川崎病とは川崎市でかかる病気ではなく❝日赤病院の川崎富作医師❞が1961年1月5日に発見した病気です。主に0歳から4歳ぐらいの乳幼児がかかります。筆者の子供が昔、発症した時には年間5000人から6000人が発症する難病といわれていましたが、今では1万4000人も発症する普通に起こりうる病気です。この病気の特徴は手足が赤くなることです。他の病気ではほとんど見られませんから注意が必要です。40度位の高熱が7-10日も続く傾向もあります。この時点で多くの人は風邪と間違えてしまいます。筆者が40度を超える高熱で不安になり動き始めたのは2日目でした。日赤の緊急外来に夜、行きましたが、看護師から風邪だと言われなにもされずに帰宅しました。翌日、翌々日も高熱が夕方発症し又別の緊急外来に行きましたが診てもらえませんでした。5日目又も夕方から高熱になり日赤に駆けつけ当時はやり始めたネットでの情報、手足の特徴を訴え懇願し血液検査をしぶしぶしてもらいました。子供が川崎病にかかった反面自分の主張が認められうれしくもなり、複雑な気持ちになった思い出があります。緊急入院させ翌日からアスピリン投与しましたが、熱が下がらず、投与量を増やしていきました。入院3日目に熱が下がり始めましたが、投与開始が1日遅れていたら心臓に障害が起こった可能性があったと言われ肝を冷やした思い出があります。下記コピーのような事実であれば、公害病です。今後中国PM2.5などの影響で川崎病を含めいろいろな病気が発症する可能性は否定できません。
(以下コピー) 子どもの病気「川崎病」は、中国北東部から日本へ吹き込んだ風が運ぶ物質が関与している可能性がある、との報告を、日米欧の研究チームがまとめた。原因究明の手がかりとなる成果で、米科学アカデミー紀要電子版に20日掲載される。
川崎病は全身の血管に炎症が起こる病気で、高熱や発疹を引き起こし、心臓に障害が残ることもある。1967年に川崎富作博士が報告した。日本では現在、年間約1万4000人が発症し、季節により患者数が変動する。
研究チームは、70~2010年の日本の川崎病調査のデータを活用、発症日と気流との関係を調べた。その結果、過去3回の流行期では、中国北東部からの風が強く吹き込んでいたことがわかった。流行期にこの風が運んできた微粒子を分析したところ、マウスの実験で川崎病との関連が指摘されているカビのカンジダ菌などが含まれていた。
研究チームの中村好一・自治医大教授(公衆衛生学)は「この風が通過する韓国では同時期の流行はない。川崎病には複数の原因物質があり、人種によって反応のしやすさが違うのかもしれない」と話している。
別添 川崎富作先生のインタビュー抜粋
小児科はまさに
学びの現場である
医学の世界に入ったのは、母の願いがあったからでした。7人の子供のうち一人くらいは医者になってほしいというその気持ちに応えて、あまり勉強が得意でもないのに医者を目指すことになり、当時の戦時下で、軍医を速成するために作られた千葉医科大学附属医学専門部に何とか滑り込みました。
しかし卒業する前に終戦を迎え、私は軍医になる宿命から解放され、千葉医大の小児科へ入局することになります。専門を選ぶのもハッキリした意志があったわけではなく、インターンとして内科、外科、小児科、産婦人科、眼科、耳鼻科、精神科などほとんどすべての科を回り、血を見るのは苦手だから外科はやめようなどと消去法で小児科医に決めました。恐らく自分をよく分からない若い時の選択というのは、そのようなものではないでしょうか。
少しでも早く収入を得たかった私は、その翌年の1950年に日本赤十字中央病院に勤務します。戦中戦後のひどい栄養状態が子供たちの体にもさまざまな悪影響を与えていて、本当に多くの患者さんが訪れていました。それでも先輩医師たちが入れ代わり立ち代わり指導してくれる中で私も診療経験を積み重ねていきましたが、医学の教科書にも載っていないような病に出合うことはありませんでした。
ところがある日、百日咳(ぜき)脳症で男の子が入院してきます。けいれんを伴い、呼吸が困難になるほどの咳(せ)き込みをするのです。乳児なら命にかかわるほどなのですが、その男の子は何とか危機を脱しました。しかし百日咳が良くなったのに血液の状態がノーマルにならない。おかしいと思い、上司の小久保裕先生に血液検査標本を見せると「ペルガー氏家族性白血球核異常」と即断された。教科書でも知らない病に始めて遭遇した瞬間でした。
診断できない病が
さらに存在する
この時まで私はその病名さえ知りませんでした。まったくの偶然ですが、この小久保先生こそ「ペルガー氏家族性白血球核異常」の症例を日本で初めて診断した方だったのです。実に幸運でした。
私は大きな驚きを感じましたが、それと同時に、臨床の現場で日々注意深く、粘り強く、一つひとつの症例と接することの大切さも身に染みました。ささいなことも見逃してはならない。そして正しい診断をすることこそ医師の仕事であると改めて肝に銘じたのです。
そして61年1月、私は別の新たな病に出合います。小児科医になって10年が過ぎ、ほとんどの病気を経験してきたのに、その4歳の男の子の病名が特定できないのです。症状は小児科では比較的ポピュラーである猩紅(しょうこう)熱によく似ていましたが、猩紅熱に特有の発疹がないのです。男の子は回復はしたのですが、私は「診断不明」という診断名を付して退院させました。
忘れもしないその翌年、当直の夜です。急患で来た子供の症状を見て、思わず「あっ!」と声をあげました。一年前にどうしても分からなかったあの男の子と同じではないか。私はこの時に、今までの医学書には書かれていない病気の可能性があると確信したのです。それが、後に私の名をつけていただくことになった「川崎病」との運命的な出会いでした。(談)
かわさき・とみさく ●特定非営利活動法人 日本川崎病研究センター理事長。1925年東京都・浅草生まれ。48年千葉医科大学付属医学専門部卒業。千葉医科大学小児科に入局後、50年日赤中央病院(現在の日赤医療センター)小児科、73年日赤医療センター小児科部長。90年日赤医療センターを定年退職後現職。67年雑誌『アレルギー』に「指趾(しし)の特異的落屑(らくせつ)を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜琳巴(りんぱ)腺症候群」(MCLS)50例を報告。79年『ネルソンの小児科学書』が独立病と記載。この疾患の最初の報告者である川崎富作の名前を取って「川崎病」と呼ぶようになる。現在も川崎病の治療、原因究明に取り組み続けており、講演のため全国及び海外を飛び回り、毎週3日間川崎病に関する電話相談に応じている。日本医師会賞、朝日賞、日本学士院賞、第1回小児科学会賞など数多くの医学賞を受賞。日本川崎病研究センター(電話 03・5256・1121)