・元気だった娘が突然のように私の前から姿を消したのは、一歳の誕生日を過ぎてすぐのことでした。私は「かぜくらい」という軽い気持ちでいました。ところが、寝かしつけたつもりで部屋を離れた一時間の間に、取り返しのつかないことが起こってしまいました。・・・
あの夜の救急車は、病院を探せませんでした。「もっと早く、経験を積んだ医師がいる病院に行けたら、結果がちがったのではないだろうか」そんな疑問がぐるぐると体じゅうを回った一年を過ごしながら、現在子どもの医療は深刻な状況にさしかかっていることを知りました。
手間と人でがかかるわりに収入が低い小児科は、赤字経営を招き、多くの病院から姿を消しつつあります。小児科医は不足しており、今後さらに減少する傾向です。このような事態に歯止めをかけなければ、子どもが小児科で診てもらえない時代が来てしまいます。
・「(切迫流産の)私は植木鉢とちがうよ。水と肥料だけ与えられて、発芽するまでじっとしてるしかないなら、入れ物と同じやわ。植木鉢は日の当たるところに置いてもらえるだけまだいい」
夫が現れると不満を漏らした。睡眠不足と自由の効かないストレスから、愚痴ばかりこぼすようになったが、このあといろいろなことを教えられた。
・何日間か私の話し合い手になってくれた彼女は、笑顔で退院していった。
「頑張ってね。今日が最後やない。これからもずっと検診に来るから、のそくね」・・・
しかし、何回目かのとき、私を見舞うのではなく、再び入院で入ってきた。なぜこんなことが起こるのだろう。赤ちゃんは双子であることがわかり、手術間もないおなかは、双子の出産に耐えられず、中絶が決まったと言う。
気丈な彼女は、退院のとき、また声をかけてくれた。
「頑張るわ。自分(大阪の人はよく相手をこう呼ぶ)元気な赤ちゃんを産みや、じゃ」
そう言い遺して彼女が病室をあとにしたとk、申し訳ない気持ちから涙があふれた。それまで
「なんで、私だけこんな思いをしなければ産めないのか」とばかり考えてきたが、間てばその日を迎えられる自分は、愚痴をこぼしては罰が当たると思い知った。
・ようやく大学病院へ
病棟らしき大きな建物がいくつも見え、大学病院にさしかかっていることがわかった。・・・やっとこさたどりつけた安堵から涙が吹き出してくる。
同時にこみ上げたものは、わずか自宅から10分のこの病院の門をくぐるために、何時間もの道のりと、はちきれそうな恐怖を切りなければ叶わなかった、不条理だった。
・悪いことばかりが頭をもたげてくる。打ち消したくとも、悪いことのほうが大きくのしかかってくる。そして、自分が罪人になった気分だった。
あのとき何で部屋から出てしまったんやろ。
何で一時間くらい大丈夫と思ってしまったんやろ。
そばで見てたら、こんなことにはならなかった。
私のせいや。私が悪かった。
あゆみちゃん、ごめん。お母さんがこんな目に・・・
・「脳炎か脳症と思われます。脳症なら脳炎以上に治療が困難です。時間的にインフルエンザ脳症が考えられますが、これを治す治療法はまだありません。今年は三時間から五時間で死亡するケースが何例か出ています。
「脳症」という言葉を、これまで聞いたことがない。脳炎と訊くだけでも恐ろしいのに、それ以上を刺す病態を想像できなかった。
「元のあの子に戻る可能性はあるわけですか?」
「いまは何とも言えません。赤ちゃんの場合、長期で見ていかなければ後遺症はわかりませんので」
「もしも、このまま腫れ続けたらどうなんですか?」
「限界を超えると死にいたります」
・あきらめきれない気持ち
子どもの脳死状態――。この実感は、実際に体験した親でなければつかめないものと思われる。
私たちは、この状態で二週間のときを過ごした。
・霊安室へ
ほどなく別室に呼ばれる。主治医は、断ることを迷わなくてもいいと前置きしてから、解剖の話を始めた。気遣いはありがたいものだった。しかし、断ったことがのちのち大きな公開となってしまった。
何が起こり、なぜ死ななければならなかったのか、親として知っておくべきだった。知りたい気持ちが膨らんでくるのは、うっとあとのことである。
