後白河上皇高野山大塔御起請文は文治三年1187五月一日に発せられています。
以下,「宸翰英華」によると後白河上皇の起請文は「文治二年、五月三日、高野山僧鑁阿は世上の不安を一掃し併せて争乱により死亡した亡者の霊を慰めんがために根本大塔に於いて長日不断の金胎両部供養法を勤修すべきことを発願しこの日を以て後白河上皇の院庁に解状を奉呈しその用途支弁のために料所一箇所の施入を奉請した。上皇はその願意を嘉したまひ備後の国大田荘を施入になったが将来修法の断絶せんことを慮りたまひて翌三年五月一日五箇条の御起請を立てたまひ・・後監のために御起請の始めと末尾の日付とに御手印を加へられ宸筆を以て御法諱「行真」の御署名を遊ばされた。」とあります。
なおここで後白河上皇に直訴した鑁阿は密教辞典等に依ると、「平安・鎌倉時代前期の勧進聖。足利義兼が帰依し鑁阿寺/足利学校を開創。文治2(1186)年高野山根本大塔で行う金剛・胎蔵両部大法用途料として,後白河法皇から備後国(広島県)大田庄が寄進され,庄務の在り方について下文で寺家と民を「愍み・仰ぐ」関係と定め長く大田庄の中心的理念となった。」とあります。鑁阿は相当な方であったと思われます。一説に盲目であったとする説もありますが鑁阿寺の御影は目は開いているようです。
以下、後白河上皇の高野山大塔御起請文です。
「起請 高野大塔長日不断両界供養法條々事
一、 長日不断行法子細の事。右此の行法者、不朽の仏事、莫大の善果なり。一界別七十二口、両界合百十四口、殊置供僧所定也。一日夜間十二口僧、時々相替、各々勤べし。前人起座すれば後人即ち著せ。縦へ刹那と雖も蓋し其際無しむべし。一口六番を結び一僧五度充つ。終に而して復た始む。次第連綿、人多く勤むる少なきは修し易からしむなり。世季葉に及び、時末法に當も出家学道の人多しと雖も苦練修行の心猶ほ少なし。朝暮諸行起居作業、概して邪法となる。浄心に住せず。茲に因って天魔隙を伺ひ、波旬力を得る。衆悪の風、常に聲を振はせ業障の波やまず。都鄙騒擾、貴賤安きことなし。悲しんで悲しむべし。誠に奈何が欲せん。是に長日この秘法を修す、恒時に彼の群生を利す。善哉香花の恵、須臾も絶えることなく、鈴杵の梵響造次普く開く。云存云残、親しき無く疎ひ無く、悉く無始の罪を滅し、遮那の位を證す。凡そ厥結花熟し此の理を察し一味同心延滞することなからしむ矣。・・夫れ高野山は秘教相応の霊地、名称普く聞ふる浄域なり。大師聖霊金剛定に入りたまふ。以来花開き葉落ちて経るところ三百余廻の春秋、松の蔭、草の藉に契るところの者は五十六億の歳月紺殿綺閣の棟甍、眼左右に輝かし晨鐘夕梵の音聲、遠近に滿つ。爰に一大塔あり。其の勢は天に半し久しく瑜伽の行業を修し、利物利生の方便を廻らす。今この塔婆に就ひて敬してその壇場を飾る。際三会の下生を以て両部の上乗を伝ふべし。一印の功力なほ無量なり。況や数輩の勤においておや。一時の供養なほ殊勝、況や長日の御宇においておや。其の甚妙の因、誰か辺際を知らんや。抑々霊地各山多しと雖も仏事善根廣と雖も各々現世の福利を祈るのみ。未だ偏に後生の菩提を欣ひ当山において近住の侶永く公請の交を忘れ修するとkろの業、併しながら佛土の因となる。出離の営、これを去ること何行、故にここに於いて殊に此勤を致し臨終正念の宿願、順次往生の懇祈、一向専意曾って他念なし。彼の誓度衆生とは四弘の初門なり。秘密真言とは一実の直道なり。倩祈願の旨趣を思へ。誰か決定の感応を疑はんや。仰ぎ願はくは大師聖霊、伏して乞ふ護法天等知見証明哀愍聴許、罪障消滅、魔縁拂退、必ず万歳一期の終わりを以て速やかに四身一性の位を授からんことを。しかれば則ち三密の薫修、二儀ともに長久、五箇の起請一事と雖も失墜なからんことを。瞑して大師の照覧に任し顕叡慮の慇懃を盡すのみ。仍って起請すること件の如し。文治三年五月一日、阿闍梨行真(宸筆)起請」
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