幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「生き直す 私は一人でない」高知東生著 ”誰を信頼するかで人生が変わる!”

2024-10-19 18:42:42 | 本の紹介
・「高知さん、あなたは薬物依存症という脳の病気です」
保釈され、裁判が始まるのを待っている時期、国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部長を務める松本俊彦先生を訪ねカウンセリングを受けました。・・・
「先生、オレは病気なんかじゃありません」
と、認めることができず、拒絶をし、落ち込んでしまったのです。

・さらに、僕を救ってくれたのは回復に向かってサポートをしていただいた恩人の一人である、「公益社団法人・ギャンブル依存症問題を考える会」の代表である田中紀子さんとの出会いです。

・語ることで、改めて僕の人生を振り返ったとき、いかに自分が虚勢を張り、自分を偽り、無理に無理を重ねて息てきたのかを実感しました。加えて、いかに多くの人を傷つけてきたのかも、痛切に理解できるようになったのです。

・「あなたは一人でない」
「共に乗り越えよう」
と伝えたいのです。

・食事(留置所)は、朝昼晩と支給されたものを食べていたのですが、はっきり言って、これほどマズイものは、いままでに味わったことがありませんでした。

・僕は「懲役二年、執行猶予四年」という判決を受けます。

・「高知さんのその最悪の経験は、最高の価値があります。その経験を多くの人に話すことで救われる人たちがいます。私と一緒に依存症の啓発活動をやってくれませんか?」

・「だって高知さん大穴じゃないですか。愛人、薬物、ラブホテルですよ。それでも回復できれば、誰でも回復できますよね」

・叔父の家での肩身の狭い暮らしの唯一の救いは、どんなときも陰でそっと僕を慰めてくれる祖母の存在でした。

・母との生活が始まったのは、僕が小学校五年生くらいの頃で、1975年あたりです。

・夢に描いていた母との生活は決して楽しいものではありませんでした。
 実は、母は高知で有名な任侠の親分の愛人だったのです。

・母親に、「丈二のお父さんだよ」と紹介された人の名は、中井啓一という、四国では有名な土佐の任侠でした。

・八人相手に「リンチ」をくらってしまい、腕とあばらを骨折し、顔面はみるも無残にボコボコになり、八重歯は唇に貫通し折れていました。最後にバットで後頭部を殴られそれっきり意識を失いました。寮長があまりのうるささに注意をしに来て発覚し、僕は病院に担ぎ込まれ入院する羽目になったのです。

・一対八で人をリンチし重傷を負わせた加害者たちは学校を追われるようにやめていきました。

・1982年の春の甲子園では、僕は応援団長の一人として一生懸命応援しました。

・母の自殺、そして父親だと思っていた人が父ではなかった。

・明徳高校卒業後、僕はアパレル店員になり、高知の大丸デパートが職場になりました。

・この頃、僕は渋谷のDiscoで薬物を覚えました。

・今、依存症の勉強を始めて、学んだのですが、僕のような最初の薬物体験を「調子抜けの体験」と呼びます。

・伊勢丹の店員として勤務していると、ある日偶然テント村時代の友人に会いました。友人は「実は今、AVプロダクションにいて、AV撮ってるんだよ。丈二、良い女の子がいたら紹介してくれよ。紹介手数料も払うからさ」と言われました。

・僕らが、AVプロダクションを立ち上げた二年前には、「全裸監督」で有名になられた村西とおる監督が、大ヒット作を出していました。

・AV業界で、それなりに「成り上がる」ことが出来て、億単位の金も手に入れるようになった僕は、今度は湯水のように散財していきました。

・僕は、26歳になると大ヒットを飛ばしてくれたAV女優さんと結婚し、グレーな商売がつくづく嫌になり、全て足を洗うことを決めました。

・「僕に君の人生を預けてみないか?」
こうして28歳になっていた僕は、遅咲きも遅咲きの芸能界デビューを果たしたのです。

・僕はこの自分の感情をコントロールする術を知らないばかりに、この後の人生をしくじって行きます。

・僕は17歳で、彼女(高島礼子)は19歳で母親を亡くしており、その寂しさや悲しみが共感できたのでも、お互いなんとなく気が合い、居心地の良い女性となっていきました。

・松本先生は、開口一番、
「大変でしたね」
と声をかけてくださり、事件以降、「罵倒」「叱責」「嘲笑」「誹謗中傷」しか経験していなかった僕は、当然医師にも叱責されると思っており、この意外な言葉に思わず涙してしまいました。

・依存症は「否認の病」と言われますが、自分で自分の病気を認められない症状があるのです。

・田中さんは「何言ってるんですか! 高知さんの執行猶予が切れる日なんか誰も気にしちゃいませんよ!」とか「今、何もしてくれない人たちは、執行猶予が切れてもどうせ何もしてくれませんよ」と、夢も希望もプライドも一刀両断にぶった切るようなことを平気で言う人なのです。

・安全な場で自分のことをどんどん話し、自分の過去が笑って話せるようになるくらいになれると、自分責めが止まり、再発リスクが下がるのです。

・<恥を価値に変える?>僕はこと新しい考え方に戸惑いました。すると田中さんはこんなことを言いだしました。
「高知さん、『小学生のうんこ理論』って知っています?」
「授業中堂々と『先生、うんこしてきていいですか』って手をあげる男子。皆『あはは!』って笑うんだけど、心のどっかで『すげ~なあいつ』って、その勇気と正直さを尊敬してませんでした? まっ! 依存症の当事者の啓発ってそんな感じですね」
と言うのです。
僕はこのわかったようなわからないような『うんこ理論』を聞かされて、
<俺は、小学生か!><俺の話は、うんこと同じか!?>
という思いもありましたが、妙に納得もしてしまって、また結局やってみることになったのです。

 僕が最もつまづいたのはステップ四の「自分自身の棚卸し」と呼ばれる部分です。
「いまの自分がどういうことで形成されてきたのか」を理解するという意味です。
具体的には、「恨み」「恐れ」「性の問題で傷つけた人」「傷つけた人」について<誰に何をやらかしたか?>過去を全て書き出していきます。その次のステップ五では、書きだしたことを他の誰かに全部見せて話すということをするのです。
 これはきつい作業でした。

・この時の講演会の模様は、終了後すぐにNHKはじめ高知の地上波すべての夕方のニュース番組で報道されました。どこのニュースも好意的に取り上げてくれ、僕は、故郷で謝罪を受け入れてもらえたような救われた気持ちになりました。

・<あぁ、そうか、相談相手がそもそも間違っていたんだから、うまくいくわけないな>

・今の僕は、僕をまたひっぱりあげてくれた依存症界に恩返しのつもりで、リカバリーカルチャーを広めていきたいと思っています。

松本俊彦主治医
薬物依存症について多くの人に知って欲しいこと
・実は、薬物依存症患者さんの多くが、人生の早い時期から「自分には居場所がない」「価値観がない」と感じ、自分を大切にすることができない生き方をしています。もちろん、それには原因となる出来事はあります。代表的なものをいえば、虐待や家族内の不和、貧困、親のアルコール問題や精神疾患、学校でのいじめ、生まれつきの病気や障害、人種や宗教、性指向の問題・・・。人によって異なりますが、共通しているのは、自分自身や自分が生まれ育った家庭や境遇を、人にはいえない秘密、いわば「恥」と感じているのです。
 こうした体験はその後の人生に大きな影響を与えます。成人後も、「ありのままの自分ではダメ、ただそこにいるだけでは見捨てられてしまう」という不安がたえずつきまとうようになります。それは、心の奥にぽっかり口を開いた穴のような、底なしのさみしさです。そうした底なしのさみしさを跳ね返そうとして、身なりに気を遣い、人を退屈させない話術を身につけ、必死になって仕事をして、人に認められ、愛されることで、心のなかの穴から目を背け、一時的に底なしのさみしさを忘れようと努力します。それは、自分を少しでも大きく見せようと、ずっとつま先立ちしているのに似た、しんどい生き方です。
 薬物依存症患者さんの多くが最初の薬物を経験するのは、まさにこうした状況においてなのです。

・薬物依存症からの回復に必要なのは、バッシングによって社会から排除することではありません。

・薬物を手放すにはもやはり新しい、別の「つながり」が必要です。私は、高知さんがそうした「つながり」作りの先頭に立ち、まだ薬物を手放せずに悩んでいる人たちに希望を与える存在になることを期待しています。


感想
 人生は出逢いがとても大きいように思いました。
特に人との出逢いは大きいですね。
良い出会いは人生を豊かにしてくれますが、そうでない出逢いは誘惑に誘い込んだり、騙されたりと・・・。
そして気づいたときには、自分一人ではどうしようもできなくなっています。
かつ多くの周りの人を犠牲にしているのです。

 「有縁を度すべし」
臨済宗の本を読んでいたらこの言葉がありました。
縁をどうするかはまさに自分の選択肢ですね。
良い縁を大切にしたいです。そして誘惑を断つ勇気を持ちたいです。
 酒井法子さん、薬物やっていた夫と出遭わなければ・・・。

 薬物について知っておくと薬物に手を染めるリスクを減らせるのかもしれません。