『名も無く豊かに元気で面白く』

読んだ本、ニュース、新聞、雑誌の論点整理、備忘録として始めました。浅学非才の身ながら、お役に立てれば幸いです。

❝地獄のサバイバル❞「標高3700メートルの極寒地帯」墜落事故に遭難した学生たちの悲劇

2023-09-20 07:35:51 | 日記
 墜落した場所は標高3700メートルの極寒地帯、食料はほとんどゼロ、救助隊がやってくる見込みもなし……1972年、学生たちを乗せるチャーター機がアンデス山脈に墜落した「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」とはどんなものだったのか? そして、生存者たちが生き残るために取った行動とは?
 
1972年の冬、ある凄絶な事件が起きました。南米のアンデス山脈で、学生のラグビー選手団とその家族や知人を乗せた飛行機が墜落したのです。
 この旅行はチリのサンティアゴで親善試合を行うためのものでした。しかし悪天候のため航路を誤り、予定のルートを大きく外れて雪山に衝突したのです。
 友人や家族を乗せた楽しいフライトのはずが、墜落の際に45名中12名が死亡、その後も負傷者と体力を失った者から次々に死が訪れる悲劇に変わりました。
 事故当時、アンデスは天候が非常に悪い時期だったため、多くの若者が遭難した大事故にもかかわらず、救助隊はついに墜落機を発見できませんでした(副操縦士は墜落の直前、管制との通信でクリコを通過したと報告したが、実際はまったく違う場所だった)。

 乗務員はほぼ全員が墜落時に死亡、ラグビーチームの若者たちは厳寒の雪山に取り残され、食料の一切ない地獄のような状況下でサバイバルを強いられていきます。
 翼をもがれて墜落した飛行機は、かろうじてシェルターのような役割を果たし、生き残った若者たちは、床に寝そべって夜を過ごしました。しかし、高山の恐ろしいほどの寒さに苛まれます。
 飛行機の高度計から、彼らは海抜2100メートルほどにいると考えていましたが、高度計は壊れており、実際は3700メートルもの高さにいたのです。日本でいえば、富士山の頂上近くにいたようなものです。
「一瞬、一瞬、さまざまな形で、私たちは苦しんでいたが、最も大きな苦しみの基は、いつも変わらず寒気だった。私たちの体は、決して厳しい寒さに適応しなかった――人間の体には無理なのだ」(『アンデスの奇蹟』海津正彦訳、より)
 南米でも暖かな地域から来ているチームの学生たちは、多くが雪を見たことがなく、遭難したときの服装はワイシャツ程度。雪山は人間の生存可能性を超える条件で、食料も機内のチョコレート数枚と、ワインボトル数本しかありませんでした。
 寒さのため、生きる気力を失った者は眠るように亡くなり、生存の意欲はあっても体調がそれを許さない者は、錯乱状態になり、やがて死んでいきました。
 生存者で『アンデスの奇蹟』の著者の一人ナンド・パラードは、次のように書いています。
「私は自分の周りにさまざまに異なるあらゆる種類の勇気の形を見ていた。声高な勇気、さりげない勇気など、いろいろ見ていたけれど、生き残った誰もが、一瞬一瞬を、恐怖のうちに生きていたことを知っていたし、そういった恐怖を、自分なりの方法でなんとか凌いでいると知っていた」
 この遭難ではのちに世界中でニュースになる、仲間の遺体から肉を切り取って食べることまで行われました。一日生きるだけで、極限の精神力を要求する極寒の世界。雪と氷に閉ざされた高山には、動物や草などの食べ物は一切なかったからです。
 1972年、乗っていたチャーター機がアンデス山脈に墜落したラグビーチームの学生たち。捜索隊の救助は打ち切り、さらに残されたものたちを率いていたリーダーが死亡するなどの逆境下で、どうやって生き残ったのか? 

過度の堅実主義は人を殺しかねない
 事故直後のリーダーシップは、ラグビーチームのキャプテンであるマルセロ・ペレスが取りました。ペレスは機内を住む場所に整備し、負傷者を暖かい場所に集め、みんなを懸命に励ましたのです。彼の英雄的な行動は学生たちをパニックから救います。
「夜が明ければ、きっと捜索隊が発見してくれる――悲惨な夜をやり過ごす間中、マルセロ・ペレスはそう言いつづけていた。それで、いまでは全員が確信めいたものを抱いているのだ――じきに国へ帰れる、最大の試練は過ぎた、と」
 しかし、ペレスの予想は裏切られます。遭難から11日目の朝、無線通信機からラジオ放送を聞いていた彼らは、チリ当局が捜索活動を終了するというニュースを聞きます。冬のアンデスは悪天候が続き、10日を過ぎて生存者の存在は絶望視されたのです。
 キャプテンのペレスは、救助隊が来るという自分の信念が裏切られ、精神のバランスを失っていきます。一方で、自力で脱出をしなければと考えていたココやナンドは、自分の気持ちを切り替えて、状況を打破するための模索を始めます。
『アンデスの奇蹟』でナンドは、次のようにペレスの姿を描写しています。
「試合場規則(グラウンド・ルール)が変わったとき、マルセロ・ペレスは、ガラスのように壊れてしまった。暗い影の中ですすり泣いているマルセロを見守りながら、私は、はたと思い当たった――こういった恐ろしい場所では、過度の堅実主義は人を殺しかねない」
「私は自分に誓った――この山々に対して、知ったかぶりはやめる、自分の体験という罠にはまらない、次の展開を下手に予想しない。(中略)一瞬一瞬、一歩一歩を、絶えざる不安の内に生きていこう。もう失うものは何もない、何も私を驚かせることはできない」
 ラグビーという決められたルールの上で行うゲームでは、その「堅実」な人柄がペレスを優秀なキャプテン(リーダー)にしていました。しかし雪山にはルールを超えた予測できない過酷さがありました。ペレスは異なる現実に直面したとき、新たな現実が求めるリーダーとして豹変すべきだったのです。
 結局ペレスは自分を変化させられず、皆に「救助が来る」と信じさせた負い目もあり、自信を失い、リーダーの役割を放棄。彼はその後、雪崩に巻き込まれて死亡します。

極限状態では強権的なリーダーはいらない
 救助隊が来ないことをラジオで知り、ペレスが絶望してリーダーの役割を放棄したあと、自力脱出を主張していたナンドがなんとなくリーダーとして期待を集めていきます。
 しかし、彼はもともとリーダーとは程遠い資質と性格の持ち主でした。
「私はこれまでの半生で、そのような役割を果たしたことがなかった。私は、いつだって腰が定まらず、流れに任せ、人のあとについて歩んできた。いまも自分がリーダーなんてとんでもない、という気分だった」

 安易な楽観主義や、期待を過度に高めることは死につながると彼は理解していました。同時に、仲間もすでに極限状態だったことで、強権的なリーダーになろうとはせず、協調的に接しながら相手に動いてもらうことを心がけます。
「出発予定日が近づいてくるにつれ、私たち派遣隊の士気は上がり、任務成功への期待が高まっていった。だが、私はそういう見方に与くみしなかった」
「『あんまり楽観的にならないほうがいい』私は言った。『グスタボが言ったことを、覚えているだろう――斜面の高みから見ると、フェアチャイルド機は、氷河上のちっぽけな点だったと』」
彼は一貫して仲間の淡い期待を退け、自分自身も安易な楽観主義に陥るのを懸命に防ぎました。「あと少しで助かる!」と思い込めば、現実がその期待を打ち砕いたとき、自分の心も死に引き寄せられてしまうからです。
 ナンドは、相手がこちらの意見を否定すると、「それなら、私たちはどうしたらいいのか?」と率直に聞きました。このような会話からも、ナンドが相手に思いつかせる形で人を動かすことを狙っていることが見えます。
 彼は仲間の期待にも、色よい返事を一切しませんでした。自らの心を楽観主義の罠に落とさず、歩き続けることだけを貫徹し、ついに村に辿り着いて救助を求めることに成功したのです。

安易な楽観主義者ほど、苦難のときには早く死ぬ
 ナンドは、自著の中でも一貫して自分は典型的なリーダーではなかったことを描いています。では、ナンドのリーダーシップはどんなものだったのでしょうか。

【ナンドのリーダーシップ】

・八方塞がりの中で絶望せず、打開策として新たな目標を掲げた

・相手に思いつかせるように会話して、相手を目標と一体化させた

・安易な期待を持たせず、落胆により絶命するのを防いだ

・ただ一つ、目的地に向かって歩み続けることに集中した

「安易な楽観主義者が苦難では早く死ぬ」とナンドは言っています。厳しい指摘ですが、現実は私たちの期待通りに動かないことも多く、空想の世界よりも冷徹な現実に合わせる精神を持つ者のほうが、生き残る力を失わずに済むのです。
 ナンドは、「他力つまり、救助隊が来ることを祈り続ける」愚かさを悟っていました。だからこそ自らの力で脱出口を切り拓き、黙々とひたすら行動し続けたのです。
 極限の状況に打ち勝つリーダーシップは、このような行動ができる人のものなのです。筆者は映画でこのことを知りましたが、リーダーシップは状況に応じて異なるということでしょう。
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