・恋がうまくいかない場合は最悪。「誰にも愛してもらえない私は、人間的な魅力に欠けるのかしら」なんて考え始めたが最後、仕事に生きる人間としても、ひとりの女性としても中途半端な自分に嫌気がさしてしまうのが、三十歳前後の落とし穴かもしれない。客観的に見ると、仕事も成功しているし、羨ましい程美しい女性なのに、好きな男性ひとりに認めてもらえなかったことで自分の全存在を否定されたような落ち込み方をして、最悪の場合、自殺を計るといったケースを耳にしては、やり切れなく哀しい気分になってしまう。
いずれにしても、女性が恋人の口から聞き出したがる「愛してるヨ」のひと言は、自信を持って生きる為の精神安定剤なんだと思う。
・「とうとう家を出られる。親から離れられる」
大学進学を考えなければならなくなったとき、まっさきに私はこう思った。
私の母はけっこう厳しい人で、中学、高校時代は目をかすめて遊びに行くようなことばかりしていた。
・出てきたのは、私の日記帳。「×月×日、彼と朝まで一緒にいた」などと、日々のスケジュールがありのままに書いてある。・・・(両親に見つかる)
こうしてまたまた、(下宿暮らしから)往復六時間通学の生活が(再び)始まった。
・女子寮の住人は、ほとんどが教育学部の学生、神戸大学の教育学部には、もうひとつワーストワンの汚名があって、教員試験合格率で連続して何年も全国最下位、とうとう1991年に教育学部は廃止となってしまった。
勉強はしないわ、男遊びはするわ、教員試験は受からないわでワーストワンに輝いたというのに、そうとは知らない母と私は、女子寮なんだからマジメにお互いに切磋琢磨して勉強に励む者と思い込んでいた。
・(公務員試験の他に)何か滑り止めがほしいと思っていた時期に、たまたま目に入ったのが、大学の廊下に張り出された松下経営塾の塾生募集のポスター。松下幸之助を囲んで経営幹部を育てる学校だと思っていた。その程度の認識だった。
・合格した後で教えられたのだが、あの面接の目的は「運と愛嬌」を見分けるためのものだった。・・・
ポライド写真は、その晩、幸之助さんの部屋のベッドに並べられ、愛嬌のありそうな順に「コイツとコイツとコイツ・・・」と指さされ、最終合格者が決定された。
人生何が幸いするかわからない。・・・
三次試験の数日前、・・・そしてもう一言(父から)、
「お前な、松下さんに会うんだったら、とにかく、運の良さそうな顔をしろよ」
・政経塾に入ることが決まってから卒業式までの約半年間は、彼との愛の生活に、どっぷり。
夏の暑さも冬の寒さもひしひしと感じられるような、彼のボロ下宿に入びたった。暑くてもクーラーはないし、他にしのぐ方法がない。二人して毛布にくるまり、汗をダラダラ流して、ギリギリ限界まで暑さに耐えて、頂点に達したときに扇風機をひゅーっと回す。そのときの涼しいこと、涼しいこと。
・訪問販売だけで二か月に200万円売れという。200万円売れなければ塾を辞めてもらう可能性もあるとほのめかされたりした。・・・
苦しんだ末に私も知恵を絞った。ドアを開けてもらうための作戦だ。カタログと一緒に蛍光灯と電球と電池を袋に持てるだけ詰め込んだ。
「どこか蛍光灯はきれていませんか? 電池は間に合っていますか?」などとインタホンで尋ねると、どこの家でも何かしら引っ掛かるものがある。
「あら、ちょうどよかった」で、ドアが開く。「じゃあ私、つけて差し上げます」と、家に上がり込む。家中パパッーと見回し、ああ、クーラーが一台じゃ足りなそうだ、洗濯機が旧式でくたびれているなどとチェエク。何を売りつけようかと考える。
その場は「ありがとうございました」と言ってひとまず退散。一歩門から出たら、見てきたことをメモに書いて、次に何のカタログを持って行くか作戦を練る。
その後、何度も何度緒足を運んでいるうちに、「まあ、上がってお茶でも飲んで生きなさい」と言われるようになればしめたもの。
最後は「あなたのお人柄で買ってあげよう」一所懸命やっているあなたの姿に打たれたから、買ってあげよう」ということになってくる。
結果的に二百数十万円。思った以上に売れてクビがつながった。
数年たって、あの研修の意味がわかった。選挙の時の戸別訪問の練習だった。・・・
昭和62年の地方統一選挙では、私も立候補した先輩のために、連日100軒以上の家庭を訪ね歩いたが、犬に噛まれようが、インタホン越しに怒鳴られようが苦にならなかった。
