英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『平清盛』 第35話「わが都、福原」

2012-09-09 19:04:48 | ドラマ・映画
清盛の真意……その遠大な構想
   出家、福原への隠居?
   頼盛冷遇の理由は?

 博多を都の隣に持ってくるだけでなく、福原を平家の都とする。京に居ては、天皇家の支配下からは逃れられず、その圏外の福原に新たな都を作る。これが清盛の構想だった。
 さらに、頼盛の出世の後押しをしなかったのは、福原の都を作るため、自分の片腕として頼盛を使うには官職は邪魔だった。



 今までも頼盛の冷遇や頼盛の清盛に対する不信感が少し描かれていたが、清盛、頼盛ともにその心の内を表すようなシーンはなかった。実際、清盛の危篤を聞き、博多から駆けつけた頼盛は心から心配していたようだった。
 今回、その頼盛の心のすきを突く様に、藤原摂関家兄弟や八条院が接近して利用しようとした。
 こういった一連の動きを、今回だけで描いたため、唐突感が強かった。前回から丁寧に書いて欲しかった。前回は、清盛がずっと危篤だったため、清盛と頼盛の絡みは不可能だったが、だからこそ、前回、白河法皇を登場させたりしたハイライトっぽいシーンは不要だったように思えた。
 結局、摂関家との義理を重んじ、職務を怠り、後白河院の怒りを買い罷免されてしまうが、それがきっかけで、清盛の真意を知ることが出来た。

 今回の頼盛、摂関家に利用される様は頼長―家盛ライン、「とてつもない事をしでかす兄を持つ弟の運命(さだめ)というものじゃ」という台詞は「忠盛―忠正」=「清盛―頼盛」を重ねていた。
 練った演出とも言えるが、そういうことよりドラマの質に力を注いで欲しい。


【疑問】
天皇は基本的に(先代が)譲位するものだと思うが、今回は憲仁親王が即位して高倉天皇(8歳)となったが、5歳の六条天皇からの譲位であった。
 後白河院に反目していた二条天皇が強いて譲位して誕生させた六条天皇であったが、後白河院が簡単に譲位させてしまった。ここら辺りの説明が欲しい。
 北条政子婚約?即破断(取り消し)のコントや、祐親の千鶴丸惨殺シーンや、義朝の回想シーンは要らない。コントは面白かったが。
 

