるだろうと心配して、
夜も眠れず食べ物ものどにとおらずにいる男がいた。

すると、その男が心配していることをさらに心配する男がいて、出かけていっていいきかせた。

「天というものは気の積み重なったものにすぎない。気はどこにでもあるものだ。」
人が体をまげたりのばしたり、息を吸ったり吐いたりするのは、
みんな一日中、天の中でやっていることだ。どうしてその天が落ちてくるなどと心配するのかね」
「天がほんとうに気の積み重なったものなら、日や月や星は落ちてくるだろう」
「日や月や星もやはり気の積み重なりで、その中のかがやきを持ったものにすぎないのだ。
だからたとえ、落ちてきたとしても、あたって人にけがをさせるというようなものではない」
「地が崩れたらどうしよう」
「地というものは土の積み重なったものにすぎない。
土は四方にみちふさがっていて、どこにでもあるものだ。
人が歩いたり踏(ふ)みつけたりするのは、みんな一日中、地の上でやっていることなのだ。
どうしてその地が崩れるなどと心配するのかね」

心配していた男は釈然としておおいによろこんだ。
それを見るといいきかせた男もおおいによろこんだ。

この寓話のあとには、さらに、古(いにしえ)の長廬子(ちょうろし)という賢人がこの話をきいて、
「天地がくずれはしないかと心配するのは、あまりにもさきの心配をしすぎるといわなければならないが、
くずれないと断言することもまた正しいことではない」といったという話を付し、
そして列子の、「天地がくずれようとくずれまいと、そんなことに心をみだされない無心の境地が大切なのだ」
という言葉で結ばれている。

この寓話から、無用の心配をすること、取り越し苦労をすることを「杞憂」といい、
それをたとえて「杞人(きじん)の憂い」「杞人天を憂う」などともいう。

『中国の故事と名言五〇〇選』(平凡社版)


同じ事象でも、どうみるかで不安にもなり、不安にもなりません。
将来を心配するあまり、今為すべきことがおろそかになることがあります。
将来は今の結果ですから、今をおろそかにすると言うことは、将来の不安を高めていることにもなります。
蟻とキリギリスの話がありますが、キリギリスは演奏して周りを楽しませています。
働かずに将来を心配する蟻、演奏して周りを楽しませることをせずに将来を心配するキリギリスになっているのではないでしょうか。





ストレスを感じる時 睡眠の質でストレスの判断/眠れない時の対処 

2015-01-17 03:54:55 | 生き方/考え方
皆さんはどんなときにストレスを感じられますか?

私は睡眠の深さでストレスを受けているかを感じます。
やはり心配事や気になることがあるといつも起きる時間より早めに目が覚めたりします。
そういう時は、やはり心に気になることがあるのだと思います。

気になることがあるのはよくないと思うよりも、自分は気にしていないつもりでもやはり気になっているんだなとそのまま受け止めるようにしています。

寝ようと思うと寝られません。あがらないように思うとあがります。失敗しないように思うと失敗します。
不思議なもので、気にすれば気にするほど、そのことから心が離れません。
本当に気持ちは自分の気持ちなのになかなかコントロールが難しいです。

精神科医が「寝られない時は寝ようと思わないことです」と講演で話されていました。
身体を休めているだけでかなり休まるものだ」と。
それを聞いてから、そう思うようにしたら、知らないうちに寝ていることが多くなりました。
寝ようと羊を数えるより、楽しいことを思い出すようにしています。
自分に暗示をかけることがよい。暗示のかけ方は、寝るときに自分は***だと言う。
朝起きるときにも自分は***だと言う。
このようにブログに掲載しているのも、自分への暗示のように思っています。

米国のオリンピック選手のメンタルを指導されている方の本に、
失敗しないように思うと失敗する。これは失敗しないという結果を思うからだ。
 結果を考えるより、今だけを考えて行動する
」とありました。
結果を思うよりも、今此処でやるべきことを考えてそれをやるだけ。その連続が結果であると。

最近読んだ本より、心に残った言葉を書き出しました。

熊沢番山
「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん」
「さしあたる その事のみを ただ思え 過去は及ばず 未来知られず」

宮本武蔵
「 私は自分を強いともまた弱いとも思ったことがない ただどんな相手にも渾身の力を振るうだけのことだ」

華厳経から「心は巧みな絵師のごとく 種々の五陰を描く」

ウィキペディアより

四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。

根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、
 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
 怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
 求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。

五蘊(人間の肉体と精神)が思うようにならないとあります。
きっと思うようにしようと思う心が邪魔をするのでしょう。
自分の心によい絵を描きたいものです。