・今度は工場へ放り込まれた。「日本経済の第一線で働く人々の気持ちがわかる政治家になれ」と。私はカラーテレビの組み立てラインで若い女の子たちと一緒に働くことになった。
私は甘かった。工場なんて、モノを売る仕事よりもさらにずっと気楽だろう。ラインの向こうから流れてくるのを次々とさばくだけで、難しいことは何も考えなくていいのだからと。
とんでもない誤解だった。朝から晩まで同じことを繰り返すのがどんなに苦痛か。休憩から次の休憩までの30分間がどんなに長いか。8時間労働がどんなに長いか。私は身を以て学んだ。同じ時間を測るにも、別のモノサシがあると思った。
その上、最初の二週間は私だけ孤立して辛かった。他の女の子たちが仲間にいれてくれない。わざとおちゃらけて親しげに近寄っていっても、知らん顔。
「あなたはどうせ二か月で帰るんでしょう。エリート様なんでしょう」
冷たい視線は私にそう語っていた。
でも、耳をそばだてて彼女たちの話を聞いていると、そこには私の中学校、高校時代の世界があった。昨日の夜ね、男の子たちと車にハコ乗りして遊びに行ってサ・・・。それは、私がいちばん好きだった懐かしい世界。
そのうちに音楽やバイクの話になると、私も我慢できなくて自然に入っていって一緒にキャッキャと盛り上がっているうちに、仲良しになってしまった。
・100キロ歩いて厳寒に耐えた極限体験
12月のある日、夜の12時に熟を出発して三浦半島を一周して戻ってくる、恒例のノンストップ100キロ歩きが敢行された。
「お前、体力ありそうだから持てよ」と、自分のおにぎりを全部私に持たせた。
意地悪のつもりだったのだろうが、これが私に幸いした。彼らとは途中ではぐれてしまったので、よし、食料は全部私がもらってやれと。その夜のうちに15個くらいのおにぎりを食べてエネルギーを蓄えた。・・・
おかげ予想外の好成績。二位でゴールした。
・再びハードな勉強のシーズンをはさみ、翌年の二月、世にも恐ろしい実習を体験することになった。氷点下の世界、三浦海岸の海からの冷たい替えが吹き上げる崖の上で、ビバークするのだ。
塾生は寝袋一つと飯盒いっぱいの水だけを与えられ、1キロずつ離れて置かれ、三日三晩をその場でしのぐ。風に吹き飛ばされて崖から海へ落ちないようにと、近くの気に寝袋をつなぎとめて。・・・用を足したら落葉か雪で拭けと言う。誰も見ていないだから。
そうは言っても、昼間はできない。夜、暗くて寒い中に置き出していくのは勇気がいった。穴を掘ってお尻を出すなんて、すごく悲しくて寒くて。
とにかく寒いなんてものではなかった。
・二年目を終えること、政経塾の同期生は半分に減ってしまった。卒業までこぎつけたのは、同期14人のうち5人だけ。一つ上の期は18人入って4人しか卒業していない。
・政経塾の最初の二年間はいわば基本コースで、厳しいながらも与えられたカリキュラムを消化するだけ。後の三年間は自分自身で研修プログラムを組み立ててやり遂げなければならない。確たる目的もなく、気持ちがグラついている人は、2年から3年に進むときに脱落してしまう。
・政治活動には私たちの税金が使われているのだ。もっと政治がマシにならなければ、私たちは快適な暮らしができない。日本経済だっていまは好調だが、悪くあり始めたときに政治がしっかりとしていないと、日本の繁栄は終わってしまう。政治を正すために私の一生を賭けてもいい。
・私が最初の研修先として選んだのは、自治省の地域活性化センターだった。・・・
実をいうと、職場の女の子たちとの関係は最初は最悪だった。
この職場では女性は全員アルバイト。女性の仕事はワープロ打ち、コピー取り、お茶くみに限られていた。
松下政経塾の研修生として来ている私は、いわば総合職的な身分。他の男性職員と同様の業務に専念し、雑用は一切しなくてよいということだった。・・・
ワープロ打ちもコピー取りも頼めず、全部自分でやるとなれば、男性と同じ仕事量をこなすのは物理的に不可能である。
困り果てて奈良の母に電話で相談したところ、すぐさま三つのアドバイスが返ってきた。
①明日から朝は一時間早く出勤してお湯を沸かし、お茶碗を全部洗うこと、
②朝一番のお茶いれをすること。ただし、自分でするのは男性に見えない場所でお茶を入れるところまでで、運ぶ作業は他の女性ににやってもらう。