【ストーリー】番組サイトより
 1168(仁安3)年2月。死の淵(ふち)から奇跡的に生還した平清盛(松山ケンイチ)は、第二の人生に踏み出した。その手始めに、比叡山延暦寺を収める僧侶・明雲(腹筋善之介)を呼び、明雲の導きで出家したいと依頼する。明雲は昔から朝廷への強訴などで敵対することが多かった山法師の自分になぜ頼むのかと清盛に尋ねると、白河法皇も手に負えなかったという山法師と今後は協力関係を築きたいからだと語った。
 そして清盛は明雲の手により出家。集まった平家一門の前で清盛は頭を丸めた姿を披露、妻・時子(深田恭子)もあわせて出家していた。清盛危篤の知らせを聞いて大宰府からかけつけた頼盛(西島隆弘)も清盛の姿に目を丸くした。清盛は一門の前で、海に近い福原(神戸)に隠居することを表明。六波羅を重盛(窪田正孝)にまかせることとした。
 後白河上皇(松田翔太)は、清盛のこうした動きを警戒、滋子(成海璃子)との子・憲仁親王を高倉天皇として即位させ、自らの威信を示した。滋子が皇太后になったことで、平家内にも変化が生まれた。滋子の姉・時子の子である宗盛(石黒英雄)が皇太后宮権大夫という要職につく一方で、同職にいた頼盛は辞任を余儀なくされた。さらに、頼盛は滋子への奉仕を怠り、後白河上皇は清盛を呼びつけてそのことを叱責した。清盛は頼盛を六波羅に呼び、大宰府と京とを往復する頼盛の大変さはわかるが、そのことは勤めを怠る言い訳にならないと言う。すると、頼盛は自分の不満を初めて訴えた。重盛や宗盛、時忠(森田剛)はすでに参議であったが自分はまだなれず、それは保元の乱の折に清盛に背いたからではないかと語る。そんな頼盛に、清盛はつまらぬことを考えず、自分の仕事に励めと言った。
 一方、伊豆では、北条時政(遠藤憲一)の館に、かつて源義朝(玉木宏)の家人であった豪族たちがあつまり、無為な日々を送る源頼朝(岡田将生)の身の上を嘆いていた。そして、時政の娘・政子(杏)の嫁入り話で一同盛り上がると、そこに政子がイノシシを背負って現れ、みんなを驚かす。政子は毎日野山を駆け回って遊んでいる男まさりな女性であったが、頼朝との運命的な出会いが迫っていた。
 福原に移り住んだ清盛は、兎丸(加藤浩次)らと大輪田泊の改修計画を進める。都を離れて自由を手に入れた清盛は、さらなる日宋貿易拡大の夢へと突き進んでいた。そして平家一門にも変化が訪れていた。清盛の弟・教盛(鈴之助)が参議になったのだ。一門が喜びに沸く中、また出世でおくれをとった頼盛は不満を募らせていた。
 その頼盛に藤原摂関家の摂政・基房(細川茂樹)や、以仁(もちひと:柿澤勇人)が接近をはかり、頼盛を参議にしたいと伝えた。清盛が福原に移った今、平家の隙をつこうという人々にとって頼盛は利用すべき存在だった。そして頼盛は念願の参議になったが、一か月後にはその官職をとかれてしまう。
 心配した清盛は福原に頼盛を呼ぶと、頼盛は自分を平家から追い出してくれと訴えた。すると清盛は、目の前に広がる海を見せ、自らの野望を語った。福原に博多のような大きな港をもつ街にして、ここを都と定める。それは平家の都だと語る。朝廷の枠組みを超え平家一門の力で、貿易で得た富で国を豊かにする政治をおこない、そして武士の世をつくるというのだ。そのためには頼盛の力は欠かせないと説く清盛。頼盛はそんな清盛の壮大な野望にあきれながらも認めざるを得なかった。
 そのころ、源頼朝も新たな明日を迎えようとしていた。山中をさまよう頼朝をもののけと勘違いした政子はつかまえた。それが二人の出会いであった。一方、京の鞍馬山では頼朝の弟である遮那王(神木隆之介)が寺で修行に励んでいた。
それはのちの源義経だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クサキョウチクトウ(オイランソウ、フロックス・パニキュラータ、宿根フロックス)【7月29日撮影】

2012-09-09 12:18:46 | 歳時
クサキョウチクトウ(草夾竹桃)7月29日撮影、越前市白山地区


 ハナシノブ科クサキョウチクトウ属の多年草。原産地は北アメリカ。
 草丈は60センチから100センチ(40~120センチという記述もある)。茎は直立し、通常分枝しない。
 花色は青紫、藤色、紅、白など。

 撮影場所は、「キキョウ、オオハンゴンソウ(ルドベキア)【7月15日撮影】」(9月4日記事)と同じ場所です(冬桜の場所でもあります)。

 花にはいろいろ別名があります。クサキョウチクトウ(草夾竹桃)もその例にもれず、オイランソウ(花魁草)フロックス・パニキュラータ宿根フロックスの別名があります。
 この花については、ウィキペディアの記述が分かりやすいので引用します。

「和名の「クサキョウチクトウ」は、明治時代から呼ばれているが、キョウチクトウ科とは全く関係がない。名前が長すぎるため大正期から戦後にかけて、園芸界では「オイランソウ」と呼ばれていた。1958年の売春防止法制定を機に「花魁(おいらん)」のイメージも余り良いものではなくなったため、現在では学名の英語読みであるフロックス・パニキュラータまたは宿根フロックスと呼ばれることが多くなっている」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フウリンソウ(ツリガネソウ)【7月28日撮影】

2012-09-09 10:46:18 | 歳時
フウリンソウ(ツリガネソウ)【7月28日撮影】(鯖江市河田地区)

 どこで撮ったかは、記憶が曖昧です。写真の日時と仕事の記録を照合すると、おそらく河田地区ではないかと……

 キキョウ科ホタルブクロ属の二年草で、学名はカンパニュラ・メディウム。ヨーロッパの南部が原産。カンパニュラはラテン語の釣り鐘を意味することばだそうです。
 ウィキペディアによると、正式和名はフウリンソウ(風鈴草)で、園芸名はツリガネソウ(釣鐘草)とのことです。
 花色は青紫・藤色・ピンク・白など様々だそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする