八幡坂沿いにある「在札幌ロシア連邦大使館領事部函館支部」の建物。
1994年に開校した、ロシアの政治・経済・文化を学ぶ学校である「ロシア極東連邦総合大学函館校」とも並んでいます。
この大学が開校する二年前、1992年の7月28日、函館市と、ロシア極東部のウラジオストク市が姉妹都市提携を結びました。
提携から二年後のこの大学の開港や、2002年には、市立函館博物館と、ウラジオストク市にある国立アルセニエフ博物館とが提携を結ぶなど、両市は様々な分野で交流を深めあう関係となっています。
というわけで、函館とロシアとの関わりを示すスポットを幾つか紹介していきましょう。
西部地区にある、日蓮宗の「実行寺(じつぎょうじ)」。
1700年代半ばの創建とされている由緒ある寺院ですが、1854年に日露和親条約(「日米和親条約」は歴史の授業で習ったけど、ロシアとも条約が結ばれていたのです)が締結された後の1858年、この敷地内にロシアの仮領事館が開設されました。
もう何度も紹介している、おなじみの「函館ハリストス正教会」。
1858年に函館にやって来た初代ロシア領事ゴシケーヴィチが、1860年に建てた領事館付属聖堂が、この教会の前進となっています。
初代司祭が病気で帰国した後、1861年に二代目司祭ニコライが来函し、この聖堂を拠点として、日本で初めてロシア正教を布教しました。
そういう点で、ここは、函館とロシアのみならず、日本とロシアの関わりの歴史にも大きな意味を残す場所です。
1907年の大火で建物が焼失してしまいましたが、1916年に、ロシア風ビザンチン様式の聖堂として再建されています。
幸坂沿いにある「旧ロシア領事館」。
ハリストス正教会に設置された領事館が1866年に火災で焼失してしまい、1903年に領事館の新築工事が着手されましたが、そんな折も折、翌1904年に日露戦争が勃発し、工事は中断。ようやく1906年に完成するも翌1907年の大火で焼失し、そのまた翌年の1908年に、レンガ造り二階建として再建されています。
1917年、ロシア革命によってロシアがソ連となり、引き続きソ連領事館となりますが、1944年に最後の領事が引き揚げたことで閉館。その後、函館市が購入し、1964年から1996年まで、「市立道南青年の家」として活用されました。
現在は施設としての用には供されておらず、外観のみ見学可能となっています。
いきなり住宅街に移りました。
特にスポットらしいスポットもなさそうですが、ここは、函館に住みついたロシア人達の集落が存していたとされる場所です。
日露戦争終結後の1907年に「日露漁業協約」が締結され、漁業関係で繋がりが増したことにより、漁業関係者の多くが西部地区に住居を構えましたが、北洋漁業における必要性もあり、市民によるロシア語熱が高まり、ロシア語を研究・学習する会なども誕生しました。
その後、1917年のロシア革命やその後の内戦、さらには日本などによるシベリア出兵などを避け、多くの白系ロシア人や宗教的亡命者が、シベリアやサハリンを経由して函館に渡り、市内数ヶ所に集落を構えるようになりました。
そんな集落の一つがあったとされるのが、市内湯川町にある「はこだて療育・自立センター」の付近。(こちら)
こうしたは「露助」(「露助」とは、ロシア人に対する蔑称)と呼ばれ、自給自足の生活が営まれていましたが、やがて第二次世界大戦が勃発し、外国人全体への風当たりが強くなると、このの住人たちもソ連のスパイ呼ばわりされるようになり、その多くが日本を離れてしまいました。
そして、戦況が悪化の一途を辿る1944年、先述のとおり最後の領事が引き揚げて領事館が閉館されてしまい、開港以来保ち続けてきた友好関係が、最悪の局面を迎えてしまったのです。
終戦から七十二年、現在は姉妹都市提携も結ばれ、大学も設置されるなど、函館に関して言えば、ロシアとの関係は良好に保たれていますが、現在に至るまでの様々な関係の変遷がわかる場所が幾つもあるということで、こうした視点からの町歩きも面白いと思い、書いてみました。