「ポスト・トゥルース(post-truth)」古くて新しい問題、「客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況」が昨日の千代田区長選挙で小池陣営がトリプルスコアでの圧勝で示されたように東京、日本の政治のみならず、世界の政治を支配することになりそうです。変化に対応する力、たとえ、一時は笑われても、周りに合わせるだけではなく信念を貫く勇気も必要になってきます。兎に角自分の頭で考えて生きていかなければならない時代です。
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今あなたが目にしているニュースは「事実」なのでしょうか。ドナルド・トランプ氏が当選した米大統領選や英国の欧州連合(EU)離脱の国民投票といったニュース報道をきっかけに使用頻度が増したと言われるのが、「ポスト・トゥルース(post-truth)」という言葉です。ジャーナリズムや民主主義の危機という文脈で語られることの多いこの現象ですが、メディア論が専門の慶応義塾大学の大石裕(ゆたか)教授は「古くて新しい」問題だと指摘します。一方で、決定的に変質してしまった部分もあるといいます。大石氏に寄稿してもらいました。
2016年を象徴する言葉として「ポスト・トゥルース(脱・真実)」が挙げられ、至るところで使われるようになりました。「客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況」というのが、この言葉の意味するところのようです。
もちろん、こうした政治状況はどの国でも、どの時代にも存在してきました。事実を見つめ、理性的な判断を下す「市民」と対置される「大衆=マス」という言葉は、古くから使われていましたが、「ポスト・トゥルース」の状況に陥った人々を指し示しているという言い方も十分できます。大衆を指導、説得、操作、さらには支配するのが政治エリートです。政治エリートは、新聞やテレビといったマスメディアを用いて、すなわちマスコミュニケーションによって大衆を扇動するというわけです。
でも、こうした図式だけで民主主義社会を語ることはできません。マスメディアはジャーナリズムという機能をもち、社会の内外の動きを大衆に知らせるだけでなく、政治エリートを監視し、批判するという重要な役割を果たすことがあるからです。また、マスメディアを中心に世論が形成され、両者が一体となって政治エリートに影響を及ぼす可能性も存在するからです。
こう述べても、あまり説得力がないのは分かっています。マスメディアに対しては非常に厳しい見方が、すでに数多く示されているからです。マスメディアはずいぶん誤報しているのではないか、出来事の一面しか切り取って伝えているだけではないか、政治エリートとかなり近い関係にあるのではないか、利益をあげるためのセンセーショナルな報道が目立つではないか、といった批判がそれにあたります。
それでもなお、マスメディアはなんとか踏みとどまろうとしてきました。日本新聞協会の新聞倫理綱領には、「新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」という一文があります。日本の放送法では、「政治的に公平であること、報道は事実をまげないですること、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」といった条文が明記されています(この条文が、公平・公正・中立な報道を問題にする際の根拠になります)。
もちろん、ジャーナリズムが活動する場で、こうした倫理綱領や法律がそのまま実践されることはありません。だから、これらの規定は倫理的な、あるいはそれに向けて努力すべき目標だと言われています。これらを厳密に適用すると、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」、第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と抵触することになるからです。だからと言って、マスメディアは「真実の追究」を放棄しているわけではありません。多くの場合、事実を曲げない報道を心がけてきたと言えるでしょう。
情報社会という言葉は、日本では1960年代後半から使われるようになりました。モノに代わって情報が社会の中心に位置するようになるというわけです。政治の世界では、マスメディアの役割がますます増大するようになりました。「メディア政治」、「テレビ政治」といった言葉が日常的に用いられるようになりました。あたかも政治の真ん中にマスメディアが存在するかのような印象を多くの人が持つようになりました。
ところが、デジタル時代になってから、様相は一変してきました。インターネット、そしてSNSなどのソーシャルメディアが急速に普及するようになったからです。こうした「ニューメディア」は、当初はマスメディアに対抗するメディア、あるいは補完するメディアととらえられていました。マスメディアではすくえない、さまざまな声が新しいメディアを使って発信されるようになりました。実際、政治エリートに反発する一般市民が、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を通じて集い、抗議の声を上げるといった運動も生じるようになりました。世論形成の新たな道筋が開かれたという評価を行う人も出てきました。
でも、事態はそれほど単純には進みませんでした。あまりも開かれ、誰でも情報の送り手になれるネット空間は、さまざまな問題を生み出すようになったからです。限りない「発言の自由」を手に入れた人々は、無責任で感情的な意見をネット上に掲載し、多くの人を傷つけるようになりました。
その一方で、ネット空間はマスメディアの、そして従来型のジャーナリズムの「特権」まで脅かすようになりました。それまでプロのジャーナリストは、歴史の目撃者、あるいは立会人ということに誇りを持ち、時には危険をおかして取材を行い、ニュースを伝えてきました。ところが、事件や事故が起きた場所に居合わせた一般市民が、例えば被災者や難民たちが動画、写真、言葉でその状況をネット上に投稿するようになりました。そうした動画や写真が、マスメディアで使われることも当たり前になりました。
かつて新聞は、取材体制や陣容の厚さの点でジャーナリズムの中心に位置していました。その後、速報性という点で放送に遅れをとるようになりました。でも放送にしても、さまざまに訓練や教育を受けたプロのジャーナリストがいます。ただし、今起きているのは、それとは本質的に異なる変化です。というのも、ネットを通じて事件や事故の現場から情報を伝えているのは、プロのジャーナリストではない一般市民だからです。
ネットの時代になって、マスメディアのジャーナリズムは危機を迎えます。人々は情報入手の手段としてネットにますます依存するようになると同時に、ネット上で自分の意見を自由に述べるようになりました。批判の矛先は政治エリートだけではなく、マスメディアにも向かうようになりました。また、政治問題や社会問題に関しては、自分の意見と似通ったネット上の主張にアクセスし、異なる意見に接する機会が減るという現象が目立つようになりました。これは最近、「エコーチェンバー」現象と呼ばれています。その結果、世論の分極化が進むようになったのです。
ここで忘れてならないのは、この現象が比較的良質な情報を追い出す方向に作用しているということです。マスメディアのジャーナリズムは、確かに多くの問題を抱えています。それでも、なんとか踏ん張って社会に対して問題提起をしてきました。でも、そうした活動に対しても、「偏向している」、「偽善に満ちている」、「面白くない」という批判を浴びせ、その一方でネット上では「自由な」発言が飛びかい、それを互いに引用し合い、面白がる傾向がどんどん強まるようになりました。しかも、これだけグローバル化が進んできたにもかかわらず、人びとの関心の幅は狭まり、限定されるようになってきました。まさに「ネット大衆社会」とも言える状況が広がってきたのです。
英国のEU離脱、そしてトランプ米大統領を生み出す要因の一つとなったと言われる「ポスト・トゥルース」の政治とは、こうしたネット大衆社会の産物にほかならないのです。