漢検一級 かけだしリピーターの四方山話

漢検のリピート受検はお休みしていますが、日本語を愛し、奥深い言葉の世界をさまよっています。

貫之集 375

2024-04-25 05:27:45 | 貫之集

人の家に常夏あり

かはるとき なきやどなれば はなといへど とこなつをのみ うゑてこそみれ

かはるとき なき宿なれば 花といへど 常夏をのみ 植ゑてこそ見れ

 

人の家に常夏が植わっている

いつも変わることのない家であるから、花といえば常夏だけを植えて眺めているのであるよ。

 

 「常夏」とはナデシコの別名。「常(とこ)に懐(なつ)かしい」花として賞美されるとされ、273 に続いての登場です。

(画像は「四季の山野草」さま https://www.ootk.net/cgi/shiki/shiki.cgi からお借りしました)


貫之集 374

2024-04-24 05:18:40 | 貫之集

くれぬとは おもふものから ふぢのはな さけるやどには はるぞひさしき

暮れぬとは 思ふものから 藤の花 咲ける宿には 春ぞ久しき

 

春はもう終わると思うのに、藤の花が咲いている家ではまだ長く続くように思えるよ。

 

 255 では春の終わりが近いことを教えてくれた藤の花ですが、こちらでは逆に春がまだ続いていることを感じさせてくれていますね。
 この歌は新古今和歌集(巻第二「春歌下」 第165番)に入集しています。


貫之集 373

2024-04-23 05:16:23 | 貫之集

藤の花

ほととぎす なくべきときは ふぢのはな さけるをみれば ちかづきにけり

時鳥 鳴くべきときは 藤の花 咲けるを見れば 近づきにけり

 

藤の花

藤の花が咲いているのが見られたということは、時鳥が鳴く時期も近づいているのだなあ。

 

 藤の花と時鳥も定番の組み合わせですが、この歌は万葉集採録の田辺福麻呂(たなべ の さきまろ)歌や、柿本人麻呂作とも伝えられる 古今集 0135 などととても良く似ています。

 

ふぢなみの さきゆくみれは ほととぎす なくべきときに ちかづきにけり

藤波の 咲きゆく見れば 時鳥 鳴くべきときに 近づきにけり

(万葉集 巻第十八 第4042番)

 

わがやどの いけのふぢなみ さきにけり やまほととぎす いつかきなかむ

わがやどの 池の藤波 咲きにけり 山ほととぎす いつか来鳴かむ

(古今和歌集 巻第三「夏歌」 第135番)

 

 特に田辺福麻呂歌は、語順は違いますが酷似していると言って良く、新古今和歌集時代に盛んに用いられることとなる「本歌取り」の手法がすでに見られるということでしょうか。なお、類歌は貫之集 271 にも見られます。

 


貫之集 372

2024-04-22 05:13:10 | 貫之集

道行き人

あはとみる みちだにあるを はるがすみ かすめるかたの はるかなるかな

あはと見る 道だにあるを 春霞 かすめるかたの はるかなるかな

 

道を行く人

あれが道だと思うだけでも遠いのに、春霞に霞んだ彼方の何と遥かなことであろうか。

 

 冒頭の「あは」は「あ・は」で「あれは」の意。旅人の行く手がはるかに霞んで、一層遠い道のりに見えている絵柄でしょうか。

 

 


貫之集 371

2024-04-21 05:15:56 | 貫之集

海のほとりに風吹き波立つ

ふくかぜに さきてはちれど うぐひすの こえぬはなみの はなにぞありける

吹く風に 咲ては散れど 鶯の こえぬは波の 花にぞありける

 

海のほとりに風が吹き、波が立っている

吹く風に咲いては散る花のようであるが、鶯が蹴散らすことができない波の花なのであるよ。

 

 第四句「こえぬ」は「蹴えぬ」で蹴散らす意。自然に「越えぬ」と思ってしまうと歌意が分からなくなってしまいますね。こういうのが古典和歌の難しいところです。ただ、この歌は新拾遺和歌集(巻第一「春」 第19番)に入集しているのですが、そちらでは第四句は「知らぬは波の」とされています。花のあるところに目ざとくやってくる鶯も波の花のことは知らない、というわけで、こちらの方が現代人にはわかりやすいですね。