③お昼ご飯は必ず女の子と一緒に食べること。男性職員に誘われても断らなければならない。
・・・
だんだんと会話の中にも入っていけるようになり、化粧品やファッションや男の子の話に花を咲かすランチタイムが待ち遠しいほどになった。
こうして三か月も経つころには、いつの間にかオフィスは、私にとってとても居心地の良い場所となっていた。
・私は、シュローダー議員への強力なコネクションを見つけるために、残暑にうだる9月の永田町を汗びっしょりになって走り回った。
「どなたか、民主党議員に知り合いのいらっしゃる先生はおられませんか」・・・
民主党の顧問弁護士であるヘイル氏が来日中であると聞き、さっそく訪ねて行った。彼はシュローダー議員のだんなさまである弁護士のジム・シュローダーと法律大学院で同級生だったという。
「実現は難しいと思うが、ジムに君のことを紹介するテレックスを入れておこう」・・・
ある日、アメリカ大使館のあるセクションに電話したところ、シュローダーはついさっき、大統領選挙から手を引く声明を出したとしらされた。CNNで彼女が泣いている大写しのシーンを見て、私は目の前が真っ暗になった。
当分は忙しくて私のことどころではないだろう。でも、それでもまだあきらめられず、これで最後と思ってシュローダーに電報を打った。
「さぞ悔しいことでしょう。でも、あなたは次の大統領選挙があります。私は変わらずあなたを尊敬しています。あなたのそばでお手伝いをさせてください」
翌朝、ヘイル弁護士の事務所を通じてファックスが転送されてきた。
「ありがとう、サナエ。とにかく、こちらへ来てみてください――パット・シュローダー」
周囲にあきられながら、あれよあれよという間に、私はワシントン行の機上の人となった。
・シュローダー議員の事務所へいくことが決まったのはうれしかったけれど、同時にそれは私にとって悲しい別れを意味していた。
一日も顔を見ずにはいられないくらい好きだった彼との別れ。・・・
なぜか私の人生の節目節目にはオトコとの別れがある。最初は大学を卒業するときの、「毛布の彼氏」との別れ、そして二度目がこのアメリカ行きのときの別れ。
・理想に燃えて帰国したものの、働き口のアテもなく、奈良の両親のもとに転がり込んだ。
いま振り返ってみると、この時期が一番不安定で、客観的に見て一番苦しい時期だったと思う。
渡米前に知り合った人々に片っ端から電話して、「10人でも5人でもいいんです。私の話を聞いてくれるなら手弁当で駆けつけますから、ぜひ呼んでください」と売り込んだ。
私がアメリカで体験したことや、外から見た日本の政治について、いま、話をしたい。政治改革の必要をいま、訴えなければダメだと思った。
北海道でも東京でも、どこでも呼んでくれれば駆けつけた。中には食事代はもちろん、交通費すらくれないところもあった。
最高学府を出て政経塾まで出たのに、いまではプータロー。講演活動を始めたというけれどもお金にもならず、赤字を出して帰ってくる。いったいこの娘はこの後どうなるんだろうと、親は困っていたにちがいないけれど、私自身は全然困らずに全国あっちこっちへ行ってしゃべっていた。
「政治評論家の高市早苗です」・・・
そのうち口コミで、一日に5本も10本も講演の依頼の電話が入って来るようにった。収入も少しずつ増えていった。
・仕事のない日は奈良の家で原稿を書いていた。
アメリカでの経験を本に書こうと思い、東京の出版社を回ったのだが、無名の私はまるで相手にされなかった。
「書きたいといったってサ、売れないものを出すわけにはいかなないよ」
「それなら、私がとりあえず全部、原稿を書きますから、読んでみてイヤだったら出してくれなくていいです」
なんとか説き伏せて原稿用紙をもらい、一日に5枚とか10枚とか、少しずつ書きためていった。これが後に『アメリカの代議士たち―――という本になって出版された。』
・『月刊アサヒ』に『アメリカの政治資金法』に関する論文を書いて投稿したら、これが掲載していただけることになった。
幸いこの論文に対する評価は予想以上に高く、あるTV番組のプロデューサーの目にとまり、私は初めてテレビ出演することになった。