・ずっと、「死」とは終わりを意味すると思っていた。しかし、「子どもの死」は、そこからも始まりなのだ。残された親は、自分の暮らしも終わらせてしまいたい衝動に駆られる。だが、それは許されず、生きてゆかねばならない。どう始め、どう続けていくか、大きな課題であり、宿題だった。
・「夜は子どもには無医村」。まさしく、そうだった。
・「ですから、この市でも一か所、何とかならないのですか? 人口から考えて、ここ一か所でまかなききれるものではないでしょう」
管理医師は苦笑し、首を横に振った。
「あり得ない話です。365日小児科医を確保して、夜間診療所を一か所開くだけでも、至難の業なんです。小児科医は年々減少し、なり手も減っています。それに、小児科は他科に比べて女性医師の割合が多いのです。子どものいる女性が当直をするというのは難しいでしょう」
・「息子さんが園でどのような状態になっているかご存知ですか?」
私のまった知らないことが起こっていた。息子は、みんなが政策や遊戯をするときも参加せずに床をゴロゴロ転がったり、突然大声を上げて廊下に飛び出すなど奇怪な行動をとっていたのだ。
「お母さん、亡くなった子のことより息子さんのことを考えてください」・・・
「努力します。でも先生、私は娘のことも終わらせられないんです。このコピーを見てください」
園長は手に取らなかった。
「その件はお断りします。息子さんのことを考えてください」
突き落とされた。何を頼ればいいのか、わからなくなった。そして、園長から死後に言われた・
「お母さん、息子さんは園でも全力で守ります。だから、あなたは、すぐに心療内科に行ってください」
ずっとあとになってこの幼稚園で息子がずいぶんと守られていることを感じるようになる。しかし、このときは自分が見捨てられたように受け止めてしまった。日増しに気分が滅入り、このあと吸い込まれるようにウツ状態に突入していく。
・息子の言動は、家でもおかしくなっていった。赤ちゃん言葉を使い、聞きわけががないばかりか分別もなくなり、赤ちゃんになってしまったのだ。おねしょに始まり、起きているときも部屋でジャーと漏らすようになった。
そこで、あゆみがなくなった大学病院に連れて行くことにした。・・・病名は「心身症」。
「お母さんの影響ですね。お兄ちゃんがいるとき、あゆみちゃんのことを言うのはやめましょう。あゆみちゃんがいないことが当たり前の暮らしに、早くもっていくのがいい」
「おっしゃることはよくわかります。でも、それを取り上げられると、私は・・・。亡くなったことより日増しに悲しみが募っています。底が見えないところに落ちていくようなんです。息子のためを考えながら、私自身はどうしのいでいけばいいのでしょうか?」
「すぐにでなくてもいいけれど、お母さんは心療内科に行かれてはどうですか?」
数日後、同じ大学病院の心療内科を訪ねると、身体に不調がない悩みであることから精神科に回される。
・通院を繰り返しながら、だんだん自分が求めているものとちがうと感じ始めた。
「先生、こうしていても全然よくならない気がします。身体はいつもだるく、薬が気持ちを回復させるとは思えません。薬を使わない方法はないのでしょうか?」
「昼間のだるさは一種の副作用ですが、夜に眠ることが大切なので薬は続けてください。永遠に続けたとしても差し支えないものですから」
次の予約をして帰宅したが、悩んだ末に医師に手紙を出した。「申し訳ございません。しばらく休ませてください。自分にとって何に満足が得られるか、探す機会をいただきたく思います。
・あった! 「子どもを亡くした親ばかりで語り合う場」が。もうひとつ、「家族を亡くした人が語り合う場」についても教えてくれたが、迷わず「子ども」のほうに決めた。申し込みをし、その日が来るのを指を折って待つ。
・快感だった。吐き出せたと思った。なのに、気持ちが満たされなかったのはなぜだろう。知らないほうがよかったことを知ってしまったように思えた。私は愚かにも、ここに集まった人の子どもたちと、「死に方」を比べて落ち込んだのが。・・・
みんな闘病の末の死であるか事故だ。看病が尽せた人が、犯人や死因のはっきりしている人が、うらやましかった。
