今朝理趣法を修していて、四無量観の「心不可得なり、性相不可得なるが故に」のところや、本尊観のところで「そうだ自分の心も含めて森羅万象は『大いなるこころ』から出ているのだ」とひらめきました。よくわれわれは「『いのち』から出て『いのち』へ帰る」といいますが、今一つピンと来ていません。死んで命がなくなるのに「いのち」へ帰るとはどういうことかと思いますが「いのち」は「大いなるこころ」と同義語なのでした。胎蔵曼荼羅の八葉蓮華は心臓をあらわしています。すなわち「いのち」がこころの世界であり、仏であるといっているのでした。そして我々個々の心を含めて森羅万象は「大いなるこころ」が発生源なのでした。いや森羅万象は「大いなるこころ」そのものでした。我々の身心もこの「大いなるこころ」から出ているのです。理趣法でも「こころ」に本尊を観想し、本尊即ち衆生身であると観想します。こころは本尊であり衆生なのです。
考えると陽明学でも「心即理」といい、心の外の物事や心の外の理はないとしているようですし、唯識では「心外無別法」とか「三界唯一心」といいすべては「一心」が造り出したものであるとします。
栄西禅師は「大いなる哉、心(しん)や天の高きは極む可からず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕むものなり。 天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。(栄西禅師『興禅護国論』序 )」と喝破されています。
我々は宇宙の中にいると思っていますがそれは即ち「こころ」の中にいることであり、この「こころ」はいつも天地一杯に充満しており、生じるということもなく滅するということもなかったのです。
考えると陽明学でも「心即理」といい、心の外の物事や心の外の理はないとしているようですし、唯識では「心外無別法」とか「三界唯一心」といいすべては「一心」が造り出したものであるとします。
栄西禅師は「大いなる哉、心(しん)や天の高きは極む可からず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕むものなり。 天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。(栄西禅師『興禅護国論』序 )」と喝破されています。
我々は宇宙の中にいると思っていますがそれは即ち「こころ」の中にいることであり、この「こころ」はいつも天地一杯に充満しており、生じるということもなく滅するということもなかったのです。