山里の桜を見る
まだしらぬ ところまでかく きてみれば さくらばかりの はななかりけり
まだ知らぬ ところまでかく きてみれば 桜ばかりの 花なかりけり
山里の桜を見る
見知らない山里までこのように来てみると、桜ほど良い花はないということがわかった。
山里の満開の桜は、都のそれとはまた次元の違う美しさなのでしょう。
この歌は、風雅和歌集(巻第二「春中」 第164番)に入集おり、そちらでは第三句が「きてみれど」とされています。
山里の桜を見る
まだしらぬ ところまでかく きてみれば さくらばかりの はななかりけり
まだ知らぬ ところまでかく きてみれば 桜ばかりの 花なかりけり
山里の桜を見る
見知らない山里までこのように来てみると、桜ほど良い花はないということがわかった。
山里の満開の桜は、都のそれとはまた次元の違う美しさなのでしょう。
この歌は、風雅和歌集(巻第二「春中」 第164番)に入集おり、そちらでは第三句が「きてみれど」とされています。
古里にいたれり
はなのいろは ちらぬまばかり ふるさとに つねにもまつぞ みどりなりける
花の色は 散らぬ間ばかり 古里に つねにも松ぞ 緑なりける
古里についた
花の色が美しいのは散らない間のわずかの期間だけであるが、古里の松はいつも緑であるよ。
この歌は後撰和歌集(巻第一「春上」 第43番)に入集していますが、そちらでは藤原雅正(ふじわら の まさただ/中納言藤原兼輔の長男)の作とされています。
女、柳を見る
あをやぎの まゆにこもれる いとなれど はるのくるにや いろまさるらむ
青柳の 繭にこもれる 糸なれど 春のくるにや 色まさるらむ
女が柳を見ている
繭にこもっている青柳の糸ではあるけれど、春が来るからだんだんと色づいてきている。
第四句「くる」は「(春が)来る」と「(糸を)繰る」の掛詞になっています。
まだ色味の薄い柳を繭から紡ぎ出される前の糸に喩え、それが春の訪れとともに青く色づいて行くさまを詠んでいますね。
貫之集 第四
天慶二年四月、右大将殿御屏風の歌二十首
人の家に紅梅あり
くれなゐに いろをばかへて むめのはな かぞことごとに にほはざりける
紅に 色をばかへて 梅の花 香ぞことごとに 匂はざりける
天慶二年(939年)四月、右大将殿の御屏風の歌二十首
人の家に紅梅がある
紅梅は色が紅に代わって美しいが、香りがまた白梅とは違って匂わないのだった。
「右大将」とは藤原実頼(ふじわら の さねより)のこと。また、「二十首」とありますが、実際には 388 まで二十二首採録されています。
紅梅は白梅と違って匂わない、と歌われていますが、そうなのでしょうか。調べて見ると、まったく匂わないということはないですが、実際、白梅は紅梅に比べて香気が強いとの研究結果もあるようです。
この歌は後撰和歌集(巻第一「春上」 第44番)に入集していますが、そちらでは凡河内 躬恒作とされています。
まつがえに つるかとみゆる しらゆきは つもれるとしの しるしなりけり
松が枝に 鶴かと見ゆる 白雪は つもれる年の しるしなりけり
松の枝に、鶴かと思われるほどに積もった白雪は、長い年月のしるしなのですよ。
松と鶴と雪の組み合わせは 051、074、278 にも登場した、こちらも定番ですね。
今日で366番。今年、2024はうるう年でしたので、貫之集のご紹介を始めてからちょうど1年たっということになります。毎日たくさんの皆さんにご来訪いただき、ありがとうございます。そしてこの366番で「貫之集第三」の読み切り。明日からは「第四」、天慶期(938~947年)の屏風歌のご紹介です。
引き続きよろしくお願いします。 m(_ _)m