・子どもを亡くした人の中でさえ惨めに思え、来たことを少し後悔した。迷ったが、「もう一度だけ」と思って参加したときに、自分自身と向き合えるこの会が、私にとって必要であるとわかり、その後一年以上欠かさず参加した。このような偉業を何年も続けている階の代表の方に心からの敬意を持っている。
・会場を出てから何名かで喫茶店に入った。ここに残ったことが私の運命を分けることとなる。
隣の席に座った、京都から来ている女性が話しかけてくれた。
「お宅の子、かわいそうやったね。うちは長いこと病院に入ってたんよ。話を聞いて思ったんやけど、お宅なんかは同じ病気で亡くした人と話しをするのがいいんやない?」
「めったに出会えるもんじゃないですから・・・」
「いるよ」
思わす、向きを変えて座り直した。
・夜遅くに電話が鳴った。
「こんな夜分に恐れ入ります。わたしくし立石由香と申します」
夜分でも夜中でもいい。一刻も早く連絡が欲しかった。
「いまお手紙を拝見し、すぐにお話がしたくて明日まで待てずに・・・」
やはり新聞記事の人だった。出会いたい願いは通じたのだ。嬉しかった。私と同じ気持ちでいてくれたことが。面識もないこの人と延々と話した。話は尽きず、明日にでも会いたいと思った。しかし、彼女はとても体調を崩しており、少し回復を待つことにする。
・カウンセラーは真剣なまなざしを向けてくれたが、いつも言葉は添えなかった。
「先生は、何も言ってくれないんですか? 黙って聞くことしか、してはならないんですか?」
「私は、あなたの頭のなかがゴチャゴチャになっているなら、それを見やすいように並べる手伝いをします。とにかくあなたが話してくれることを目的に、ここにいっしょにいます」
いやな言葉ではなかった。そういう相手は必要だ。しかし、もの足りなさも大きかった。もっとももの足りないのは、この人に病気の話をしてもわからないことだった。心の専門家だけでは、私には足りないのだ。
・連絡をとっていた立石さんは、体調が回復しない状態だったが、思いきってもちかけた。
「会をつくらない? この病気に倒れた子どもの親の居場所をつくろう。協力してくれるかなあ」
迷わずに同意してくれた。彼女が明るく「それいい!」と言ってくれたように、きっと求めている人はいるはずだと思えた。
・体験を語っても涙など一滴も出ない。娘の体験をとおして、こうした問題に対する世間の認識が高まるならば、それが俗に言う「死を無駄にしない」ということだとうと感じた。
・シンポジウムを開こう
こうして会の目標を正式に決めた。
①かぜやインフルエンザなどから重症化した子どもの親の心を癒すこと
②インフルエンザや急逝脳症についての正しい知識を集め、普及すること
③小児医療と小児救急医療の充実のために協力すること
・立石さんに出会っていなければ、この会はなかった。
彼女の坊や恭平君、倒れた夜のうちに息を引き取っている。午前中に小児科でインフルエンザと診断されていた。午後に夏は40℃を超えるが、座薬使用後に夏は下がり、おやつを食べたり立石さんのひざに座ってテレビを見て過ごすほど、開腹しているかに思えたという。ところが、目が痛いと言い出し、寝室に戻ろうとしたとき、ドーンと床に倒れる。しして「目が回るよ!、ひゃー!」っと叫んだのが最後、恭平君は二度と目を開けなかった。
・親と医療者が出会い、同じ視点で語れる場
「小さないのち」は、子どもを亡くした父母と家族の会で、当事者だけで構成するセルフヘルプ・グループです。子どもの「いのち」について語り合いながら、この先の人生に意味を見出すことを目的として運営しています。
現在、3つのグループと1つの分科会があります。病児遺族小さい子グループ、病児遺族大きい子グループ(さまざまな病気で子どもを亡くした家族)と、不慮の事故遺族グループ(子ども本人または家族による予期せぬ事故で子どもを亡くした家族)と、「小さなつぼみ」の会(流産・死産で子どもを亡くした家族)です。
会の目的
- 会員相互のわかち合いと心の回復
- 子どもの医療やグリーフケア(家族へのケア)の充実