その後はわりとトントン拍子。『朝まで生テレビ』や『サンデー・モーニング』、そして深夜番組の『プレステージ』にも飯星景子と蓮舫と組んでレギュラー出演するようになり、後にマスコミの仕事との両立が難しくなって辞めてしまったのだが、ある大学(日本経済短期大学、のちの亜細亜大学短期大学部の助手)の専任教員としての就職も決まり、肩書と研究室を与えられた。
・男かペットがいなくちゃダメな私
そういう意味で、私の精神的な健康は、カメによって保たれていた。
ただ寂しかったのは、カメだとベッドの中で一緒に寝られないこと。
・いままでの恋愛の中でもとびきりの甘い思い出は、地中海に面したヴァカンスの街、カンヌで過ごした目くるめく情熱の日々・・・
私はその滞在中、「ここはカンヌ。私は地中海にいるの」とつぶやき続け、雰囲気を盛り上げようととした。
それでウフフフフ・・・。朝、寝起きに暑いシャワーを浴びながら、彼が選んでくれた極上の赤ワインをいきなり飲み始める。バスローブのまま。
そして飲みィの・・・で、ベッドの上から海が見えていて、「ここは地中海。湘南じゃないの。地中海」ってつぶやきながら、それでまた飲みィの・・・。・・・
私の頭の中にはそのとき、片岡義男の小説の世界があった。ルームサービスを食べるときも当然、ベッドで裸の上にブランケットを巻いたまま。
うっかりした男だったら、「お前、そんな行儀悪いことやめろよ。寝巻着ろよ」なんていいかねないけど、そうしたら大げんかだ。
それからもちろん、彼がすばらしいテクニックを持っていることは言うまでもない。トコトン、快楽の境地におぼれられる相手じゃないと、話にならないわけ。
いまでも思い出すと・・・ウフフフになってしまう。私の酒とバラの日々。
(1992年6月5日発行 1961年、奈良県生まれ。1992年参議院選で無所属で立候補して落選。1993年衆議院選挙で無所属で立候補して当選)
感想;
高市早苗氏が選挙に立候補された時から、名前を知るようになりました。
議員になってからは、総務相のとき、「電波を止める」発言をして、TV各局にプレッシャーをかけたのを覚えています。
保守系の代議士とは知っていて、安倍元首相に近かったなどうわべのことは知っていましたが、高市早苗議員が神戸大学、松下政経塾卒、かつ米国でインターンの経験があるのは知りませんでした。
チャレンジブルな、そして情熱的でロマンティストな、寂しがりやさんで一途な方だとは知らなかったです。
この本を書かれた時は、「まさか政治家になり、総裁選を競う」とは思われていなかったでしょう。
なので、恋の話もたくさん書かれたのでしょう。情熱的な方のようです。
愛の力は大きいようです。
チャレンジブルな考えと行動力は政経塾で鍛えられたように思いました。
100km歩行、冬に1人で3日間ビパーク。女性に外でトイレ行けと。紙もなし。水だけ。
パナソニックは総合職で採用した新人に、販売店ので実習、工場での実習をかなり長くやらせています。それが政経塾でも必須になっていたようです。
今の状況でどうしたらよいか、分からない時にも考えて行動する人を育てようとされたような印象を受けました。
神戸大学の教育学部がなくなったのは知りませんでした。
兵庫県の田舎の高校で当時神戸大学にも数人入学し、教育学部に入った同級生もいました。教員採用試験合格全国最下位だったことも知りませんでした。
「政治活動には私たちの税金が使われているのだ。もっと政治がマシにならなければ、私たちは快適な暮らしができない。日本経済だっていまは好調だが、悪くあり始めたときに政治がしっかりとしていないと、日本の繁栄は終わってしまう。政治を正すために私の一生を賭けてもいい」
⇒この気持ちを忘れずに今も政治活動をされていると信じたいです。
自民党が行っているのは(自民党だけではないかもしれませんが)、税金を自分たちのために活用しているのです。政治の無策、それより悪い利権得ることで日本の経済は低下の一方です。
過去10年で韓国は年収が2倍以上になっているのに、日本はマイナス4~6%です。
かつ円安で、安い労働力として製造業が日本に戻ってきました。
また日本は安いということで、海外からの観光客がものすごく増えています。
政治が経済の発達の邪魔をしているようにさえ感じます。
高市早苗氏には若いときの”思い”をぜひ実現していただきたいです。
この本からは、とても純粋な方のように思いました。
今はどうなのでしょう?
権力かお金を握ると人は変わると言いますから。
今は権力とお金の両方を握っておられるかと。