感想;
子どもを亡くした親が集まる居場所がなかなかないようです。
坂下さんは娘さんを亡くされました。
娘さんを亡くされるというとても辛い体験をされました。
それが縁で、同じインフルエンザ脳症で息子さんを亡くされた立石さんに出逢いました。二人が同じように苦しん入る人を少しでも助ける会を立ち上げました。
それは亡くなった娘さんと息子さんが生まれ、亡くなるということがあったからです。短い命ですが、大きな意味を創造したようにも思います。
ひょっとして神様からの特別の使命を与えられ、それぞれがその役割を果たしたとも言えるかもしれません。
そんな辛い使命は要りませんと神様に言いたいのですが、誰かが果たさないといけないのかもしれません。
インフルエンザ脳症は約250人/年
赤ちゃんは100万人/年
そうすると、0.025%の赤ちゃんが罹っていることになります。
人はどうしてもこのようなリスクを抱えているのでしょう。
お子様を病気で亡くされた
ご家族のためのクッキング教室
会場 新宿区内
日程 2024年11月30日(土)
時間 13:00~16:30
内容 クリスマスケーキ シュトーレン
持ち物エプロン&三角巾
参加費 1000円
ご家族のためのクッキング教室
会場 新宿区内
日程 2024年11月30日(土)
時間 13:00~16:30
内容 クリスマスケーキ シュトーレン
持ち物エプロン&三角巾
参加費 1000円
この会は遊びのボランティア「ガラガラドン」/NPO病気の子ども支援ネット理事長の坂上さんが開催しています。
坂上さんは入院児との遊びのボランティアを始められました。それが都内のいくつかの病院に広がっています。
コロナでボランティアが病室に入れなくなり、病院スタッフにお弁当を届けるボランティアを始められました。
また時間があったので、その間に料理学校に通い調理師の免状を取られました。
病気で子どもを亡くした母親が、「病気で子どもを亡くした親のグリーフケアというか、同じ境遇の人が話し合う場がない。坂上さんやってよ」と言われたそうです。
カウンセラーではない坂上さんは、「だったら皆で一緒に料理を作って、一緒に食べながら話すのはどう?」ということで始まりました。
子どもを亡くした深い悲しみで食べ物も十分摂れていなかった母親も多く、また家族にきちんと料理するということを後回しになっていました。
カウンセラーの役割も大きいですが、なにより同じ境遇の仲間の語り合いがより大きいようです。
坂上さんは、入院児との遊びのボランティアを国際医療センターの小児病棟で始められ、その活動が順天堂大学の小児病棟に、そして東京医科歯科大の小児病棟、東京女子医大への広がりました。
私は東京医科歯科大附属病院の小児病棟での遊びのボランティアに参加し、坂上さんを知りました。
遊びのボランティアのサイト(下記)を作成しています。
ぜひ、よっくんのポエムを見ていただけると嬉しいです。
生きるエネルギーを与えてくれます。
どう生きるかの指針を小学5年生で亡くなったよっくんが教えてくれているように思います。
子どもの死、その死を周りが受け取り、そして何か考え、行動に生かされると、その死にも意味が生まれるのではないでしょうか。
坂下さんは娘さん、あゆみちゃん、を亡くされ、同じような境遇で苦しんでいる親のケアだけでなく、より良い小児医療の実現に向けて医療側と一緒に取り組まれています。
このような人生から過酷な問いが与えられます。
それにどう応えて生きるか。
坂下さんは苦しい中行動に出られました。そこで立石さんに知り合いました。
一歩踏み出すと景色が、社会が、世界が変わるのではないでしょうか。
著者は坂下さん、グリーフシェアクッキングは坂上さん。
同じ坂で二人合わせると上下です。
私は*坂。関係はないのですが。
人生には上り坂、下り坂、そしてまさかと小泉純一郎元首相が言われていました。
生きるということは、すべての”さか”があるのでしょう。
そこで多くの選択肢の中から何を選択するかなのでしょう。
あゆみちゃんはお母様の坂下ひろこさんの中で今も生き続けているように思います。